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第13話 靄
僕は見てしまった。
嶺緒さんと男の人が抱き合っているのを。
男の人がだれなのか、大体予想はつく。
なぜなら、今日は泉さんからの告白の返事をする日だ。
改めて自問自答する、今の嶺緒さんに僕は必要なのか...。
...いや、必要じゃない。自分自身ではっきりと分かってしまうほど、僕の出る幕はないと状況から容易く理解できる。
僕は、2人を見てそっと路地の奥に身を隠した。
数十メートル先には僕の好きな人が、僕じゃない誰かと抱き合っている。
ぐるぐると2色の絵の具が水の上で混ざり合うように、くすんで濁っていく。
──僕なんて遊びだ。
沢山いる人のうちの1人。
ただ倒れていたのを助けただけの知人だ。それ以上になれるわけがない。
この運命に期待しないでいられたらどれだけ楽だったか。
でも、次会う為の薬ももう無くなった。
此処で身をひけば、必然的に僕は嶺緒さんと会えなくなるんだ。
よかったじゃないか、奏。
僕と嶺緒さんは元々生きてる世界が違うんだから。
言い聞かせる。
でもそれを拒むように、苦しくなって、息が切れて、動悸が僕の理性を吹っ飛ばしそうで、初めて会ったあの日を思い出させる。
諦めようって時に、どうしてこうも溢れ出てくるんだろう。
自分の本当の気持ちから逃げるように、その場を離れた。
嶺緒さんには、『体調が悪くて行けませんでした。』って言っておこう。
携帯をタップしながら来た道を戻る。画面の後ろには、見覚えのある道路タイルがただただ流れていくだけ。
携帯を見ながら歩いていることと、気が晴れない事で生じる重い足取りはいつもよりも地面をゆっくりと移ろわせた。
「おい。」
聞き馴染みのない声が離れた場所から聞こえて来る。低くて重たい声に顔も上げずに歩みを進めていると、もう一度「おい。」という声と同時に肩を掴まれた。
またαにでも絡まれたのか?
未だに鼓動は跳ね、息もまばらなまま。
体調がすぐれないのに、こうして絡まれるのはとても不快だ。
携帯をポケットにしまうと、肩に置かれた手を掴んで相手を見た。
「あー...、お前こないだ嶺緒といた奴、だよな。話あるからツラ貸せよ。」
背後に立っていたスラリと細身で高い背の男。億劫そうに締まりかけた瞼からは強い視線が刺さるようだった。
見上げた相手はこの間嶺緒さんに駅まで送ってくれた時会った人だ。
ぼんやりとだが覚えている。
しかし、初めて会った相手に“お前”とは失礼な人だ。
人は第一印象で80%決まると言うが、この人とは馬が合わなそうというのはすぐにわかる。
いくら嶺緒さんのお友達でも仲良くできそうにない。
掴んだ手を乱雑に払い除けると、僕も睨み返す。
「嫌です。なんなんですか急に。」
踵を返し、離れようとすると、人目も憚らず僕の襟を強く掴んでは壁に押し当てた。
「お前に暇があるかどうかなんて聞いてねぇ。てめぇ嶺緒になんかしただろ。」
嶺緒さんに何か?僕が?
「僕はただ嶺緒さんに会おうとしただけだ。」
「そんなワケねぇだろ。αの匂いプンプンさせて、下手な嘘つくんじゃねぇよ。」
尚更ぎゅっと絞められた襟が僕の首をジリジリと締め上げていく。
この状況に混乱してか、すぐにαと言い当てられてか、僕は同時にことを考えすぎて相手の腕を払う事さえ出来なかった。
「匂いなんて...する筈がない。」
「あぁ、普通のαならな。生憎俺は“純血”だ。その辺のαとは違う。そして、お前みたいにΩ騙ってる偽物じゃねぇ。第二性まで隠して嶺緒に近づいて、なに考えてんだお前?」
同じαとして格上だと遺伝子が頭を垂れそうになる。
細身でこの力、言葉の圧力。
僕がいくら武術で勝っていても、気迫に気圧されそうになる。
純血のα、初めて対面するが純血と混血がこれほど違うとは思わなかった。
「お前と一緒に居るようになってからだ。あいつがおかしくなったのは。お前が何かしてるとしか思えない。前あった時もそうだ。Ωつってた癖に、Ωの匂いなんて1ミリもしねぇ。α隠して、嶺緒に近づいて、心許したら噛み跡でも付けて自分のもんにでもするつもりだったか??」
「確かに...僕は嶺緒さんに嘘をついた。僕はαだ!でも襲うつもりも傷付けるつもりもない!!」
「んなもん信じられるかよ。」
冷たい視線。
異物を見るような、見下すような目。
嫌なことを思い出す、嫌な目。
忘れていた過去を一気に引き起こすと僕はいつのまにかパニックになっていた。
『ごめんなさい...うちの子が...ごめんなさい...。』
