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番外編1-4 Detoxification.

実喜が休憩室で大好きなロールケーキを頬張っていると、後ろから重たい腕に肩を組まれる。 「ぅぐっ...!」 「よぉ、久しぶり。」 この低くて気怠そうな声の主は1人。たっちゃんしかいない。 「たっちゃん!おかえり!実家どーだった?」 「あ?何で知ってんだよ。」 驚いたように実喜を見やると怪訝そうな表情を見せる。 「白川を頼む〜って言ってた時の顔で分かるよ。あーんな『行きたくねぇ〜』って顔してたら大体実家だもんね。」 真似するようにオーバーなリアクションを見せる実喜の首を辰公が締め上げる。 「くっ苦しいっ...!!たっちゃッ!」 苦しそうにもがく実喜から腕を離すと、ため息を吐いてはタバコに火をつける。 すぅと息を吸ってタバコの火をじりじりと燃やすとため息と共に煙を吐き捨てる。 二度目のため息。 「いつもどーり。最悪だったよ。嶺緒はどうだった?」 「“嶺緒”君のこといつのまに呼び捨てする仲になったの??」 ニヤリと笑み意地悪を言いながら、最後の一口、クリームの多いロールケーキの残りを口に入れようとした所で辰公がそれを咥えて奪い取った。 「あああーー!!!!!ばかばか!たっちゃんマジばか!」 「あんまっ。食うんじゃなかった。」 「美味しいって思わない人に食べられるロールケーキが可哀想だろーがー!」 怒った実喜が辰公の胸を叩くも、意に返さず実喜が跳ね上がるほど乱雑にソファに座った。 口直しと言わんばかりに、握ったタバコをすかさず口にすると、息を止めて水の中から出てきたようにタバコの煙を気持ちよさそうに体に入れる。 おれのケーキを奪っておいて、失礼なやつだ。 「で、嶺緒は。」 悔しそうに見つめる実喜なんて気にも留めずに質問を繰り返す。 そして相変わらずの暴君っぷりだ。 「んあー嶺緒くんヨかったよ。上手だし、優しいし。すぐ1番追いつかれちゃうんじゃない?」 何をきっかけにか、タバコを吸う辰公の目が深海に沈んだように暗く重くなる。 「そりゃよかった。」 嘘をついているような、表情と釣り合いの取れない言葉に、実喜は研修初日の嶺緒と辰公が重なって。あぁ、そういう事かと腑に落ちた。 「なんかあったんでしょ。嶺緒くんと。言ってみなよ。」 嶺緒も辰公も様子がおかしいのは2人の間に何かがあったに違いない。 嶺緒の服も、身体にも、マーキングのように辰公の跡があるのも、2人の間に何かがあったからだ。 にっこり辰公に笑むと、いつもは相談なんてするような性格じゃない辰公が、一瞬ちらと実喜を見て、真っ直ぐに何もない遠くを見て、目線を落として、煙を吐く。 そして重い口を開いた。 「俺はあいつ嫌いだ。」 「へ?」 好きだとか、惚れただとか、そういう話が出てくるのかと思えば全くの逆で、つい気の抜けた声が出る。 「俺が初めてあいつ見た時、きにくわねぇ、って言ったの覚えてるか?」 覚えてるに決まってる。 やけに苛立っていたたっちゃんの姿も同時に思い出せる。 たっちゃんが、嶺緒くんを辞めさせるんじゃないかとヒヤヒヤしたのを忘れるはずがない。 「覚えてるよ。心配したもん。」 たっちゃんが仕事が休みだった日に、嶺緒くんがボーイとしてデルタに入った。 それが今から、4ヶ月くらい前の事だった。 ___ 『お疲れ様です。』 通り過ぎ様に見えたその姿は、男にしてはあまりに綺麗で、女にしてはあまりにしっかりとした身体の、男。 一瞬だけ見えた透けた瞳が、白い肌に埋め込まれたガラスの様に綺麗で、白い和紙に滲んだ絵の具の様に彩る唇が艶かしく映った。 それは初めて、俺が”白川嶺緒“を見た瞬間だった。 「あいつ、誰?」 顎でしゃくる先には先程廊下ですれ違った、異様に姿の綺麗な男。 実喜は辰公の指し示す先を見ると飲んでいたパックのジュースから口を離して答える。 「あぁ、白川嶺緒くんね。昨日入ったんだよ。たっちゃん昨日休みだったから、知らないのか。