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第7話 サイアク。
「これとかどうですか?」
眼鏡屋さんで眼鏡を試着すると嶺緒がまじまじと芸能人の衣装さんのように、僕を見つめる。
「いや、これがいいよ。」
嶺緒さんが持ってくるメガネはその...個性が強すぎて学校につけていけないようなものばかり。顔を隠したい僕でも、流石にこのメガネは着けられない。
「眼鏡なんて!とか言ってたくせに、やけに個性的なのばかり持ってくるじゃないですか。」
僕が眼鏡を外すと途端に目を逸らし、試着し終わったメガネをノールックで受け取ってはまた新しい眼鏡を品定めする。
「また変な奴に突っかかられたら危ないだろ。なるべく顔がいいのがバレない様な眼鏡だとコレになるんだよ!」
「でもここまで個性的なのは似合いません!」
嶺緒は不満そうに別の棚から眼鏡を持ってくると僕の目の前に置いた。
「かなり譲歩してこれ。これよりあっさりした眼鏡はもう無理だ。」
顔を振った嶺緒さんはムッとした表情のまま腕を組んで僕を見つめる。
何が無理なのか分からないけれど、ムキになっているみたいだから、僕もとりあえず受け取った眼鏡を掛けた。
嶺緒さんは案外子供っぽい。
「どうですか?」
掛けた眼鏡で嶺緒を見ると細目で見たり顔を引いてみたり、横から見たりしてチェックを入れる。
「うーーーん、まぁいいよそれで。前の眼鏡より、似合いすぎてるけど。」
「なんですか似合いすぎてるって。」
僕は笑うと嶺緒も照れ臭そうに自身の頸を撫でる。なんだかデートしてるみたいで、さっきの事件の記憶も薄れていく。
こんな他愛もない会話が嶺緒さんとできる日が来るなんて、少し浮ついた気持ちになる。
「じゃあそれだけでもういいな?」
会計をしようと眼鏡のフレームを持って一歩前に出た嶺緒さんの腕を掴む。
「嶺緒さんだって綺麗なお顔隠すためにつけてみたらどうですか?」
四角い縁の、嶺緒さんに似合わなそうな眼鏡を奏は渡すと、嶺緒は嫌々眼鏡を掛けた。
「どう?」
予想以上に猫のように釣り上がった目にピッタリと合うメガネで、僕はいつもと雰囲気の違う嶺緒さんに見入ってしまった。
「えぇーと...。」
「似合わない。」と笑ってやろうかと思ったのだが、予想外に似合ってしまって意地悪な言葉が思いつかない。
そうこう悩んでいるうちに嶺緒が先に痺れを切らして眼鏡を外す。
「やっぱ俺眼鏡似合わない。俺のはいいや。奏のだけ買おう。」
遊びに飽きた子供の様に掛けた眼鏡をポイと元の場所に戻すと、僕の眼鏡のフレームを持ってカウンターでお会計をし始めた。
「レンズはいかがされます...か。」
僕、伊達眼鏡だからレンズの度は要らないんだった...。と断ろうと思うと、店員が嶺緒の顔を見て惚けた様にぼーっとしている。
嶺緒さん綺麗だもんね。こんなお客さん来たらそりゃ見惚れちゃうよ。
店員さんの気持ちを代弁しつつ、そんな嶺緒さんとデートをしている満足感が僕の気分を良くしていく。
「奏、レンズは?」
「あっ、実は僕、伊達なんです...。」
嶺緒は驚いた様にこちらを見ると、「そのままで大丈夫です。」と店員に答えた後僕をじっとりとした目で一瞥する。
なんで伊達メガネなんて掛けてるんだって顔。
じゃあいらねーって嶺緒さんは思うかもしれないけど、僕にとってはαに絡まれないための大事な変装道具なんだ。
僕がお金を出す前に嶺緒がカードを差し出すと一括で支払ってしまう。
何で眼鏡まで買ってもらってるんだろう。と思いながらも、素早く進められるお会計に僕はついて行けず支払いを任せてしまった。
「後で返します。」
「要らねーよ。」
べ、と悪戯に口から舌を覗かせると、受け取ったカードを財布へしまった。
最後に商品を受け取る、と言うところで店員がぴたりと渡す手を止めた。
僕も嶺緒も不思議がって顔を上げると、店員さんがモジモジと顔を赤らめて篭っていた口を開く。
「あの、お客様、白川嶺緒様ですよね...?」
店員の突然の言葉に、嶺緒が石にでもなったかの様にぴたりと止まる。
嶺緒“様”...?