『Ωが、どれだけ怖かったか!!お前には分からないだろう!!!!』
『僕にもう近づかないで....!!』
グルグルと頭の中で僕を否定する言葉が巡る。
やっと忘れかけて居たのに...。
───
11年前ー。
第二性は、思春期と共に色濃く現れると言われている。
僕も11歳。ちょうど思春期を迎え、小学校5年生の冬休みも毎年の如く、楽しい冬休みになる筈だった。
近所に涼太という親友が住んでいた。
αやΩに壁がある中、僕の母はΩ。涼太の母Ωで仲が良く、そのおかげもあってかαの僕でも関係なく涼太は仲良くしてくれた。
母親同士の仲が良く、大人の会話の傍ら僕らはそれぞれの部屋で遊んだりもした。
この日はよく晴れていて冬にしては暖かい、とてもいい日だったのを覚えている。
「こら、涼太、今日は少し熱があるんだからじっとして居なさい!」
「奏と遊んだら治るよー!」
涼太の母が涼太を捕まえようと追いかける中、僕と僕の母もその様子を楽しそうに眺めて居た。
「ごめんね、瞳さん。涼太ったら、風邪ひいてもいつもこんななの。」
「いいのよ!麻衣子さん!奏、今日は涼太くんもお熱があるからおうちの中だけで遊ぶのよ?」
「はーい!」
僕が5年間涼太の学校を休んだのを見たことがないくらい、風邪でも学校に来てしまうような元気なやつだった。
「奏ママ!大丈夫だよ!!俺ちょーげんきだもん!」
飛び跳ねて元気をアピールする涼太に、僕もつられて飛び跳ねた。
「ほーら、熱あがっちゃうよ!お部屋でゆっくり遊びなさい!」
「「はーい!」」
この時、涼太の熱がΩとしての初めての発情だった事は、僕ももちろん、涼太の母親も僕の母親も気づかなかった。
涼太の様子が変だと気づいたのは、暫く遊んでからの事だった。
かくれんぼをして居て、絶対にここだと分かるほど膨らんだ布団の中に涼太はいた。
鬼は僕。
「みーつけた!」と布団の上からぎゅっと抱いて見せても涼太は出てこない。
「あれ...?涼太...?具合悪いの??」
布団を捲った瞬間、ふわりと暖かい空気が僕を包んで、初めて学校で勉強した“ヒート”ってものを目の当たりにした。
『ヒートが起こると熱が出て、呼吸も苦しくなります。βかΩの友達や先生に助けを求めましょう。ヒートしている時の匂いは、αの性を持つ人達に作用する性質を持っています。αの性を持つみなさんは匂いを嗅がないように気をつけましょう。』
教科書の一文を思い出す。
教科書のチープなイラストよりも苦しそうに、子供には似合わない色っぽさに思春期の僕は興味と興奮が止まらなかった。
「奏...たすけて...。」
助けを求めている涼太の上に、僕は引き寄せられるように跨った。
αの本能に抗えなかった。
まるで初めて勝ったおもちゃの構造を探るように涼太の服に手を差し込んだ。
「かなで??何するの...!?ヤダ、怖いよ...!」
自分よりも何度か高い温度を手に感じて、子供の言葉で言えば、ぞくぞくとワクワクが同時にきたような不思議で心地いい感覚だったのを覚えている。
「わ...かなで!かなでっ!!」
状況が理解できないまま固まった涼太は、きっと僕を恐怖の目で見て居たと思う。
でもそんな涼太のことが目に入らないほど、僕は本能に支配されていた。
わっと泣き出してしまった涼太に驚いて腰を上げた時、大きな声が響いた。
「奏くんっ!!!!?何やってるの!!!?」
びくりと肩が跳ねた。
子供ながらに“良くないことをしたんだ”と怖くなった僕の固まった体を、涼太の母親は突き飛ばした。
今思えば子供を守るためにやった咄嗟の事だったんだろう。
床にお尻をついた。痛いかどうかも分からなかった。
ただ泣きじゃくって母親に縋る涼太とそれを抱きしめながら泣いている涼太の母親を見て、僕は自分自身のした罪の重さに吐き気を催していた。
大きな音と声に驚いた僕の母親も駆けつけ、暫くその惨状を眺めると、事態を把握したのか、ひたすら頭を床にに当てて母は謝っていた。
自分でも何故こんなことをしたのか理解できず、焦燥したまま家に帰り、厳格な父に頬を打たれた。
「...っっなんて事を...!!!Ωにはあれだけ優しくしなさいと!!!そう言っただろう!!!!!お前は生まれつき力が強いんだ!弱いΩを大切に扱いなさいと...あれほど言い聞かせただろう!!!」
父は第二性犯罪の刑事。
αで、Ωの母を溺愛しているひとだ。
父の僕を見る目は、性犯罪者のαを見る目と同じだったとその時の僕は感じた。
僕は自分自身の第二性を呪った。
涼太とはその後すぐに疎遠になり、僕は逃げるように転校した。
