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第10話 不安の影

今日は嶺緒さんに会える日。 僕が嶺緒さんに会えるのは、今日を合わせてあと2回程度。 理由は、嶺緒さんに会うために飲んでいる僕のα性を抑える薬がもう切れてしまいそうだからだ。 次に薬が届くのは約1ヶ月半後。 たった1ヶ月の我慢、僕ならできる筈だ。 だがその1ヶ月半、もし誰かが嶺緒さんを好きになって、嶺緒さんもその人を想ってしまったら...そう思うと少し不安になる。 でも僕にはアドバンテージがある。不安になる必要なんてない筈なんだ。 それでも僕は、嶺緒さんと普通の恋愛がしたくて、それに頼らずにいた。 —— 「奏...!久しぶり!」 僕を見つけるなり大股で距離を詰めた嶺緒さんは僕を思いっきり抱き締めた。 嬉しい。でも、なんだか少し変だ。 表情も会える喜びというよりは安堵に近い表情...そして最近頻繁に会っているのに、まるでこの日が遠かったかのような態度。 この前の電話...。 『俺がαだったら、奏は俺の事好きになってたのかな。』 思い出して、余計な自惚れに浸ってしまいそうになる。 嶺緒さんは僕が嶺緒さんを好きでいたら、喜んでくれるのかな。 僕は嶺緒さんと泉さんがお付き合いの話を終えた後に会う約束を取り付けてしまった。 もし嶺緒さんが泉さんとお付き合いしないのなら、僕は僕の第二性の事も、僕の本当の気持ちも、全部伝えようと思った。 でも今はまだ僕が嶺緒さんに気持ちを打ち開けるのは早計だ。その日まで我慢しなければいけない。 抱き返したい気持ちを抑えて嶺緒さんの背に回そうとした手をだらりと脱力すると嶺緒さんの肩を持って優しく離れる。 「久しぶりって、つい最近会ったばっかりじゃないですか。」 本当は「会いたかった。」と、言いたかったけれど僕はあくまで嶺緒さんの“良い友人”でいようと言葉を変えた。 「...あぁ、そうだね。ちょっと前に会ったばっかりなのに、もうこんなに寂しく...いや、何でもない...。」 暗く、でも透けているような綺麗な目に綺麗な青空と真っ白に輝く太陽が金魚鉢を揺らしているように波打つ。 瞼がその目をほとんど覆い隠してしまうと、長いまつ毛が嶺緒さんの瞳に影を落とした。 言いかけてやめた言葉は僕にとって嬉しい言葉だった、本当は。でも、嶺緒さんも僕も、これ以上懐に入らないように気をつけているような、すっきりとしない気持ちが立ち込めた。 「今日は時間が遅いですね。お休みなんですか?」 「ん、そうだよ。毎日だと身が持たないからね...。」 僕の声に瞼を持ち上げた嶺緒さんの目が、また話し切ると同時に重たく閉じていった。 「ご飯でも行きます?今日は僕が奢りますよ。」 嶺緒さんの異常に気付いて僕は、少しでも雰囲気を変えようと笑みと共に提案する。 すると、僕の額は綺麗な指に弾かれぺちと音を立てた。 「いてっ。」 「ばーか。学生に金出させる訳にはいかないだろ。」 額を抑えると意地悪そうな顔した嶺緒さんが僕の手を引いた。 僕から目線を離した後も、嶺緒さんは相変わらず真っ直ぐ、目の中の金魚鉢も外の景色を綺麗に映し込んでいた。 僕はいつも通りの嶺緒さんにもどっているようで少し安心した。 暫く歩くと、見覚えのある道のり。 覚えのある店。 僕はきっと嶺緒さんより何回もここに来たことがある。 「丸岡さんの店だ!」 僕と嶺緒さんが初めて会った日、初めてご飯を食べた場所。 嶺緒さんが連れてきてくれたのがこの店だったこと嬉しかった。 「どうしてこの店に...?」 「奏が好きなとこ、ここかカフェしか知らないからさ。他が思い浮かばなくて...。」 気恥ずかしそうに首筋を撫でて目線を逸らす。 嶺緒さんなりに考えてくれたんだろう。 「僕の好きなお店覚えててくれて嬉しいです...!!」 飛び跳ねそうな体を抑えて、落ち着いた、礼儀正しい僕であろうと笑みを焚く。 それでも喜びでトーンの上がった声が嶺緒さんに伝わったようで、嶺緒さんも嬉しそうな僕を見ながら微笑むと店に足を踏み入れた。 「いらっしゃいませ、おや、奏くんいらっしゃい。ご友人も一緒で。」 明るく声を張った丸岡さんがカウンターから眩しいほどの笑みを覗かせる。 いつも明るい人だけど、僕が以前嶺緒さんを連れてきた時も、今日も、格別明るさに磨きがかかっている。 いつも一人の僕が友達を連れてきたことがよほど嬉しいんだろう。 丸尾さんは僕が小学生の頃からの長い付き合いだ。今は料亭を開いているが、昔は柔道で僕の師範をしていた恩師だ。幼い頃から面倒を見てくれている分、僕の中で父より父親のような存在だ。 