綺麗だよね、彼。」 ボーイと共に客席の準備をする白川を見て、俺は何故かもやもやした気持ちが立ち込めた。 何か気に食わない。 釈然としないモヤモヤが初めて見た白川に対して立ち込める。 俺自身、何の理由もなく他人に苛立ったりはしない。 何か理由があるはず。でもそれさえもわからない。 「たっちゃんが新人(しんじん)気にするのも珍しいね。まぁおれも彼は気になるよ。αだったら、研修できるかなーーなんて期待してたのにさ。」 残念そうに肩を落とす百田に違和感を感じる。 “αだったら“? 同じαだと思っていたのにどうやら違うらしい。 「βか。」 「違う違う、彼あの見た目でΩなんだよ。」 その言葉に白川に向けていた目を凝らす。 他のスタッフに比べて頭一つ抜けた身長と容姿。おそらく俺と対して変わらない身長を持っている。 長い手足もその見た目も、α以外の何物にも見えない。Ωだなんて言われても、誰も信じられない容姿だ。 「残念だなぁ。αだったら、あんなに綺麗な見た目もあって、引っ張りだこだったんだろうけどさ。」 「いや、逆だ。αの見た目してるΩ、こんな異彩はねぇ。あいつは、誰にも手に入れることのできない才能を持ってる。」 あの見た目で、フェロモン振り撒いてみろ。 誰もあいつに敵わないだろう。 αは元来美しいものが好きだ。 こんな見た目のΩ、金持ちのα連中がほっとくはずがない。 こいつが舞台に立つだけで、αの客は群がってくるだろう。 「やけに褒めるね。珍しい事もあるもんだ。」 長めのうねった前髪から垂れた目を覗かせる百田がにこにこと微笑む。 俺らが従業員用の通路に寄りかかって話していると、作業を終えたボーイ達がぞろぞろとばらついた足並みで休憩室へ戻っていく。 『辰公さん、実喜さん、お疲れ様です。』 ボーイ達が口々に挨拶を言いながら横をすり抜けていく。 恥ずかしそうにする者や、嬉しそうにする者、緊張する者も。 ボーイ達にとってキャストは選ばれた人間しかなれない憧れの仕事だ。 特にナンバーワンの俺はボーイと絡むことは殆ど無い。ショーの直前まで休憩室にいる俺たちキャストは、準備中の客席を覗く事もない。出勤時間も違う。 雲の上の存在。 だから会えただけでこう言う反応をするボーイが多い。 でも———。 「お疲れ様です。」 こいつだけはまるで此方を見ていない。 目も合わせずに、決められた言葉を吐くような無機質な挨拶。 白川嶺緒だけはまるで俺らキャストに興味がなさそうにしている。 同期のボーイに見せるような笑顔はなく、光を反射するだけの生気がこもってない美しい人形の様な目でただ、挨拶をするだけ。 こんな態度とられたことはない。 俺の高いプライドがそれを許さなかった。 「気に食わねー。」 ぽつりと呟く俺の言葉に、百田がギョッと顔を上げる。 「たっちゃん、頼むから白川くんを虐めて辞めさす様な事しないでよね...!おれ結構彼の事気になってるんだから。」 百田が焦りながら俺の腕をぐいぐいと引っ張る。「わかったわかった。」と百田を引き剥がしながら俺は自分の中のα性が脈を打って動き出しているのを感じた。 「あの顔鳴かすまでは辞めさせねーよ。」 俺が表情も動かさず、真剣にそう呟くのを見て百田はゾッとした様な表情で俺を見つめていた。 「あーやだやだ、たっちゃんはほんと悪辣。いじめたら許さないかんねー!」 呆れたようにため息をついた百田は俺を置いて休憩室へと戻った。 俺はその足でそのまま事務所へと向かった。 「あかり、 「その顔は白川くん。見たんでしょ。彼面白いわよね。」 入って早々、アカリが心を読んだ様に言葉を遮る。 俺がどんな顔して事務所に入ったかは知らないが、とてもいい顔をしていたとは思えない。 「キャストは?志望してるのか。」 俺の言葉に肩をすくめて首を振る。 「興味なさそうなのよ。お金貯めて大学行きなおしたいんだって。こっちだって無理にキャストには誘えないわよ。」 残念そうに頬杖をついたあかりがチラリと俺を見る。 長い付き合いだからわかる。