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第12話 蜜の香り
2ヶ月ほど前、いつも通うカフェに寄ろうとした。
学校の授業が終われば、僕は必ずそこでコーヒーを飲むのが日課だった。
繁華街の裏にある、小さなカフェ。
そこは、僕が苦手な同級生も来ることのない隠れ家のような場所だった。
そこでrたまに香水のような、甘い蜜のような、でも香水というには落ち着いた香りがふわりと香ることがあった。
僕はそのお店の人に「いい香りですね。」と店の香りの話をしたが、特に芳香剤などは置いていないとの事だった。
ある日、その香りが強く香る日があった。
僕は人より特出して鼻が効くような、そんな人間じゃないが、その香りが道導になって僕を引き寄せた。
香りに近づくにつれ大きくなっていく好奇心と、高鳴る心臓は目の前の光景を見て呆気なく消え失せた。
具合の悪そうな男が1人お世辞にも綺麗とは言えない路地の壁にへたり込み、その周りを3人の男が囲んでいた。
いや、具合を悪くしたのは周りの男のせいじゃないだろうかと、この光景を見た人間なら誰もがそう勘繰るだろう。
いずれにせよ僕の頭をパンクさせるほどの情報量が僕を苦しめた。
漂う強い香りは僕の心臓を高めて、僕を狂わせた。そう表現するしかないような高ぶりと好奇心と愉悦。
常識的な人間でいようという僕のたがが外れた感覚に、僕も動物でしかないんだと言わしめる。
へたり込んだ男のことは、容易に“自分にとって大切な人だ”と脳が、遺伝子が、そう判断した。
同時にそんな大切な物を傷つけられているという状況に、たががはずれた僕がじっとしていられるわけもなかった。
気づいた時には周りを囲んでいた男3人は床に転がり、唸り声を上げながらぼろぼろの体を抱えて逃げるように足を引き摺りながら離れていった。
数秒立ち尽くすと、正気に戻り、僕はすぐに具合の悪そうな男に駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか...?」
男は頬を火照らせ、呼吸を乱して、医学部の僕じゃなくてもハッキリわかるほどΩ特有のヒート状態に陥っていた。
僕は常日頃からαホルモンを抑制する薬を持っている。
僕ならこの人を助けられる。
そう頭では考えていたのに、鼓動の高まりでくらりと眩暈がした次の瞬きで、僕はこの人の頸に口を付けようとしていた。
「っ...!!!」
何をやっているんだと慌てて離れ、乱暴に薬を取り出し噛み砕いて飲み下した。
水無しで錠剤を飲み下してしまえるほどに、僕はエサを目の前にしたハイエナのように唾液が絶え間なく溢れそうだった。
フラッシュバックする。嫌な記憶。
昔の話だ...!と自分を今に引き戻すと、あくまでも、冷静に、冷静に...。と何度も言い聞かせて、タクシーを呼んだ。
僕より一回りほど大きなその人を、名も知らない美しいく儚い、花のような人を、背負って家まで連れ帰った。
僕の布団に寝かせて、ふと気を抜いた瞬間に、いろんな感情が僕を苛ませた。
冷静?家に連れてきておいて??自制できず初対面のΩを咬もうとした??またΩを咬もうとした。昔となにも変わっていない。早く 。α性犯罪者と同じじゃないか。自分が一番嫌いな、典型的なαだ。僕はαなんだ。今すぐにでも。傲慢だ。咬みたい。吐き出したい。この人に自分の全てを理解してほしい。愛してる。どうして?わからない?、犯したい。
痛みではっと我に帰る。
ぼぅっと下を見た時、シャワーを浴びていた水がじわりと赤く染まり、排水溝に吸い込まれていったのを見て自分自身の何処かが傷ついていると悟った。
ゆっくり見渡すと腕に痛々しく、くっきりとした噛み跡が、犬歯の2か所はより深く刺さり込んでいたようで、特にその二箇所からドロドロと血が流れ出していた。
ズキズキと遅れたように痛み出す腕が、自身の身に起きた混乱の末に自制しようとした跡だと理解させた。
「醜いαだな、僕は。」
そんな僕があの人と一緒になるなんて出来るのだろうか?
