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第8話 SなネコとドSなキツネ

何でこのタイミングなんだろう。 嶺緒の周りにどんどん、人が集まってくる。 奏くんもそう。プライベートで友人と居るなんて嶺緒には珍しいのに。あんなに仲良さそうに...。 でも問題は一だ。 僕に見せつける様に嶺緒の腰を抱いた。 僕と目があった時も、一は僕に笑ってみせたんだ。 人生で“怒り”って感情を僕はあんまり持つことはなかったけど今回はすごく腹が立って...悔しい。 ぎゅっと拳を握ると、元親が心配そうに僕を見つめてくる。 「おい、泉。正気か。」 元親の後ろから辰公が顔を覗かせる。 大丈夫か?と心配するつもりで言っているんだろう。辰公は言葉選びが下手だ。 でもそんな言葉でも、辰公なりの優しさを僕は感じる。 「正気、なんとか。僕もしかしてペア外されたの?」 僕が言い寄っているのが迷惑だった? いや、それだったら嶺緒はあんな申し訳なさそうな顔しない。 何が理由でこんな大幅な変更になったんだろう。 困惑する頭の中で、何度も嶺緒の顔と一の顔がちらつく。 「いーや、違う。あかりが話あるってよ。シフトのことだろ、聞いてこいよ。」 辰公は何か知っているように、特に不安もなさそうにいつも通りの表情で僕にそう言った。 「うん...。行ってくる。また後で。」 そう告げて手を上げると、元親が僕に手を振った。 「ごめんね〜泉ちゃん。急な変更びっくりしたでしょ?」 町田さんの予想外な反応に面食らう。 もっと真剣な雰囲気で話されると思ってた。 「実はね、雪ちゃんのデビューが来週に決まりました!!!」 町田さんが嬉しそうに手を挙げる。 「ほ、ほんとですか!?」 僕も嬉しくなる。すぐには心はついていかないけど、ボーイとしても頑張ってた雪が、よく僕に相談してた雪が、ちゃんとデビューできる事がじわじわと実感となって嬉しく思えてくる。 「そ!んで、雪ちゃんのデビューはショーのトップに持ってきたいの。そうなると、No.1とNo.2がその後出ちゃうとせっかくのデビューが薄れちゃうでしょ?だから、嶺緒ちゃんには、この日の最後のステージに立ってもらう事にしました〜!最後にあるSMのショーでね。」 いつもはトップで出る嶺緒に敢えて、一部の観客しか見ないSMをやらせる事の話題性と雪のデビューをぶつける事で多くの観客の動員を狙う。 町田さんらしいやり方だ。 なんだ、僕が外されたわけじゃなかったんだ。 ほっとすると、涙腺から漏れ出るようにじわりと涙が滲み始める。 「わわっ、泉ちゃん!?大丈夫!!?」 オーナーが慌てて僕に近づいて涙を拭う。 みっともないなぁ、上司の前で堪え切れずに涙を流すなんて。 「すみません...なんか安心しちゃって...。」 急に泣き始めた僕を、町田さんは慰める様に優しく抱きしめながら頭を撫でた。 「泉ちゃん、泉ちゃんが嶺緒に特別な感情を持ってるのは知ってる。ごめんなさい、急にシフト変えちゃって。私も悪かったわ。」 僕が嶺緒を特別な感情でみているのに気づいていて、それでも心配をしてくれた気持ちに申し訳なさと嬉しさがいりまじる。 うちはキャスト同士の恋愛は制限されていない。 でも大抵上手くいかない。やはり、恋人となるとこの仕事を続ける事へ嫌悪感を感じはじめる者も勿論いるのだ。 町田さんは、キャストを愛しているとは言え、一人一人の私情を優先してシフトを決めたりはしない。 それでも僕の事を、心配してくれて、こうして僕を慰めてくれてる事に町田さんなりの優しさを感じた。 「すみません...なんか、雪のことは嬉しい事なのに、それよりも、嶺緒の事で安心して泣いちゃうなんて...情けないですね。」 「いいのよ。いいのよ。人を好きになるのは、大事な事。泉ちゃんは今までたくさん頑張ってくれたから、本当にキツかったら休んでもいいのよ?」 母親宥められるような優しい声色に僕の心も徐々に落ち着いてくる。 