俺に何かを頼もうとしている目だ。 「なんだよ。」 「白川くんは逃したくないの。彼は才能があるあとは磨くだけ。彼が光ったところを私は見たいの。」 あかりが遠くを見つめる。 その先にはあかりと、褐色肌の顔立ちのはっきりとした男が肩を組んでデルタの前で映る写真が棚に置かれていた。 あかりの目は本気だ。 本気で白川嶺緒の輝きを、一番に期待した目。 見る目があるこいつがそう望むんだ。俺も感じた白川の異才をあかりも感じ取ったんだろう。 こいつのいいところは、従業員を金の為の道具だと思っていないところ。本気で一人一人の従業員を大事にして、期待している。 だから協力できる。 「白川はタイミング見てどうにかするよ。でも俺はあいつ苦手だ。あいつも俺の事嫌いだろうな。空気でわかる。」 「ええーじゃあ私か百ちゃんが頑張るしかないじゃない!そんなの無理よー!」 もがくようぬに身をジタバタと振ると、子供のように机に伏せた。 「とりあえず様子見だな。」 それから俺は偶に、白川を気にかけるようになった。 でも会話するようなタイミングは俺にはなく、ただ何度か店ですれ違うだけだった。 それでも、いつ見てもあいつは誰とも深く仲良くするような様子もなく、表面だけで優しく笑顔を向けて、全く自分の”意思“を見せない、人形のようだった。 だが、不思議と腕を擦りむいていたり、顔に薄くアザを作ったりと、”ただの人形じゃない“様子が垣間見られた。 ボーイといえど、顔に傷作ってくるなんて。 気に食わないとは思っていたが、どういう神経してるんだ。と、 これを理由に時間を作らせようと思っていた矢先に、あいつの喧嘩の場面に遭遇した。 休日、買い物からの帰宅途中にタバコを吸おうと小さなコンビニの外でタバコを吸っていると白川が店の方角に歩いてるのが見えた。 1人っぽいし、丁度いい。と、話しかけるつもりで後を追うと白川の声じゃない話し声が一つ曲がった路地の方から聞こえた。 だがとても、ただ話してるようには聞こえない、罵声と怒号。 あと200mで店だってのにこんなとこで喧嘩かよ。と苛立ちながらチラリと覗き込むと、追っかけていた白川が地べたにケツつけて囲まれていた。 助けようとも思ったが、一回痛い目見た方がいいだろうと、俺はタバコに火をつけて傍観を決め込む予定だった。 だが、嶺緒の服をひん剥いて、今にも輪姦(まわ)そうとする男たちの動きに俺は何故か激しく苛立った。 あいつは俺の物でもなんでもない。でも自分の店のキャストが犯されそうになって、“正義感”で助けるような、俺はそんないい性格でもない。 ただ、子供が楽しみに取っておいたお菓子を横取りされた事に腹を立てる様に、稚拙な感情で、俺は嶺緒を助けた。 助けたあいつの顔は、『助かった』『よかった』と言ったような安堵ではなく、『どうでもいい』と言ったような諦めの表情だった。 人生もう諦めてるって感じの、弱い奴の顔。 そんな様子が一瞬、自分の弟と重なって見えて、俺は無性に苛立った。 俺が最初に見た時から気に食わなかった理由はこいつのこの諦めた様な表情からだった。 金も権力も生まれながらに持っていた俺は、生まれながらに何も持たないΩの気持ちなんて知らなかった。 そんなΩの中でも、容姿に恵まれたくせに、こんな吐き捨てるような顔をして諦めたように生きているこいつを俺は許せなかった。 ΩはΩなりに生き方があるはずなのに、こいつは自分の力を喧嘩に使ってた。 こいつだったら、うちでΩのトップになれるのにそんなもん見えちゃいない。 普通は掴めない物に手が届きそうなのに気づいていない。 それを気づかせるつもりで、あいつとヤった。 物珍しさもあった。最初の動機はそれだけだった。 なのに気づけば手放せなくなっていた。 他の何も手が付かないくらい。 上手い飯ならなんでも食ってた俺が、一回食べれば味に飽きてた俺が、一つの料理を何度も頼むように、何度も食って。嶺緒を手にしている事に安心しきっていた。 でもそんな嶺緒は、俺が思っていた以上に内に秘めたものに輝きを持つ原石だった。 