嶺緒の顔を見上げると、冷や汗たらしながら、ぎこちない笑顔に変わっていく。
「え、えーっとまぁ....。」
嶺緒が気まずそうに自身の耳を触ると、店員が堰き止めた水を流す様に話し始めた。
「実はすごくファンなんです!!!綺麗だなぁ似てるなぁって思ってたんですけどまさか本物に会えるなんて!!ネット番組の方も、写真集も見ました!すごくエッチで素敵でした!」
ネット?写真集?エッチ??
不思議そうに嶺緒を見ると、他所行きの綺麗な笑顔で「ありがとう。」とはにかんでいる。
なんか、すごく怪しい。
「眼鏡凄く似合っていらっしゃいましたよ!是非、嶺緒様も眼鏡かけて下さいね!嶺緒様の眼鏡需要があると思います!!」
興奮気味の店員の話がなかなか終わらない。
嶺緒は早く話を終わらせたそうに足首に組んだ片足を小さく揺すって爪先を地面にコツコツと音を立てない程度に当てながら、笑顔はそのまま、でも僕の方を見ようとはしなかった。
「また今度買ってみようかな。今日は時間がないからまた今度ね。いつもありがとう。」
嶺緒がぺこと頭をさげると、笑顔で店をそそくさと出た。
「っサイアクだ...。」
店が見えなくなってから頭を抱え出した嶺緒が苦々しく眉を顰める。
嶺緒は何か“知られたくない事“があったのか今回の店員の発言を僕に聞かれてしまった事をかなり気にしていた。
「嶺緒様のお仕事が気になって来ますね。」
ニヤニヤと悪い笑顔を見せる奏が嶺緒を見つめる。
僕的には根掘り葉掘り嶺緒の事は知りたいけど、嶺緒が嫌がることはしたくない。
このハプニングは僕にとってラッキーな出来事だった。
「いい性格してるね奏。でも、こんな人がいる所で話せる話じゃないんだよなー。」
気まずそうな顔の嶺緒がハァとため息をつくと、これからどこに行くかとキョロキョロ辺りを見回しながら悩み始める。
「嶺緒のおうちは、どうですか?」
「結構グイグイくるねお前。」
言葉とは裏腹に、ちょっと嬉しそうな嶺緒は「まぁ近いしいいよ。」と結構すんなりお家に行く約束を取り付けてくれた。
今日はなんだか嶺緒と距離がグッと縮まったみたいで、家まで行かなくとも僕は既に満足だった。
僕たちが行った眼鏡屋さんの入った百貨店から歩いて10分ほどのところに嶺緒のマンションがある。
僕のマンションと違って広い間取りの高層マンション。ドアも指紋式だし、セキュリティもしっかりしてる。
そう言った点を考えると、嶺緒さんは芸能人なんじゃないかと思い始める。
顔も綺麗だし、身長も高いし、こんなおうちに住んでいるし。
嶺緒が僕が入りやすい様に家のドアを開けて、「どうぞ。」と招き入れる。
適当に靴を揃えて上がった嶺緒は無地のスリッパに足を入れると、棚から新しいスリッパをビニールから取り出す。
スリッパを渡された僕は黙って履いたけど、下ろしたてのスリッパに違和感を感じた。
「お邪魔します...。僕もしかして初めてのお客さんですか?」
「そーだよ?予備のスリッパ買っといてよかった。」
嶺緒がふと緩んだ笑顔を見せる。
初めてかぁ。と新鮮な気分に浸る。
僕も友達の家に上がるのは小学生以来だ。
嶺緒さんの家を見渡すと、とっても綺麗で、まるでショールームみたいで、悪い言い方をすれば生活感がまるでない。