それから本来なら18を過ぎてからしか使う事を許されないα性のホルモンを抑える薬を、僕は15から飲み始めた。
父が僕のα性を恐れて、薬を毎日飲むように薦めてきた。
虐待だと思う人もいるだろう。
でも僕は成長期をその薬で投げ打ってでも、僕の中のαを消したかった。
お陰でαにもかかわらず、平均身長よりも大きく下回る体格で止まってしまい、Ωだと間違われることが多くなった。
それさえも僕にとっては“α”だと持て囃されるよりも気が楽だった。
 ̄ ̄ ̄
αでもダメ、Ωでもダメ。
嶺緒さんにどう頑張っても近づけない。
「ーーじゃあ!!どうすればいいんだよ!!!」
「あぁ?知るかよ!!」
パニックに陥った僕が掴みかかると、相手も襟を掴んで僕を地面に押えつけようと体重をかける。
つかみ合いになり、服がよれて、ポケットの中身がバラバラと地面に転がる。
携帯、家の鍵、空の薬のパッケージ...。
よろけて地面に尻をついて、怒りなのか悲しみなのか、斑になった感情に戸惑ったままただぼーっと座り込んでいた。
相手の男はぴたりと動きを止めると静かに僕の薬のパッケージを拾った。
「お前、これ、いつ飲んだ。」
地面に座り込んで体力が削られた体を休める。
息を整えて顔を上げると、男は薬のパッケージを怪訝そうな目でじっくり眺めて居た。
「さっき...。そんなこと聞いて何になるんだよ。」
僕が睨みつけると、男は薬のパッケージを僕に投げ返した。
「劇薬って言われるくらいには副作用強い薬だ。こんなもん飲んでんのは、α性抑えらんない精神疾患者ぐらいだ。そんな奴、まず外出歩けねぇ。副作用も不自然だが、こんなもん飲んでてお前が今αの匂いダダ漏れなのが尚更不自然だ。」
嫌なものをみたような顔で、でも釈然としないと言うように首を傾げる。
「...僕が、嶺緒さんと“運命の番”かもしれないって言ったら、信じられる...?」
男の重たい瞼から真子がはっきりと見えるほど男は目を見開いた。
空いた口を手で押さえると、そのまま頭を抱えて苛つきをぶつけるように髪をかきみだしては地面を蹴った。
「...信じたくねぇが、腑に落ちる点が多い。あいつが調子悪いのも頷ける。でも、俺はお前が嶺緒に近づくのを...許せない。」
「お生憎、僕は薬たった1回分じゃ正気のまま嶺緒さんに会えないと思ってるし、自分自身が信用できない。もう2ヶ月分は空にしちゃったんだ、もう会えないよ。あと泉さんの邪魔もしたくないしね...。」
自分で言ってて悲しくなってくる。
膝を抱えて拗ねた子供のように丸まると、じわじわと瞳から涙が溢れてくる。
「泉のこと知ってんのか。」
「嶺緒さんに聞いたから...。いい人そうだし、きっと泉さんの方が嶺緒さんを大事にできる。」
ぐすぐす鼻を啜りながら俯いている僕の耳に、金属の擦れる音とたばこの煙の匂いが漂う。
音のした方を腕の隙間から覗くと、男はそのまま僕の横に座った。
「ふーっ...。お前はどうなんだよ。」
煙を空に吹くと、重たい瞼で空を眺めて居た。
「どう...って、僕なんかより泉さんの方が嶺緒さんのこと知ってるだろうし、嶺緒さんが幸せなら...それで...。」
ボソボソと小さな声で話す僕に「幸せならそれで...ねぇ。」と何か思い出すように返すと、タバコを咥えたまままた立ち上がった。
「お前名前、なんだっけ。」
「宮、奏です。」
「そっか。奏、お前もう嶺緒のこと忘れろ、お前もその方が幸せだよ。あいつも色々事情があるんだ。あいつの邪魔はすんな。」
僕よりもよっぽど嶺緒さんを知ってるような口振り。
僕は嶺緒さんの事何も知らないんだと改めて実感させられて反論も出来なかった。
また嶺緒さんと世界を分たれた気になって、さっきの人が歩いて行く先は僕には入れない世界な気がして、ただ寒空の中、泣き腫らして冷えた体を温めるために家へ帰った。
 ̄ ̄
嶺緒、お前に運命の番が現れたとして、お前はそれを受け入れられるか?
俺が傷つけたお前は、誰にも心を許さなくなった。お前の世界に踏み入ろうとする無垢なガキをお前は歓迎できるのか?
お前はあのガキを傷つけて、きっと自分も傷つける。
お前が傷つくくらいなら、お前が大事なあのガキをお前が傷つけて後悔するくらいなら、今俺がそれを止めるのはお前への贖罪になっているか...?
柄にもないことを悶々と考えて、いつのまにか吸ってたタバコは短くなっていた。
「囚われ過ぎか...。」
タバコを道に設置された灰皿に適当に投げると、冷えた手をポケットに突っ込んで店へと戻った。
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