俺が手にした原石は、煌々と輝いて、皆のものに成ろうとしているのに、石を磨いた俺は、自分の手からその美しい宝石が離れる事を納得できないでいた。 見送り方も知らず、素直になれない子供のように当って、傷つけて、本当に情けない。 でも、結局のところ自分が嶺緒にどうして欲しいのか嶺緒をどうしたいのかは、真っ暗なまま何もわからないままだった。 ___ 「あん時の嶺緒は、何ににも期待してねぇみたいな、諦めたようなツラしてた。そういう顔のヤツが嫌いだった。でも今のあいつは...?」 「随分やる気が戻ったみたいだったね。」 元気かと言われれば違うが、確実に最初に見た時の誰にも関わらないような、誰も近づけないような雰囲気はもうない。 寧ろ優しさが垣間見えてきた程だ。 「もうあいつに俺は必要ねぇし、あいつはもうショーで使える。」 「んーまぁ確かに、嶺緒くんはこれからおれたちの手を借りずに成長していけるよ。」 腑に落ちないという表情の辰公がいつにも増して気怠そうに瞼を落としたまま、ただでさえ悪い目つきが光も入らず重く冷たくなっていく。 「あいつを、育てすぎた。」 「え?」 タバコの煙が嫌にもくもくとノイズのように視界に残る。 煙に覆われた辰公が、ひとりぼっちの子供のような寂しい空気を漂わせる。 「あいつはうちで1番になれるだろうな。そんな風にするつもりだったよ。でもいつからか、誰かに触らせんのも嫌になった...。」 実喜の言った独占欲は間違いではなかった。 辰公の独占欲の表れが、嶺緒のあの体の跡だった。 おれもたしかに嶺緒くんの魅力には言葉を飲んだ。でも毎日そばに置いておいた辰公は、その魅力に侵されたんだろう。 その毒を最初に飲んだのが、たっちゃんだったってだけだったのかもしれない。 こんな風に痛々しく苦しむ辰公をおれは初めて見た。 「醜いな。そしてあいつを傷つける形でしか距離を取れなかった俺は情けない。」 自分を責めるなんて事を今までして来なかった辰公が、罪悪感を感じている姿をおれは直視できなかった。 柄じゃない。こんなたっちゃんは柄じゃないんだ。 「今から仲直りできないの?」 実喜の言葉に「はは。」と乾いた笑いを出しては見ていられないような表情で眉を顰める。 「そもそも俺も嶺緒も一緒には居られない。俺はΩとは縁を持てない。嶺緒は口にはしてねぇけど、あいつは多分αはダメなんだ。今までずっとα相手に喧嘩ふっかけてたみたいだしな。真逆なんだよ。」 ”縁を持てない“のはたっちゃんの実家の、純血主義の事だろう。純血主義者のαはα同士での優秀な遺伝子だけを子孫に残したがる。Ωとの付き合いなんてできない。 そんな特殊な家庭でたっちゃんは育ってきたんだ。 「俺は一生相手は作れない。家の言いつけも聞きたくなければ、俺と一緒になる相手には不幸しか無いのも俺にはわかりきってる。お互いの人生が違ってればもうちょっといい未来もあったかもしれねぇな。」 まるで違う未来を期待していたかのような。 自分の産まれながらに持つ第二性を呪っているかのような。 複雑で壊れそうで、モヤモヤと渦巻く心を表すように、煙が灰皿から立ち上って消える。 空になったタバコのひしゃげたパッケージをぐしゃりと握ると、諦めたようにテーブルの上に転がす。 「たっちゃん...。」 たった1週間一緒に居ただけ。 それで済んでよかったんじゃ無いかと。 そんな励ましもかけ辛いほどに空気が重く沈んでいる。 おれが余りにも、同情するような目で見ていたのが申し訳なかったのか、たっちゃんはぎこちなく笑った。 「悪かったな。相談でもなんでもなくてただの愚痴だよ。どうしようもねーっていう愚痴。」 第三者が割り込んでどうにか出来る話でもなければ、当人達の中でも諦めが付いている、悲しい話だった。 誰も2人を幸せにはできない話。 それぞれが別々に幸せになるしか、この話をハッピーエンドには持っていけないだろう。 たっちゃんの高いプライドを曲げてでも、おれに聞いて欲しい、たっちゃんにとっても辛い事だったのかもしれない。 