「大丈夫です。僕は。嶺緒にSMが出来るのかどうか...そっちの方が心配です。」 「嶺緒ちゃんが無理しない様に長めに考える時間渡すつもりよ。その間、泉ちゃんには雪ちゃんのデビューまでの1週間を担当して欲しいの。お願いできる?」 そうなると、嶺緒は1ヶ月、僕はその最後の1週間デルタのショーから消える様な形になる。 最終週に関しては実質、No.1、No.2の不在だ。 このトップ2人の不在は辰公と嶺緒が休んだ時以来の事だった。 「大丈夫です。僕は僕なりに、雪がちゃんとデビューできるように頑張ります。」 「ありがとう、雪ちゃんは泉ちゃんと仲良さそうだったから助かるわ。」 子供を褒める様に僕の頭を撫でると気合を入れる様に肩を両手で叩かれる。 「よし、じゃあ、よろしくね泉ちゃん。何かあったら遠慮なく言って。」 「はい。」 気合を入れる様に叩かれた肩で、僕も気持ちを入れ替える。 嶺緒は、大丈夫。 拒否もできたはずなんだ。でも受け入れたんだから嶺緒は大丈夫。僕が心配する事じゃない。 大丈夫...。 僕は僕で、雪のデビューのサポートをするだけ。 何度も言い聞かせて自分の気持ちを嶺緒から離す。 「はぁ〜、頑張らなきゃ。」 事務所を出ると、泣き腫らした顔を消すように両頬を叩いて気合いを入れた。 ___ 「じゃあまず自己紹介から、俺は石黒(いしぐろ)佑月(ゆづき)です。イプシロンNo.2の責め担当。お願いします〜!」 垂れた目とは対照的に釣り上がった眉が印象的な顔。八重歯のある活発で明るそうな見た目をした石黒が、明るさそのままに自己紹介をする。 イプシロンとは、デルタの系列店の事だ。 今から2、3年前に出来たアブノーマルなプレイを好む人向けの隠れたショーパブ。 元々デルタで働いていたメンバーもイプシロンに移籍したり、ゲスト出演したりと深い関わりのある店だ。 石黒と北尾は最初こそデルタで働いていたが途中で移籍したキャストだ。 「北尾(きたお)(はじめ)。嶺緒とは同期で、BDSM系のNo.1。僕はその中でもディシプリン、ドミナンスが趣味。宜しくね。」 北尾は狐の様な目で俺を見てはにっこりと笑む。 少し細めで釣り上がった目尻と水彩画のように薄い色素が怪しく見せる。 こいつの事は石黒よりも前から知ってるが、何を考えているかわからない感じがどうも苦手だ。 今いる部屋は所謂プレイルームと言われる部屋で、俺らが使う休憩室とは違って、SMプレイヤー御用達のおもちゃやらグッツやらがびっしりと並んでいる。 手枷やフックや、鎖なんか、そう言ういかにもって感じの部屋の中で今俺は責め2人に囲まれて話をしている訳だ。正直気が気じゃ無い。 「まずその、ディシプリンとかそう言うのが俺分かんないから....SMも痛そうとかで良い印象ないし。」 やりたく無い。と言った雰囲気を出す俺に対して、石黒も北尾もやけに楽しそうにしている。 子供が今から、新しいおもちゃで遊ぶ様な、そんな雰囲気だ。 「それについてはー、俺が説明しましょう。まずはその辺知ってもらってから、俺らの関係が始まりますからね。」 意気揚々と買って出た石黒がにこにこと、説明員の様にありきたりな笑顔で話し始める。 「まずSMって言ってもジャンルがあります。主にBDSMって言われるんすけど、これは大まかな嗜好の種類を頭文字で取ってる感じで、俺は“D”には興味がない。逆に北尾さんは“D”がメインって感じっす。 “D”っていうのは、ディシプリン、ドミナンスの2種類っすね。主に支配や、躾って感じです。俺は大好きな子といっちゃいちゃしつつも、激しいセックスが好きなんでSMに居ますけど、“D”をメインにしてる人は、恋人の私生活から全て支配したいと考える人も多いです。まぁただのプレイじゃ収まらない領域の人が多いですね、ドミナンスとかディシプリン嗜好の人は。」 嗜好を聞いて納得。 北尾のただのαの雰囲気とは違う、穏やかさの中に隠した独特で高圧的な雰囲気はこの特別な嗜好から発せられるものだったと思わざるを得ない。 