買った時のままの様な綺麗なテーブルにも、椅子にも、花瓶や本が置いてあるばかりで汚れもなくてとても綺麗だ。
一人暮らしにしてはファミリー層が住む様な広い家で、綺麗なバスルームはガラス張りだが水垢も殆ど無いほどだった。
「どーぞ、お水。俺外食ばっかで冷蔵庫何もないんだよな。ごめんな。」
グラスが白く曇るほどキンキンに冷えた水が少しだけ興奮した僕の気持ちを冷ます。
冷蔵庫も何も入ってないんだ...。
恋人の気配がなくて少し安心...というか、なんというか。
水をついだついでに嶺緒が抑制剤を飲んでいるのを見て、僕もいつも飲んでいる薬をポケットから取り出すと3錠いっぺんに口に放り込む。
「奏も発情期なの?」
あまり詮索されない様に素早く飲んだつもりが、嶺緒に見られていた。
「終わりかけ何ですけどね...。」
本当は発情期の抑制剤じゃない。
でも、僕はこの薬についてあまり追求されたくなくて咄嗟に嘘をついた。
「だからαの同級生に狙われてたのか。なんかあったら言えよ。」
と心配そうに僕を見る。
ごめんなさい嶺緒さん。僕は狙われてたのはΩだと“思われてた”からなんだ。
ヒリヒリと痛むほど嶺緒の優しさが身に染みる。
「ありがとう。」
僕が返事をすると落ち着かない様子で部屋をウロウロし始める嶺緒。
じっと見ていると観念した様にストンと目の前に座り、「仕事の話だったな。」と嶺緒は自分の財布を開くと、中から黒い箔押しの重厚感のあるカードを差し出した。
「….俺の名刺だ。」
気まずそうに顔を逸らす嶺緒から渡されたカードを見る。
カードには白川嶺緒という名前と三角のマークに『Delta』と印字されていた。
『Delta』は有名なセックスショーパブ。そんな店に縁がない僕でさえ知っている程の有名店だ。
「俺はここでショーキャストとして働いてるんだ。」
おずおずと話す嶺緒が水を飲んだり、顔を覆ったり耳を触ったりとかなり落ち着かない様子で僕をみる。
それほど仕事の事を告げるのは、嶺緒にとって勇気がいることだったんだろう。
そんな嶺緒を見て僕が嶺緒を不安にさせる様な姿を見せるわけにはいかない。
「そうなんですね。どおりで綺麗な人だなと思いました。」
綺麗な人だなと思っていた。
でも耳にはいくつかピアスをつけていて、おしゃれで、きっとアーティストか何かだと僕は思っていた。
でもまさか有名なセックスショーの店のキャストだったなんて。
正直驚いているし、嶺緒がそうやって体を誰かに触られているのかなと思うと、正直...嫌だ。
でも、僕を嶺緒さんにみてもらう為には、嶺緒さんの全てを受け入れないといけない。
「嫌いになった?」
肘をついて頭を抱える嶺緒が俯いたまま怒られる前の子供のように聞いてくる。
「はははっ、お仕事に偏見なんてないですよ。寧ろ言いづらい事教えてくれて、僕は嶺緒さんと仲良くなれたことが嬉しいです。」
これは本当のこと。
嶺緒さんが歩み寄ってくれたのがわかる。ハプニングの結果ではあるけれど。
「.....そっか、よかった。俺はこの仕事にプライドを持ってやってきたつもりだけど、友達に打ち明けるってこんなに不安になるんだなって初めて思った。」