何があったかは、わからないけれど。 それ以上聞くのは野暮だった。 「あんまり気の利いた事言えないけどさ。早めに気づいて良かったんだと思うよ。お互いさ。」 「そうだな。....ありがとう実喜。」 聞き慣れない耳障りの悪い言葉にゾッとする。 そんな表情をたっちゃんに向けるとたっちゃんは怪訝そうにおれを見ていた。 「げぇ、たっちゃんそんなキモいこと言うの辞めてくんない?明日氷河期でも来ちゃいそう。」 「安心しろよ。二度と言うつもりねぇから。」 いつも通り、たっちゃんは冷たく言い放つとおれの肩を支えに立ち上がって、いつも通り気怠そうに部屋から出て行った。 それから暫くデビューした嶺緒くんとたっちゃんが一緒にショーに出ることはなかった。奇跡なのか、必然だったのか。 たっちゃんにとっては嶺緒くんと離れる時間は、侵された心を落ち着かせるにはちょうど良かったんじゃないかとおれは思った。 ___ 嶺緒がデビューしてから、3ヶ月が経った。 たった3ヶ月で驚くほど客をつけて、チップの量も新人とは思えないほどの量を稼いで、人気も鰻登りだった。 店がオープンして、今までにない程の嶺緒の人気ぶりに、あかりも俺も舌を巻いた。 だが当の本人は全くその数字に納得している様子はなく、何度も実喜やあかりに相談しながらショーの魅せ方について勉強している様子だった。 あいつは本腰を入れれば真面目にやれる。そういう人間だった。 「辰公!ちょっと事務所までいい?」 あかりから呼ばれて事務所へと向かう。 なぜ呼ばれたかは分からなかった。 俺は、忘れていた。最初にあかりに話した提案を。 事務所へ入ると、嶺緒がキャストのショーシフトを見ていた。 ショーシフトは、出勤日に合わせたショーの時間とその日のショーの相手が記されている。 前はペアでのショーは無かったから、毎度此処で相手を確認しなければならなかった。 大抵の人間は苗字で書かれているが、“井上”は2人いるから俺は”井上辰“と記される。 俺も嶺緒の後ろから、ショーシフトをちらりと見ると俺の名前と嶺緒の名前が一緒に書かれているのがちらりと見えた。...嫌な予感がする。 ちゃんともう一度、ショーのシフトをみようと思った時、あかりが事務所に入ってきた。 嶺緒と俺が並んであかりのデスクの前に立つ。 「この前言ってた件だけど——。」 ただの杞憂であって欲しい。 「嶺緒くんと辰公、前言ってたペアの件、今回貴方達2人から最初のペアとして始動していこうと思ってるの。」 勘は当たり、かなり気まずい関係のまま3ヶ月一言も交わさなかった俺たちがペアになる話が浮上してしまった。 ちらりと横を見るも、嶺緒は特に表情も崩さず昔のように貼り付けたように綺麗な顔ですましているだけ。 感情は全く読み取れない。 「いや...その話は....。」 断ろうと思った。私情で。 俺は初めて私情で仕事を断ろうとした。 だがそれを嶺緒が許さなかった。 「わかりました。」 驚いた。呆気に取られて、物を持っていたならば落としていたし、声が出ていたなら「はぁ?」と口に出していただろう。 でも俺はそんな声すらも出なかった。 嶺緒の目が、そうさせなかった。 私情で仕事を選ぶなというような目。 後輩からそんな目で見られて、ナンバーワンの、先輩の俺が、そんな情けないことは出来なかった。 「俺も、それでいい。」 嶺緒と辰公の返事にあかりは嬉しそうに笑顔を見せた。 「ほんと!?貴方達だったらもっとデルタをみんなに知ってもらえると思う!期待してるわよー!私が一番観たい、2人だったからきっと失敗はしないわ。」 色々とデルタの今後について構想を練っているあかりが、こんなにも嬉しそうにするのは珍しく、その反応を見て、俺はもう引くに引けなくなっていた。 「もしOKだったら、明日からお願いしようと思っていたの。明日からよろしくね。」 にっこりと満足そうに首を傾げたあかりに、嶺緒は無機質に「はい。」と答えると、あかりから「もう戻っていいわ。」と言われ部屋を出て行った。 