そう思うとやっぱり北尾との合わなさを感じてたのはその雰囲気を自然と俺が感じ取っていたのが理由だったんだろう。 「じゃあ、他のBとSMは... 「Bはボンデージの略っすね。拘束嗜好っす。俺はまぁ、セックスの延長線で縛る分は好きっすね。なんで、Bは俺の嗜好の範囲内って事になります。SMはよく知ってるサドマゾSとM。まぁー...俺はサドですけど、人によってサドの程度もマゾの程度も違います。その辺は結構曖昧で難しいとこ多いです。」 とりあえずSMについての理解は出来てきたような気はするものの俺はマゾでもないし喜んで受け入れられるもんでもない。 だが恐らく、いや確実に俺はこの2人を相手に受け側としてショーに出る事になるんだろうと思うと、今から胃が痛くなりそうな思いだ。 「んで、俺の趣味はどっちかって言うと痛みを伴うプレイはあんまりやんないで、ひんひん泣いて善がってるの見るのが好きですね。あ、嶺緒さん引かないで下さいね?」 説明しながら、カミングアウトした途端俺の手にそっと手を重ねる。 責め側のくせに子犬みたいに見つめて、本当に嫌われたくないのが伝わってくる...が、ひんひん言わされんのは趣味じゃない。 「まぁ、引きはしないけど....。」 引きはしない...けど、未知の領域に足を踏み入れている感覚に警戒を解くことはできない。 ずっと獲物として狙われているような感覚が離れず、緊張状態は未だ解けることはない。 握られた手をさりげなく引くと、石黒のピンと尖った耳が垂れる。 「ともかくかなり幅広いんすよ。そして相手の許容範囲もシビアっす。ここ越えちゃうと、ただの暴力になるって言う様なギリギリのラインで俺たちはやってるんで、意識のズレを防ぐ“セーフワード”ってのがあって。そのセーフワードを受け側から言われたら、責め側はその行為を即中止します。受け側の限界って事っすからね。」 つまりは“セーフワード”っていうのが、受け側が責め側へ限界を通告する為の言葉という事のようだ。 その言葉が無ければ、いくらMでも辛いと感じるほど過激になるSも居るという事。 受け側の限界と快楽の境を上手く綱渡りするのが攻め側の必要な技術となる。 案外SMも単純じゃないみたいだ。 「ふぅん、成る程ね。そのセーフワードは主に何にしてんの?」 「「Red」」「っすね。」「だね。」 “Red”という言葉で北尾と石黒の声が重なる。 どうやらSM界隈ではこのセーフワードというのが共通認識らしい。 「あとは“Yellow”かな。責めがキツくて弱めて欲しい時に言うんだよ。」 補足するとその言葉が発されるのが楽しみとでも言う様に北尾が俺を見つめる。 俺にその言葉を使わせる気か? 冗談じゃないぞ....。 「”やめて“とかじゃダメなの?なんか急に“Red”って言うのも変じゃないか?」 俺の単純な意見に、石黒と北尾は互いを見合うと声を出して笑い始める。 状況がわからない俺はぽかんとしたまま、何故か屈辱的な気持ちになってくる。 バカにしてるなこいつら。 「“やめて”なんて、俺らからしたら“もっとやって”と一緒っすよ!」 ゲラゲラと腹を抱えて笑う石黒の横で、北尾が声を抑えて肩を震わせる。 「っくく...嶺緒、君にそう言われた僕は喜んでもっと酷くするよ。」 対面のソファに座る2人が、無知な俺を小馬鹿にするように身を捩って笑うのにみるみる腹が立ってくる。 俺がそんなの知るわけねーのに。 「うるさいなぁ、わかんねーよそんなの。」 むしゃくしゃしながら答える俺の横に石黒が座ると、足を組みながら苛立つ俺の身体にもたれ掛かる。 「嶺緒さん、本当にこっちの世界の事分かんないんすね...可愛い人。」 猫の様に擦り寄る石黒が、俺の太腿を誘う様に撫で、悪寒が走る。触られた感触と、その声に含まれた不透明さの奥に潜む加虐性を僅かに感じ取った為に走る悪寒。 「おい...石黒...、 「嶺緒。