ふにゃりと安堵した柔らかい笑みを覆った手の隙間から見せると、ソファに思いっきりもたれかかる。
かわいいなぁ。こんな顔もするんだ、嶺緒さんって。
お仕事の事なんかどうでも良くなるくらいに、あったかい気持ちが胸を包む。
「それ、やるよ。なんかあったらそれ持って店来てくれたら、すぐ会えるからさ。」
僕が自然と名刺を返そうとする手を嶺緒が押し返す。
「え....ありがとうございます。」
嬉しい。
そんな感情が滲み出たのか、自然と頬が緩む。
今日だけでどれだけいろんな嶺緒さんを見ることができたんだろう。
そんな幸せな時間も、あっという間に終わりを告げて、嶺緒さんの仕事の時間が近づいてくる。
「奏、俺そろそろ仕事行かないと。」
申し訳なさそうに笑う嶺緒が腰を上げ、僕と自分のグラスを引き取り、シンクで水に漬ける。
「そうですよね...。もうちょっと居たかったなぁ。」
「まぁ、...いつでも来ていいから。」
背中を向けた嶺緒の声が少し口籠るように聞き取りづらくなる。
恥ずかしくて、はっきりと言葉にできなかったように。
嶺緒のそんな様子に僕も恥ずかしくなる。
「またすぐきます...!」
「ん、待ってる。」
振り返って少し微笑んだ嶺緒さんの笑顔に当てられそうになる。
脈打つ心臓がうるさくて、顔も熱くなって、バックにを乱暴に肩にかけると逃げるように立ち上がり部屋をでる。
「あ、奏、駅まで送ってくって。」
嶺緒も慌ててバックの取っ手を持つと、僕を追うように早足でリビングを出ると、玄関で一緒に靴を履く。
隣に座った嶺緒さんからふわりといい匂いがする。きっと洗剤の匂い。
さっき抱きつかれた時には気づかなかったけど、今は敏感に嶺緒さんの一挙手一投足が僕の目に焼き付いてくる。
「奏、...見過ぎ。」
「...あぁ!ごめんなさい!」
ハプニングがあったとはいえ抱きあったり、部屋に入ったりした事を考えると今更に恥ずかし
くなってくる。
駅まで歩いている途中も、隣にいるのに目も合わせられず、微妙な距離を保ったまま。
外はすっかり暗くなり始めていて、街灯も光り始めていた。
漸く駅まで、いや、もう駅まできて閉まって離れ離れにならなければいけないと、寂しくてチラリと嶺緒を見上げると、駅の近くでぴたりと立ち止まり僕の腕を掴む。
「れ、嶺緒さん...!?」
目線は僕ではなく駅の中へと向いていて、僕もその目線の方を向くと、男の人3人がこちらに気づいたように僕らに顔を向けた。
「やば...。」
小さく呟いた嶺緒さんが腕を引っ張って僕を背後に隠す。
きっともう丸見えだったし、僕はその人たちと目があったんだけれど、それでも状況がわからない僕は嶺緒さんの後ろに隠れるように立った。
「れお!」
3人の男性の中でも背の小さな男が駆け寄ってくる。
ぴょこぴょこと跳ねながら走ってくる男は嶺緒の目の前に立つと後ろの僕をひょっこりと覗き込む。
「だれ?」
僕よりも小さい男は不思議そうに、リスのようなくりくりとした瞳で僕を見る。
気まずそうに眉を顰めた嶺緒が、僕を隠すようにその男に背を向けると「奏、ごめん、今日はここでお別れかも。」と小さな声で呟く。
「...は、はい。大丈夫です。また連絡します。」
笑顔を見せると、嶺緒が申し訳なさそうに下唇を噛んで眉を垂らす。