僕自身が少し嶺緒さんとの出会いで前向きになっているのもおよそ気づかれているんだろう。 暫くして、嶺緒さんと食べる食事も、馴染みのある丸岡さんとの話も楽しくてあっという間に食事は終わり、食後もついつい話し込んでしまった。 「奏はこんなに綺麗なのに、1人でふらふら路地なんか歩くから...それでまずいと思ってつい... 「嶺緒さんに助けられちゃったんです僕。情けないですよね。」 この間僕がαの同級生に絡まれた小さな事件。 その話が持ち上がっていた。 「そりゃ大変だったね!白川くんもそんな綺麗なのに随分男前だねぇ。」 丸岡さんが興味津々と言うように、身を乗り出す。2人が楽しそうなら、こんな話でも 「俺自身、元々格闘技やってたし....喧嘩は慣れてるのもあって。あと、αだとかΩだとかくだらない事言ってたので、俺はそういうの嫌いで。」 嶺緒さんが言葉を切った途端、今までの中でも1番と思えるほどの嬉しそうな丸岡さんの笑い声が響く。 「ははははっ、そりゃ奏くんが気にいるわけだ。」 「奏が俺を?」 何もピンと来ていない嶺緒さんが不思議そうに僕を見つめる。 大きく口を開けて笑う丸岡さんが僕の昔話を話し始める。 あぁ、まずい。 僕は、格闘技をやっていることも喧嘩をしていたことも何も、嶺緒さんには言っていないんだ。 止めようと口を開いたのも束の間、丸岡さんの昔話が僕の言葉を消し去った。 「奏くんも昔は良く怪我して帰ってきてたよねぇ。昔っから負けず嫌いだったから、柔道も随分上達して.... 「ま、丸岡さん!その...、昔のことは恥ずかしいのでそれくらいに...!」 焦って僕が席から立ち上がると、目を丸くした丸岡さんがなにかを察したように話題を変えた。 僕の昔話はそれ以上掘り起こされなかったが、嶺緒さんは初めてみる僕の慌てように不思議そうにしていた。 それから話すたわいもない会話も頭に入ってこないくらい、僕は焦っていた。 この話の区切りと共に、お茶を濁すように店を出た。 歩いてる間も、嶺緒さんは何か考え込むように表情を神妙に、でも僕が話しかけるとふわりと明るい表情に戻した。 気を遣われている...? まさか僕がαだと勘付かれたのか? 不安に煽られて、嶺緒さんに話す日常会話も思い浮かばない。 嶺緒さんの方は見れず、でも上下する視線が僕の挙動の不審さを表す。 「奏が、格闘技やってるなんて思いもしなかった。そんな所まで俺と一緒だなんて。変な感じするね。」 歩きながら道の先を見つめて口を開く嶺緒さんの言葉に安堵する。 また共通点があるって話題になれば、きっと僕の事も詮索しないだろう。 「えへへ...色々と一緒ですね。」 あくまで、いつも通りの僕で居て、過去の話が恥ずかしかったかのように振る舞う。 たったこれだけの綻びで、僕が本当は“α”だってこと、嶺緒さんに知られたくない。 嶺緒さんはどうやらαに対する潜在的な苦手意識がある。 それが、逆にαへの対抗心として出ているような、そんな感じがする。 そんな嶺緒さんに僕がαだなんて知られたら...。 頑張って嶺緒さんと仲良くなろうとしている努力が水の泡だ。 「喧嘩とか、するんだ。奏も。俺は勝手に奏の事、ぼんぼんのお坊ちゃんで痛みも何も知らない子だと思ってたよ。」 ぎくりと心が跳ねる。 僕は“Ωの箱入りおぼっちゃま”のように、嶺緒さんの前では振る舞ってきた。 正直、そのレッテルがあった方が嶺緒さんとの距離は近くなれる気がする。 僕は嶺緒さんと上手くやっていきたい。 それが嶺緒さんに対して嘘をついていたとしても、僕は“善い人”だと思われたいんだ。 「あはは...昔の話ですよ。」 頬を指先で掻きながら嶺緒さんを見上げると、嶺緒さんは今日初めに会った時より落ち着いた表情をしているような気がした。 「なんかさ、まだ出会って間もないけど、こんなにたくさん同じ部分があってさ、奏と一緒にいるの居心地いいんだ。」 嶺緒さんの中を陰らせている雲は纏ったまま、僅かにその隙間から光を見せる。 「“昔喧嘩してた“ってのが同じなのも、嶺緒さんにとっては共通点として良いものだって感じるんですか?」 「難しい事いうね。うーん...でもそうだね。俺は奏が喧嘩したことあるって聞いてホッとしたよ。つまり好印象だったって言っていいのかな。」 なかなかに下手な言い方をしたと思う。 でも僕は不思議だった。 喧嘩するような乱暴者で、αで、でも背は高くなくて、友達も少なくて、こんな僕の汚点とも言えるような”喧嘩“が共通点として嶺緒さんに良い印象を持たれることが不思議だった。 「変ですよ。そんなの。こんなおぼっちゃまみたいな僕が喧嘩してて、普通びっくりしませんか??」 嶺緒さんを嫌な気持ちにさせるかもしれない言い方。