僕らはね、痛みや苦しみを感じたいって言う被虐性欲を持った変態を喜ばせる為にSをやってるんじゃないんだよ。」 被せる様に今度は北尾が話しながら俺の横に座ると、2人に挟まれている事への緊張で体が強ばりはじめる。 天敵に挟まれ、今にも食われそうな被食者の気分。最悪の気分。 猫と狐に挟まれたネズミ。そんな気分だ。 「俺らは、虐めて苦しんでる姿に興奮するだけ。ただそれを受け入れられる相手にしか出来ないからMを相手にしてるだけなんすよ。虐められて喜んでる奴の為にやってる訳じゃない。じゃあ、受け側は俺らに虐めてもらえるようにどうやって煽るか分かります?」 「それは...苦しんでる様に、見せる...。」 自分の口から言うのは少し憚られる様な内容に眉を顰める。 こいつらの加虐性を理解できない。でも徐々にその沼に引き摺り込もうとされている事にじわじわと気づき始める。 マゾヒストとしての理解が深めさせて、そちら側に立たされようとしているんだ。 「ぴんぽーん!そうっすよね、『もうやめて!』『嫌だっ』って言えば俺たちが喜ぶってのは相手もわかってますから。そこからもう駆け引きは始まってるんすよ。難しいですよ、俺たちみたいなのは。喜ばれたら萎えますし、かと言って嫌々言われすぎるのも困りますからね。」 説明しながら、腿に当てた手がゆっくりと這う様に俺の体に添わせながら胸元まで登っていく。ぞわぞわと毛が逆立つ様な感覚に背筋が自然と反り返る。 言葉は明るく、でも這うような指の動きが俺の反応を楽しむ様に掻き乱す。 「本当に限界が来た時のボーダーラインをはっきりとさせる為に、本来プレイ中に発言しない様な“Red”、“Yellow”が使われる。ここまで理解は?」 腕を組んだ北尾が首を傾げる。 「ん...まぁ、取り敢えず分かったかな。」 「その上で、うちでは流血はNG、汚いのもNGなんでだいぶソフトなSMだけに限られてきます。安心してくださいよっ。」 ニコッと太陽の様に明るい笑顔を見せる。 表裏のなさそうな石黒と、裏がありそうで見透かせない北尾。対照的だ。だが、色の違う2人、どちらにもその目の奥にサディスティックな光が見える。 「うん...まぁそれなら....。」 不安は拭いきれず、固く身体を縮める俺を解す石黒の手が、妖婦の誘惑の様に首の後ろに回される。 「じゃあようやく試しプレイできるね嶺緒。ひとつひとつ説明してあげる。君が出来そうなものだけ試してみよう。」 至近距離で見つめ合う石黒から、北尾の冷えた手が顎を掴み俺の視線を奪うと、そのまま熱くなった首筋を北尾がゆっくりと冷ましていく。 双方笑顔のまま、しっかりと合う目が俺の目の前で火の粉を散らしている様に感じる。 「その前に、これ着けてくださいね。」 北尾に向いている顔の後ろからカチリと金属が噛み合う音が聞こえる。 同時に首筋にヒヤリと重たい触感を感じて手を首に当てると固い革の首輪が俺の首に巻きついているのがわかる。 「首輪っ....!?」 「これは、嶺緒さんを守るためっすよ。そりゃプレイ用でもありますけど、噛まれたらやばいっすから。」 振り返り、一驚する俺の首に手を当てると、ズレた首輪に繋がった太いチェーンを綺麗に合わせながら、目を伏せた石黒が優しい声で諭す様に話す。 「それは僕の事を言ってるの?」 後ろから肩に顎を置いて、意に沿わないという様にため息混じりに声を出す北尾が俺越しに石黒に問う。 「念の為っすよ。こんな綺麗な人に喘がれたら北尾さんも堪んないっしょ?βの俺でも噛んだら自分のものに出来んじゃないかって錯覚させられそうっすからね。」 眉を目から浮かせると、広めの二重が不敵に北尾を煽る。 「まぁ、そういうことにしておいてあげるよ。でも噛みたくさせるのは、嶺緒の才能だよ。αなら誰もがそう思う。」 首輪の少ない隙間に指を掛け、ぐいと引っ張る反動で体が北尾に傾き、不本意ながら背中から抱き止められる様な体勢で、両脇からするりと差し込まれた手が俺を捕まえる。 