「辰公、貴方にはちょっと話があるの。」 嶺緒の足音が事務所から遠ざかったのを聞いて、あかりは俺にソファに座るよう促すと対面に座って少しだけ真剣な面持ちで口を開いた。 「嶺緒くんは、貴方と同じで客受けもスタッフ受けもいいの。」 「それで?」 タバコに火をつける。 嫌な予感、二度目だ。めんどくせぇ。 俺の想像だと、嶺緒は俺と同じスタッフを辞めさせる原因になりつつある。俺とは違う理由で。 「彼に恋したってボーイの子が退職したいって言ってきてね。嶺緒くんにはその気はなかったみたいなんだけど、彼はみんなに優しいでしょ?だから....。」 「俺とペアにして、そういうのを防ごうってか?」 「そうよ。貴方と嶺緒くんだったら、他の子も夢見たりはしないと思うの。スタッフの子には気の毒だけど、嶺緒くんにも貴方にも手が届かない存在だとそう思って欲しいの。」 予想は的中。 結局あいつの生半可な優しさが、見た目と釣り合ってねぇことが周りを振り回してしまってる。 見てくれがいい奴が、そう周りに愛嬌振り撒くべきじゃない。 その点俺の周りの奴らは、一回限りのセックスで諦めがいいやつが多いが、嶺緒はそうもいかないだろう。 纏わりつかれたり、追いかけられたり、どんどん辞めてったりするんじゃないかとあかりも想像したわけだ。 「毒を以て毒を制するってか。まぁ俺がずっとあいつと居たら確かにあいつには近づき難いと思われるかもな。」 あいつの表情を見る限り、俺のことはもう気にしていないようだし、俺だけが我慢できればデルタにとってマシな方向に向かう。 あかりには恩がある。実家から逃げる場所を作ってくれた恩が。 俺は誰かの為に我慢したり出来るたちじゃないが、恩を返さない程クズじゃない。 「頼まれてくれる?」 「もちろんいいよ。お前には恩がある。これくらいの事はするよ。」 あかりがホッと胸を撫で下ろすように表情を緩める。 これで良かったんだと、少し前の事は忘れるんだと、デルタのために俺は嶺緒とのペアを引き受けた。 事務所を出てタバコを吸いに休憩室まで歩いていると、途中の通路で嶺緒が俺を引き止めた。 「ちょっと、話がある。」 また俺の嫌な予感が反応する。 今日は休む暇もなく俺の勘が働いている。 もう勘違いであって欲しい。 嶺緒の片手に見える鍵は休憩室の小部屋の鍵。 軽い控室になっている小さな休憩室の鍵だ。 何か話したいことがあるんだろう。 もう俺は別に話したい事なんかない。 寧ろ避けたいくらいだった。 歩いている途中、すれ違い様に会った実喜が俺と嶺緒が並んで歩いているのを見てギョッとする。 俺の表情を見て何か察したのか、気の毒そうな表情で俺の背中を見送るように立ち止まっていた。 小部屋に入るや否や、ドアが閉まった途端、嶺緒が仮面のような表情を崩して、頭を抱えてしゃがみ込んだ。 我慢していたんだ。 苦悶の表情で、どうしていいかわからないといいように苛立ちながら、頭を抱えて無言で、ため息だけを吐いた。 「....嶺緒。」 「あんたは平気なの?」 顔も上げずドアの前でしゃがんだままの嶺緒がぼそりと抱え込んだ膝の隙間から震えたような声を出した。 「仕事だから仕方ねぇだろ。」 「薄情だな。」 俺が何も感じないとでも?俺だってお前なんかと二度とセックスするつもりは無かった。でも仕事は別だ。 こういう時がいずれは来ると分かっていた。 まさかこんなに早く、しかもずっと一緒にとは思っていなかったが。 「駄々こねるな。子供じゃあるまいし。ただショーで一緒に出るだけだろ。」 「あんた俺とペアになるの断ろうとしてたろ。」 「そうだよ。どうして引き受けた。お前が自分から引き受けといてなんだよその様は。俺は断るつもりだった。一緒に断っておけばそんなツラにもならずに済んだんじゃねぇのかよ。」 言ってることとやってる事がめちゃくちゃだ。 意地で引き受けて、心は辛くなって。 そんな自分に心がついて行ってない。 今のコイツはガキと一緒だ。 俺の言葉に暫く静かになっていた嶺緒が立ったまま壁にもたれる俺を一瞥する。 