でもそれでも僕は嶺緒さんが、本当の僕の姿でも、許してくれるんじゃないかという淡い期待に賭けたくなった。 「びっくりは、少ししたよ。でも同時に許された気がした。『喧嘩なんてそんな野蛮な事したことがありません』って言われるよりはさ、『僕もそういう時期がありました』って言われれば、同じ事してた俺は、俺のままでもいいのかなーって少し思えるじゃん。」 明るくて、つよくて、僕の中であこがれの光が強い嶺緒さんが、僕と同じように自分の過去に自信を持てないような、そんな言い回しでいるのが僕にとってもホッとした。 偽った姿でずっと背伸びして嶺緒さんに合わせて、嶺緒さんに相応しい人間でいるかの様に振る舞っていた僕が、ありのままの僕でもいいんじゃないかとそう思ってしまいそうだった。 「でもさ、奏。あの時奏はどうして逃げなかったの?」 ”あの時“、それは紛れもなくαの同級生に絡まれた事件だ。 あの時そうしなかったのは、僕がか弱いΩで居ようとしたから。そんな風に嶺緒さんに見られたかったからだ。 でもそんなこと、言えるはずがない。 「驚いて咄嗟に動けなくて...」 嘘をついた。 僕がはっきりと嶺緒さんに嘘をついたんだ。 罪悪感で押し潰されそうだったけど、そんな僕の心を体裁が無視した。 「まぁ、喧嘩慣れしてないと驚くよな...。喧嘩やったことあるつっても昔だろうし、なんか俺ばっかり共通点あるって喜んじゃってたかも。」 はははと小さく笑いを捨てると、瞬きと共にまた瞳の中を曇らせて、話を変えた。 やっぱり嶺緒さんらしくない。 何か不安に思っているのか...でもただの思い過ごしかもしれない。 勘違いだったら? 本当に嶺緒さんの中の不安を聞いて僕に嶺緒さんの不安を消す力があるんだろうか。 考えれば考えるほど、自分の中の自信が少しずつ枯れていく様な気がしてならなかった。 「そんな事ないですよ。多分、似たもの同士かも。」 「だから居心地いいのかも。...またさ、奏に会いにきてもいい?直近で空いてる日があれば会いたいんだけど...。」 こんなに綺麗な人が、おやつをねだる猫のように僕を覗き込む。 そんなの、僕だって会いたいに決まってる...! でも.... 「すみません。僕、学校が忙しくなりそうで、1ヶ月くらい会えそうにないんです。」 理由は学校ではない。 僕の“α性を抑える薬”が切れてしまうからだ。 次に約束した日、その日の分しか僕には薬が残っていない。 僕はα性を自分で抑えられる自信が無い。 嶺緒さん相手には、尚更だ。 だから会えない。薬無しでは会う自信がない。 嶺緒さんは哀しそうに眉を寄せるとすぐに視線を下に落とした。 『また今度会えればいい。』 と、いつもの嶺緒さんなら言っていただろう。 でも今日の嶺緒さんは元気がない。 そんな嶺緒さんの誘いを僕は断ってしまったんだ。 心臓が胸の真ん中で消失してしまいそうなくらいぎゅっと小さくなった。 とても見れないくらい哀しそうな嶺緒さんを、僕は直視できずに目を背けて背を向けた。 「すみません、今日は、ご馳走様でした。またすぐ会えますから。次の約束、お店の近くで待ってます。」 背中を向けたまま目も合わせない会釈だけ返して立ち去ろうと足を前に出した。 その瞬間に、僕の冷たい手を嶺緒さんの温かい手が掴んで離さなかった。 「っま、待って奏...!俺、もう少しだけ、奏といたい...。」 慌てる様な言葉が段々と悲しみを帯びて震えていく。 余裕のない心が、力強く掴まれた手から容易に読み解けた。 冷たい僕の手は、目に映る嶺緒さんの今にも泣きそうな表情とは裏腹に高揚感でじわじわと熱を帯び始めていた。 α性が、このシリアスな空気を壊す様に僕を熱くしていく。 僕は目の前の嶺緒さんを助けてあげたいと思いながら邪な気持ちで見てしまいそうで怖かった。 そうなる前にと、僕は無情にも嶺緒さんの手をそっと離した。 「ご、ごめんなさい...。今日はもう帰らないと...。また必ず、会いに来ますから。」 僕は僕の決意をしっかりと表す様に嶺緒さんの目を一瞬だけ見つめると、逃げる様に踵を返して離れた。 「奏...!!」 と、背中から助けを求めるような嶺緒さんの声を置き去りにして、僕は家へと帰った。 帰っている途中、頭の中で何度も嶺緒さんの声が反響して、潤んだ目が反復して、異常に跳ねる心臓が僕の体を燃やす様に焚き続けた。 家へ帰っても嶺緒さんの独特な、でも僕を引き寄せる様な匂いがまとわりついて離れなかった。 僕の胸の内で広がる不安はもくもくと広がって、2日後、その曇りは僕をさらに暗く染めることになる。

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