シーソーの様に北尾と石黒の腕の中を行ったり来たりと、おもちゃの取り合いでもされている様で不愉快だ。 手に絡められたチェーンはしっかりと、俺を独占する様に握られ、ぐいと動向を制するように首輪が俺の首を絞める。 「っ...引っ張んな、苦しくなる。」 背後の北尾に届かない視線を寄越しながら両手で北尾に引かれる首輪に抵抗すると、手が緩んで手綱は離される。 「おやおや、ごめんね嶺緒。苦しかったね。」 優しい声が首筋を撫でて、広く開いた襟からくすぐる様に北尾の長い髪が触れる。 優しく後ろから抱かれた体がゆっくりと温度の違う体に染められていくような気になる。 「はぁーずりぃ。そうやって見せつけて、俺はお預けっすか?俺は曲がりなりにもサドっすよ。お預けを待てる程気は長くないっす。」 その言葉通りに、肉食獣の様に北尾にもたれた俺の上に這い寄って、確かめる様に顔を近づける。 「嶺緒さん、もう良いっすか?」 リラックスしている状態では吸わない様な量の息が石黒の胸に吸い込まれては吐き出される。 深く、そして大きく行われる呼吸で石黒の興奮を簡単に読み取れる。 「痛いのはお断りだからな。」 石黒の首に交差するように両手を回すと、尖った犬歯を覗かせる口を重ねようと、一瞬躊躇っては優しく唇だけを重ねる。 「ん...。」 壊さないように、傷つけない様に慎重に行われるキスに、石黒のサディスティックさを疑いたくなった。 甘噛みをする様な子猫の様に、下唇を甘く噛んではキスをして徐々に上がる温かい息がふわりとかかる。それとは対照的に北尾の冷たく冷え切った手が盗むように腹から滑り込んでくるや否や、鋭い痛みが乳首に走る。 「ッ痛...!爪立てんな!」 俺が突然口を離して声を上げたことに驚いた石黒が顔を離すと、北尾が俺の頭上から顔を覗きこむ。 「痛い?大丈夫だよ。僕とキスしたら痛くなくなるよ。」 体を慰めるように撫でながらチラリと石黒を見ると見せつけるように視線を石黒に合わせたまま北尾の唇が重なってくる。 「ぁん...う、ん」 ぬるりと入ってくる舌が、じわりと俺の口内の熱と溶け合って、αの遺伝子が俺のΩの遺伝子の首を掴んで力を奪っていく。 石黒とは違って、喉元を掴んで押し潰すような独裁的なキスで癪に触る筈なのに、俺の股間は熱を帯びて体は明け渡すように力が抜けて、心地いい良いとさえ感じる。 それが抗えない俺の嫌いな、俺の性だ。 「ほら、気持ちが良くなってきたでしょ?」 そんなわけない、と弱々しく答えながら北尾が相変わらず俺の乳首を爪を立てて引っ掻き弾くと言うのに俺は先程の痛みなんか忘れて小さく声を上げ始めていた。 「っは、あ、ん」 「れおさん...。」 その姿に固まって俺をじっと見ていた石黒も、恐る恐る俺の腹部に手を入れると、ゴムで絞られたウエストからパンツを引き下げぬきとって、とうとう俺は殆ど肌を晒してしまった。 力が入らず、濡れた唇も薄く開いたまま、ぐったりと横たわる俺を見て、石黒の喉仏が嚥下と共に上がる。 「その顔はずるいですよ...。」 眉を寄せて、困ったように表情を崩すと唯一残った下着の上から俺のモノに関節的に口を付ける。 焦ったい感触が腰に響いて身を捩ると北尾が後ろから体を起こすように俺を引き上げた。 「そうやって、辰公さんの事も誘惑したんだ....?本当に恐ろしいね、君は。」 耳の縁に唇をつけながら、北尾の煽る様な声がはっきりと鼓膜に届く。 北尾の言葉にはっとすると、石黒が何のことやら分からないと言った表情で顔を上げる。 「してない...。タツの話はやめろ。昔の事だ。」 力が入らないまま抵抗するように手を上げる。 タツさんと何かあったんすか?、と石黒が状況を分からないまま純粋な好奇心で問う。 正直踏み入って欲しくないし、答えたくもない。どうして泉の事でいっぱいいっぱいの時にこんなに問題が立て続くんだ。これ以上悩ませないで欲しい。 「辰公さんがね、不動のNo. 1だった頃はまだペア制度は無くてね。あの人は誰もかもを虜にする様な攻めの王様みたいな人だった。