きっと僕と一緒に居るのは、嶺緒にとって都合が悪いんだろう。
少し痛む胸を抑えて僕がその場から離れると、遅れて歩いてくる2人の男とすれ違うように駅へと向かった。
すれ違い様、二人の男の視線を感じる。
ちらりと横目に2人を見る。
ふわりと柔らかい雰囲気の人と、鋭い雰囲気の人。
僕は自然と、さっきの3人の中に泉さんが居たんじゃないんだろうかと勘繰って、心をもやもやと曇らせながら改札を通った。
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「ねぇ、れお、今の子かなでちゃんっていうの?」
隠したことを不思議そうにする元親が首を傾げる。
名前まで聞かれていたなんて。
「そ。はぁ...なんで居んの...?」
ため息混じりに一度目線を落としてまた上げると、泉と辰公が歩いて近づいてくる。
泉は去っていく奏を少しだけ追うように振り返りながら、辰公とスピードを合わせて歩いていた。
泉。気まずい。
視線はぼんやりと、泉の周辺に合わせて、泉を直視しないようにする。
気まずさを露骨に出さない様にするコツだ。
「随分可愛い子とデートしてんじゃん嶺緒。珍しいな、お前が仕事以外で誰かと一緒にいるなんて。」
辰公が問いただすような言葉を悪戯に吐く。
一瞥したあいつの顔は、試すような悪い顔。片眉上げて、重たい瞼で俺を見る。
こいつがいるのが一番タチ悪い。
泉の前で俺に何を言わせたいんだ。
「別に。友達だよ。」
冷たく返す俺の言葉に続いて元親が「かなでちゃんっていうんだってー!」と悪気もなさそうに笑顔で補足する。
チカとタツは本当にやりずらい。
チカに強くは当たれないし、タツは嫌味なやつな挙句に変に鋭い。
隠す理由はないにしても、余計なことを詮索されたくはなかった。しかも泉の前で。
泉は黙ったまま気まずそうに目を逸らす。
「ふーん。セフレじゃなくて?」
辰公の言葉に心の中で苛立ちが弾ける。
「奏はΩだよ。セフレなんてやんねーよ。」
語気鋭く言い放つと、泉がホッとした様に息を吐いて、辰公が眉を上げると小さく口角を上げたのがわかる。
してやられた。
泉を安心させる為に、わざと煽られたんだ。
ムキになったのがいけなかった。
本当にやりずらい。
「そ、じゃあいいんじゃねーの。俺らも仕事だし、早く行こうな、チカ。」
元親の腰に手を回すと元親が変わらない笑顔で辰公の横に並ぶ。
必然的に俺と泉が横に並ぶ。
気まずい。物凄く。
「えぇと...、嶺緒ってお友達意外と居るんだね。」
普段通りに接しようとする泉が下手な言葉選びで俺に話しかける。
「友達なんて、あいつかお前しかいないよ。」
目線はまっすぐ歩く先を見て、なるべく泉を見ない様に意識する。
今からこいつと仕事なのに、気まずい気持ちを持ちたくはない。
「奏くんとは、最近の付き合いなの?」
「...まぁ、そうだな。」
「...そっか。」
沈黙が続く。
静かで、街の喧騒しか聞こえてこない筈なのに頭の中は奏や泉のことで頭がいっぱいで言葉や文字がぐちゃぐちゃと絡まり、順序立てて考えることが難しくなる。
あっという間にたどり着いた店の裏のドアを辰公が開けると、俺も泉も静かにドアを潜る。