未だにその不安は消えない。
僕自身、薬に頼ってα性を抑えるような自分みたいなαがΩを大事にできるのか自信がない。
それでも僕は、あの人に、嶺緒さんに、思いを告げたい。と、内に湧く感情に背を向けることができなくなっていた。
——
「あれ...っ?うそ??ない...!!」
1人きりに部屋に僕の声が響く。
嶺緒さんに会うたびに、多めに服用していたαホルモンの抑制剤。
通常1シートを一ヶ月で飲み切っていく所を、本来の2倍以上の量で服用していた。
それでも、多めに服用する今日の分と、予備で通常の容量飲むための1日分、取っておいたはずなのに...。
「今日の分がない....。」
どこかで落としたのか...、それとも数を数え間違えたのか。
薬は強めの薬で、用法容量を厳しく守らせるためにも定期的にしか送られてこない。
つまり今日の分はこの残りの1日分でどうにかするしかないのだ。
服用は毎日朝夕2錠ずつ。
僕が初めて嶺緒さんにあった日も、僕はちゃんと服用していた筈だった。
それでも歯止めが利かなかった。
2錠放り込んで飲み下す。
いつもより少ない量。
嶺緒さんと会うのが不安だ。
嶺緒さんが“運命”を望んでいないとすれば、僕はもう2度と嶺緒さんに会うことは無い。
僕は第二性科学を専攻しておきながら、運命の番なんてもの信じてなかった。
でも、この感覚を“運命”と言わずになんと表現していいのか今の僕にはわからない。
“運命の番”とは当事者同士しかわからない特別な感覚なんだろう。
嶺緒さんも僕にそう感じてくれていてほしい...。
そう願っても答えは嶺緒さんの中にしかない。
やはりちゃんと、伝えて、答えを聞くしかないんだ。
腕に残った傷跡は、鏡に映るたびにあの日の醜い僕を思い出させる。
今から嶺緒さんに会いにいく。
袖の長いシャツを羽織り、冷えた肌と傷を包み込んだ。
——
「お、おまたせ、。」
「んー。」
嶺緒はいつも通り...?建物を背に携帯を眺めてていた。
相変わらずの姿だったが少し痩せたように見えたのは顔に影が入っていたからかもしれない。
それでもやっぱり、綺麗だと、思ってしまう。
「あのさ、この間の答えなんだけど、聞く前にもう一回僕の気持ち聞いてくれない?」
「うん。聞くよ。」
嶺緒は真っ直ぐに立つと見ていた携帯をポケットにしまって僕の目を見た。
真っ直ぐと艶のある瞳を見る。
「僕は昔から嶺緒のその透けたような綺麗な目が好きなんだ。」
「きっとみんなそう思うんだろうけど、僕は高校生の頃から自分を貫く嶺緒の姿が好きだった。」
「僕を小馬鹿にして笑ってる嶺緒も、真剣に仕事してる嶺緒も、静かに僕の話を聞いてる嶺緒も、全部好きなんだ。」
「だから、僕と、僕と付き合ってよ...嶺緒...。」
一方的な叫びを、ただ嶺緒にぶつけ、勢い余って、嶺緒を抱き寄せた。
ただの僕のわがまま。
ただただ、「伝われ」と念を込めるように嶺緒を抱きしめた腕は少し震えてしまっていたかもしれない。
嶺緒の熱が徐々に伝わってきて、嶺緒の匂いがして、心臓の音までも聞こえてくるような気がした。
「...俺は、....泉とは、友達でいたい。」
抱き寄せた嶺緒の言葉は小さな掠れた声ながら、はっきりと聞こえた。
幻聴でもなんでもない、現実。
分かってはいた。返事がこう言う結果だってことは。でも何処か期待してしまっていた。
僕は嶺緒と友達だけど、仕事上、何度も身体を重ねてきた。他のキャストよりも長くて、多くて、私情を挟むのは良くないかもしれないけれど、嶺緒のことは1番大事に1番大切にしてた。
それが伝われって思ったんだけど...。
「はは...そうだよね...わかってたんだけどなぁ...。」
嶺緒のことは抱いたまま、顔は見れなかった。
嶺緒は僕のことを抱き返すことはなく、ただ不規則な呼吸だけが僕に答えているようだった。
「今まで通り、ってなるまで時間かかるかもしれないけど、それでも友達として、仕事のパートナーとしてこれからも一緒にいてほしい。」
「うん...。」
視界は涙でぼやけ、心は振られたってことでいっぱいになった。
嶺緒の肩に雫は落ちて、じわりと吸い込まれていくと、嶺緒の身体も先程と違って僕腕に吸い込まれるように重さが増していく。
先ほどまで、嶺緒からは手も触れず抱き返す事も無かったにも関わらず不自然に僕に身を預けている。
いや、預けていると言うよりは、もたれ掛かっているに近い。
囚われていた意識がはっきりとしてくると、嶺緒が不規則に荒い息を必死に整えながら、立つのもやっとと言うように弱々しい手で僕に縋りついていた。
僕は振られることで頭がいっぱいで、嶺緒の様子になんて気が回らなかった。
「嶺緒っ...?もしかして...。」
「っ...ごめ、いずみ....もう...。」
言いかけて、嶺緒の中で堪えていた気がするりと抜けて嶺緒は僕の腕の中に落ちた。
荒い呼吸と、熱った身体。
これがヒートだと、誰が見てもわかる。
でもそうだとして、気を失うなんて...余りにも強い発情だ。
一部のΩにそういった症状が出る人も居るとは聞くけど、嶺緒がここまでなったのを僕は初めて見た。
最近慣れない仕事で無理が祟ったのか、僕のことでも心労になっていたのか。
一番大切な人の苦しみにも気づかないなんて。
「...情けない。」
ポツリとつぶやいた言葉は僕自身無意識だった。
目に溜まったままの涙を袖で拭き取ると、嶺緒を背負って店へと戻った。
店の入り口、嶺緒を抱えてどうやってこの重たい鉄の扉を開こうかと悩んでいると食事から帰ってきたらしい辰公と元親がギョッとした顔で僕を見た。
「れ、れお!?具合悪いの!?」
「うーん...、ヒート起こしちゃったみたいで...今日は具合、良くなかったのか...そのまま気を失っちゃってね...。」
扉を潜ろうとすると、辰公が元親に何か話して何処かに離れていくのが見えた。
「あれ、辰公は?」
「なんか、忘れ物だって!...れおのこと、ほっとけないんだろうね...。」
元親は「えへへ。」と困ったように笑うと、重い扉を僕の代わりに閉めた。
忘れ物と、嶺緒。どんな繋がりがあるのか、話の流れが見えないまま、僕は嶺緒を休憩室へと運んだ。
僕は今日起こった何にも、気づくことが出来なかったと言う事を、後々すぐに分かることになる。
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