でも嶺緒が現れてから、辰公さんと嶺緒がペアになったんだよ。他の人間の付け入る隙は無いみたいにね。」 もういいその話はやめろ、と俺の身体を弄る北尾の腕を強く握る。強く握って、軋ませるほど力を入れたつもりだった。でも俺の手は言うことを聞かずに緩く閉じるだけ。 まだ北尾のキスの余韻が残って、体が言うことを聞かなかった。 北尾はそんな俺を意に介さず、悪戯をする子供を慰めるように俺の頭に頬を寄せると顔を撫でる。素振りは愛おしそうにしているのに、まるで優しさを感じない目で。 「辰公さんはそんな素振りは見せないけどね、骨を抜いたんだよ。嶺緒が、あの人のね。お陰で辰公さんは昔みたいな鋭さは無くなった。非常に残念だよ。」 「うるさいぞ、北尾。」 鬱陶しいと顔を歪めた嶺緒が身体を起こし離れようとする腕を、北尾は力強く引き止めると、体勢を崩した嶺緒がソファーに腕を着いた。 「またそうやってαから逃げるの?」 「うるさい。」 「長瀬とペアを組んだ時みたいに?」 「うるさい...!」 「辰公さんからも逃げて僕からも逃げる。」 「うるさいっつってんだろ!!」 顔を二、三度振った嶺緒が解放されたいと掴まれた腕を引くも、しっかりと握られた手は離れず、北尾からは逃げられない。 北尾は相変わらずの笑顔を嶺緒に向けたまま、嶺緒だけが怒りに顔を歪めていた。 「挙句βの長瀬でもダメなら君は誰になら心を許せるんだ?」 その言葉に現実を突きつけられたような気がした。 顔が頭の先まで熱くなっていくのがわかる。 北尾への怒り、では無い。 自分自身への憤り。 北尾にぶつけようとして、やめる。 北尾の言うことは間違いじゃない。 「今日は...帰る。」 冷めた頭で出た答えは、とにかくこの場から去ることだった。 ソファーの下に落ちた服を着て、部屋を出る。 帰り際、石黒が心配そうに見つめる目が苦しくて、無心になりながら足を進めた。 全部自分が招いた種が今更自分の足に絡まっているだけ。 俺が全部悪い。 「嶺緒さん!!」と廊下の後ろから聞こえる石黒の声も俺は聞こえないふりをして店を飛び出した。 ___ 嶺緒さんがいなくなった部屋は静かに、そして効いていた暖房も温度を下げた様に冷えていった。 「あんまりっすよ。なんであんなこと言うんすか。」 嶺緒さんを咄嗟に追いかけた体が肩を上下させる。結局追いかけない方がいいような気がして、店の出口で嶺緒さんとは別れた。 休憩室へ入る重い扉がバタンと閉じて、一拍置いて北尾が口を開いた。 「好きだから。優しく出来ないんだよ。」 弱ったと言う様に眉を下げると、先程嶺緒さんの前で見せていた鋭い牙は消えて穏やかな雰囲気が北尾さんを包んでいた。 「不器用すぎでしょあんた。」 俺がため息を吐くのと同時に北尾もため息を吐くと、全くだ。と呆れた様に言葉を投げた。 「明日嶺緒さんが来てくれなかったらどうするんすか?ショーが無しになったら?」 「ならないよ。嶺緒は仕事を投げ打ったりはしない。ちゃんと明日も来る。」 ソファーに座ったままの北尾が重い腰を上げると、乱れた服を整え始める。 俯いて影が落ちた一瞬、また北尾さんの牙が鋭く光った様に見えた。 「本当にそうならいっすけどね。」 「嶺緒はそう言う人間だよ。明日彼が来るのを信じて待とう。今日は僕らだけ居てもしょうがないし、帰ろうか。」 顔を上げた北尾さんは相変わらずの穏やかな表情で、部屋の鍵を持つとリラックスした北尾さんが肩越しに振り返ると、いつも通りにっこり笑いかけてくる。 「俺タバコ吸って帰るんで、先帰っちゃってください。」 ポケットからタバコを出して見せると北尾さんは了解。と俺が出た後部屋の鍵を閉めると、手を振って帰っていった。 一緒に働いているけど、俺でもまるであの人の心が分からない。 不器用なSなのか、スッゲー性格の悪い人なのか...。 一瞬だったけどどっと疲れた身体を、ニコチンで癒そうと歩みを進める。 時間はまだ19時頃。 