今日もいつも通り泉と仕事。こんな状況だけど、仕事とプライベートは別だ。
入り口横の事務所前に行くと、ショーシフトが新しく張り出されており、キャストやボーイが群がっていた。
「え...どうしたんだろう。」
泉が不安そうに呟く。
ショーシフトは月初め、もしくは月末に張り出されるもんだ。
まだ今月は終わっていないのに、もう張り出されるなんて、様子がおかしい。
他のキャスト達も集まって見ている中、見えづらいショーシフトに目を凝らすと、俺の名前の欄に他2名と書かれているのが見える。
しかも、今日の日付から1ヶ月間ずっと、“ショー”ではなく“稽古”と書かれているのだ。
「は!?」
思わず声を上げると、ショーシフトの周りに集まっていたキャスト達が俺の方を振り返る。
キャストや、関係のないボーイ達までもが、俺が1ヶ月ショーに出ない事を口々に噂として広めていく。
稽古はコンセプトショーを行う時に稀に書き出されるシフト項目だ。
1ヶ月もコンセプトショーの稽古を行う事も珍しいのに、3人出演でしかも泉なしなんて俺には始めてのことばかりだ。
するとキャストの1人が「嶺緒さん、オーナーが呼んでますよ。」と声をかけてくる。
スタッフやキャストの人だかりを掻き分けて行く中で、泉と目が合うが、どんな顔していいかもわからずそのまま事務所へと向かうと、既に事務所のソファに2人のキャストが腰掛けていた。
「お、きたきた。」
「うーっす、お疲れ様です。」
1人は嬉しそうに手を振り、1人は嬉しそうに手を挙げる。
ソファに横並びに座っている2人は、俺と顔馴染みのキャスト、北尾一と石黒佑月だ。
北尾は同期で、石黒は後輩。
だがこの2人、普通のショーキャストじゃない。
月に数回しかないSM系専門のショーキャストだ。
舞台上では殆ど関わりのないキャスト...の筈なのに、俺と一緒に集められていると言うことは...。
「...まじで?」
呆気に取られて掠れた声が出る。
立ちすくんだ俺とは対照的に2人は歓迎ムードで混乱する。ただでさえ泉の事で頭がいっぱいなのに。
「嶺緒ちゃん、入って、んでドア閉めて。」
オーナーの町田さんが俺に指示する。
ハッと我に返ってドアを閉めようとすると、キャストやらボーイやらが興味津々に事務所を覗いており、俺と目が合うなり蜘蛛の子を散らす様に一斉に事務所から離れていった。
バタンとドアを閉めて、ついでに鍵も掛ける。
掛ける必要はないんだろうが、つい聞かれたくない一心で鍵を閉めた。
「ショーシフトみた?」
笑顔の町田さんが俺を見る。
見たから来てんだよ。
そう言いたい気持ちを抑えて頷く。
「1ヶ月後に、SM系コンセプトショーしようと思って。嶺緒ちゃんに出て欲しいのよね〜?」
甘えた様な猫撫で声を出す町田さんをじっと怪訝そうな目で見る。
「ダメかしら?SM系では人気な2人をつけてもっと賑わったらいいなーって思ったんだけど...。」
「俺、痛いのも汚いのも無理だけど。」
俺が口を開くと、町田さんが水を得た魚の様にイキイキと話し始める。
「そこは勿論大丈夫よ!1ヶ月の稽古は稽古というより猶予なの!SMのどこまで嶺緒ちゃんが大丈夫か確かめる為に設けた時間みたいなもんよ。」
「いやまぁ...そうだとしても...