「俺が一番になるためには、絶対にあんたが必要だった。だから受けた。」 嶺緒は辰公を超えるつもりでいた。 その上で必要な事を何度考え、考え直しても、辰公とのショーだけは外せないとの結果に至った。 一番苦手な相手を一番必要としている。 合理的な考えとは反対に、感情が辰公を拒否していたのだ。 「でもあんたにはもう抱かれたくねぇ。」 泣きそうな弱々しい表情で見上げる嶺緒が、俺のαとしての本能の琴線に触れる。 こんなに嶺緒を悩ませているというのに、俺の本能は俺の中でのたうちまわっている。 今すぐ手を出してしまいたい欲を抑えるように口元を手で覆った。 熱くなっていく体が素直に本能に組みしていく。 だが気取られる訳にはいかない。これ以上関係を悪くはできない。 「情けないツラするな。俺に抱かれる覚悟はあるか無いかの二択だけだ。それ以外はない。覚悟がないなら俺があかりに断りを入れてやる。」 もうその情けないツラを見たくない。 思い出す。抱かれている時のお前の顔を。 αを煽るようなその表情に自覚がないのが、性悪な俺よりもよっぽど残酷だ。 「俺の気持ちも知らないで...!!何回もヤってんだ。抱かれるのなんて、苦じゃねぇよ!そこじゃないんだよ...そこが問題なんじゃない....。」 威勢よく吠えたかと思えば、しおらしく泣き始める。 感情がぐちゃぐちゃになっている様子が手に取るように分かる。 俺の気持ちも知らないで? お前だって俺の気は知らないだろ。 ムカつく。 でもそんな気随のままに振る舞うのを我慢する。 こうなったのはそもそも俺の所為だ。 ひと呼吸置いて、しゃがみ込んだ嶺緒に目線を合わせる。 相手の立場に立つのも必要なんだ。 今はそういう時だ。 「悪かったよ。」 その言葉に少し反応を示すも俯いたまま顔を上げない。 言い慣れない言葉に、どうも落ち着かない。 こんなに謝罪が相手に聞こえているのか不安になる事も、どう思っているか心配になる事も今までにはなかった。 振り回されている。目の前のこいつに。 納得いかずプライドが許さない、それを堪える事で妙な気持ちがモヤモヤと曇らせ、不安を苛立ちに変えてきた俺はその感情を吐き出さないように耐えるしかなかった。 「もうこれ以上優しくしないでくれ。」 小さな穴倉の中から呟くように、膝を抱えたままの嶺緒が懇願する。 「わかった。」 「休憩室に入るまで俺に触らないで。」 「ああ。」 「ショーが終わった後も、俺に触らないで。」 「わかった。」 「プライベートで声掛けないで。」 「掛けない。」 「今までの事は、忘れて。」 最後の言葉に胸が重くなる。 忘れた方がいいに決まっているのに、無かったことにするのは何故か嫌だった。 「....。」 すぐに返事ができない。 少なくともただヤりたくてヤってただけじゃない事は、分かっていて、自分の中で何かが少しだけ変わろうとしているのに、それが分からず曖昧なまま、この関係を、その時の嶺緒を忘れるのは、嫌だった。 「...わかった、忘れる。」 それでも嶺緒がそう願うならそうするしかない。 言いたくない言葉を捻り出して、耐えきれず後ろのポケットに手を入れてタバコを探す。 ポケットに入っていたのは、空のパッケージとライターだけで、タバコは一本も入っていなかった。 逃げるのを許さないというように、空のパッケージが俺をいい気味だと、嘲笑うように見えて、苛立ちと不安で空箱を押し潰してはまたポケットにしまった。 「じゃあ...、これからペアで、あんたとショーに出るよ。...辰。」 顔を上げた嶺緒が、切なく眉を寄せて、泣き腫らした後に心配をしてくれた相手を気遣うような、複雑な微笑を俺に向けた。 そしてその時初めて俺は“辰公”ではなくて“辰”になった。 井上が2人いるから、仕方なく、分かりやすいように、記される“辰”。 嶺緒にとって、ナンバーワンになるために仕方なく組んだペアの、“辰”だ。

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