このままだと異常に早い退勤になりそうだ。 嶺緒さんの事、北尾さんの事。 ちょっと歩いている間に今日の濃い時間が頭で再生されて、不安に駆られながら喫煙所へ行くと、タツさんが喫煙所の椅子に座ってタバコを吸っているところだった。 「おつかれっすー...。」 「ん、おつかれ。」 俺を一瞥すると、視線をすぐに戻してまた外をぼうっと眺める。 現代ではもうあまり売られていないステレオタイプのタバコをタツさんは相変わらず吸っている。 俺はこの人が好きだ。なんか全部がカッケーって思う。憧れの存在。 煙が上がって、燃えた匂いのするタバコの匂いは、辰公さんそのものの匂いとして俺の中で定着している。 「あいつ、随分キレてたな。」 ぽつりと突然投げかけられた言葉に何のことか一瞬考え込む。 「あ、....嶺緒さんの事っすね。」 慌てて咥えていた電子タバコを口から離す。 ふぅと息を吐くと白い蒸気が吐き出されて一瞬で消えていくのを見ながら、タツさんを見やる。 あんだけドタバタしてたらそりゃ見られたりもするか。と思いながらタツさんと同じ何も無い景色を見ながら隣に座る。 「あいつ気は長い方だけどな。キレさせんのの方が難しいくらいだ。」 呆れた様な惰性の混じった声が俺をチクリと刺す。俺のせいじゃないんだろうけど、北尾さんを止めれなかった俺も悪い。 「北尾さんが結構ひどい言い方してて。なんの事か分かんなかったっすけど、タツさんがどうとか、泉さんがどうとか、嶺緒さんの触れてほしくない部分に触れたってかんじでしたね。」 「...あぁー...、それで怒ってたのか。北尾もいい性格してんな。」 何か思い出す様に視線を宙に浮かせると、ふっと鼻で笑ってまたタバコを口に運ぶ。 タツさんはきっと思い当たる事があるんだろう。知る必要もないし、知ってもどうしようもないかもしれないけど、俺は知らないまま巻き込まれるのは嫌だった。 「何があったんすか、嶺緒さんと。」 「....何もねぇよ。お前に話すことじゃない。」 俺を一瞥しては退屈そうにため息と共に煙を吐くと、薄く顰めた眉がこれ以上聞くなと言っている様だった。 「そんなに聞いちゃダメな内容っすか?」 「お前に言うのは良くても、この話が漏れた時元親が傷つくのが問題なんだよ。チカには嫌な思いはさせらんねぇから。諦めな。」 考えを曲げる気はないと、真っ直ぐ俺を見ると、タバコを捻って燻る火を消した。 「元親さんの事、本当に大切なんすね。」 ライターをポケットにしまって、残った煙を全部出し尽くすように息を吐いたタツさんが俺に背を向ける。 「俺には元親しかいねぇからな。...嶺緒の事、無理させないようにちゃんと見張っとけよ。」 チラリと振り返って俺を見ると、凍える身を縮めながら喫煙所を出て行った。 「ん...?」 タツさんが喫煙所をさって暫くして、異様な言い回し違和感を感じる。 見張っとけよ...? まるで嶺緒さんが無理をするのが分かっているような口振り。 この仕事が決まった時にオーナーに言われた言葉と似たような言い方だったことを思い出す。 『一ちゃんはα、嶺緒ちゃんはΩだから、貴方が間違いが起きないように2人を見張って欲しいの。』 まさかβの俺を間に入れたのは、タツさんの提案だったのか? 嶺緒さんを心配して? 勘ぐりすぎかもしれない。 でも予想が合っていれば....、益々2人の関係が疑問になってくる。 嶺緒さんとタツさんが一緒に居る時は、仲がいいとは言えない、むしろ険悪とでも言えそうな雰囲気だ。人に気を遣ってやる程タツさんはお人好しじゃない。 「あのっ、ちょっと!」 立ち上がって喫煙所のドアを開けたが、その頃にはタツさんの姿はなかった。 もう廊下には古いタバコの匂いさえ残ってない。 大人しく喫煙所へと体を戻すと、めいいっぱい煙草を吸っては諦めと一緒に煙草のカートリッジをゴミ箱に投げ捨てた。

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