「お客様が、見たいと言ってるのよ。嶺緒ちゃん。αには特殊な感性がある。人並み以上の征服欲が有るのは知ってるでしょ?今の平等化社会ではαも生きづらくなってる。そんなご時世で、ショーくらいそんな欲を満たしたい人間がうじゃうじゃいるの。」
確かに町田さんの着眼点は鋭い。
αとβとΩが平等に扱われようと変わってきたこの世の中で、αは征服欲を抑えて、Ωは従属したいという気持ちを抑えて生きている。
第二性がαやΩに生まれれば、βよりもその欲は強くなる。
平等を望んでいる世の中の一方で、本能は押さえつけられているのが現状だ。
その吐き出し口が俺らのような風俗業に着いた人間なんだ。
SMコンセプトは、きっと現代社会でストレスを抱えているαとΩには刺さるだろう。
「まぁ、俺たちも嶺緒さんの限界のライン越えないようにやるんで、心配しなくても大丈夫っすよ。ねぇ?北尾さん。」
機嫌の良さそうな石黒がソファにもたれながら、北尾を見ると北尾は優しい笑顔で「大丈夫だよ嶺緒。」と合わせる。
「....本当に大丈夫?」
北尾、石黒、そしてオーナーを見る。
不安しかない。
「大丈夫大丈夫!」
オーナーが俺の機嫌を取る様に笑顔を振りまく。
時代の流れとして、SMに人気が寄ってくるのは仕方のない事だ。
俺もいずれはそっちのショーに転向しなければいけないのかもしれない。
「はぁ...わかった。でもこれ以降やるかどうかは今回のショー1回やってから決めるから。」
俺の仕方のなさそうな承諾にも、オーナーは嬉しそうに拳を握る。
「さすが嶺緒ちゃん、期待してるわよ!今回は話題性を生みたいから、1ヶ月ショーはお休み。代わりに稽古として石黒くんとはじめちゃんに、プレイの指南とどれくらい出来そうかの確認をとってもらうから。今日から3人、1ヶ月チーム組んでもらうから。仲良くしなさいよ?」
オーナーが期待と共に俺の肩に手を置く。
「よろしくね、嶺緒。」
「嶺緒さん、お願いします。」
2人が続けて挨拶の言葉を口にする。
「んー...、よろしく。」
正直、性格的に石黒も北尾も俺は得意じゃない。
2人ともSMの責め側のキャストなのだ。
俺を獲物を見る様な目で見て来るのがすごく苦手だ。
石黒はまだβで後輩だからいいけど、北尾は同期だしαで遠慮も無さそうなのが...怖い。
「じゃあ今日はヒアリングして、実践できそうだったらやってもいいし。台本は今作ってもらってもうちょっとで上がってくる頃だから3人で仲でも深めておいてちょうだい。」
町田さんはそういうと、休憩室の鍵を一つ、2人の座るソファーの前のテーブルに置く。
「嶺緒ちゃん初めてだから、慎重にやるように!以上、解散!」
2人は腰を上げると、鍵を持って事務所の出入り口へと歩き出す。
北尾が自然と俺の腰に手を回してくる。
来た。こいつのこういう所が苦手だ。
「北尾、俺忘れてねぇからな。お前が以前俺の事ことおふざけでも噛もうとした事。」
牽制。北尾を睨むと、ニヤついた目がギラギラと滾っているように見える。
嫌いだこの目。牽制も意に介さない、“お前は俺よりも下だ”と、そういう様なαの目。
「おや、そうだったかな?...あぁ、あんまり可愛く泣くもんでつい...そういう事もあったね。」
からかうように笑むと、石黒が俺の傍から入り込んできては俺と北尾の間に割って入る。
「ちょっと!北尾さんばっかずるいっすよ、しかも噛もうとするなんてサイテー。俺はそんな事しないですからね!?」
俺を腕に抱いて守る様に石黒が振る舞うと、北尾が軽薄な笑い声を出す。
「ははは。石黒くん、嶺緒とヤった事ある?無いでしょ?」
「おい、北尾やめろ。」
余計な事は言うな。
北尾と俺は同期。デルタが急成長して人が足りない時に大量募集した時に入ったボーイの成り上がり。
つまり、辰公との事も噂で知っていれば、俺がキャストになってすぐにキャストやらスタッフやらが俺絡みで辞めていった事も知っている。
こいつが何を口にするか知れたもんじゃない。
「嶺緒は、“惚れさせる”天才だから。気をつけな。」
三日月のように細めた目で俺を見る。
北尾の嫌な目から顔を背けると、廊下で少なくなった人集りの中の泉と目が合う。
少し遠くて泉の表情が読み取れない。
俺を抱きしめる石黒を見て、泉はどう思ってるんだろうか。
2年間一緒にやってきてはじめての事に戸惑っているんだろうか。
泉の気持ちを目から読み取る前に、石黒に引かれて廊下を通り過ぎる。
こんな時に、ごめん泉。
俺はただ、泉が落ち込まない事を祈るばかりだった。
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