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第16話 白川嶺緒の記憶

扉が開く。 まるで転校生の紹介の時の様に、目線を泳がせたまま合わせない嶺緒が一歩部屋に入るとスタッフが扉を閉めた。 服はもう私服に着替えてて、僕が知っている嶺緒だと少し安心した。 なんと言葉をかけて良いか、謝っていいのか。 ただじっと待っていると、嶺緒が口を開いた。 「ほんとに来てたんだ...。」 身の置き場がない様に、立ったまま濁った表情を見せると嶺緒は片手で自身のもう片方腕を掴み、視線を落としたまま呟いた。 「来るの...知ってたの?」 「辰公が名刺渡した時点で、来る可能性があるのはわかってた。泉と別れた後、あいつとまた揉めたんだ。なんで泉にそんなもん渡すんだって。俺は昔の友人にこんな姿見られたくなかったよ...。」 きっと今回のショーは大成功だった。 素人の僕からみても、あの盛り上がり様はそう滅多にあるもんじゃない。 嶺緒が凄かったんだ。 なのに今回の大成功のショーの主役である嶺緒の今の表情ときたら、まるで怪我をした子猫の様に痛々しかった。 「こんな姿だなんて...!綺麗だったよ...!嶺緒は凄いって改めて思った。手が届かないと思うほど、綺麗で凄くて...。」 「綺麗なんかじゃない。俺は...綺麗なんかじゃない...。」 褒めたつもりだった。 本当に綺麗だってそう思ったんだ。 でも、嶺緒は喜ぶ事なんてなくて、泣き崩れて赤い絨毯にポタポタと涙を落とした。 「れ、嶺緒!?ごめん...!気に障ることいった?!悪い意味なんてひとつもないんだ、ただ好きで、綺麗で、ずっと前から、君に憧れてた!自分の意思を持って、生きてく君に!」 咄嗟に僕は嶺緒を抱きしめていた。 慰めとして、好きな人の傷を癒すために。  これしか思いつかなかった。 嶺緒の方が大きくて、学生の頃は嶺緒のまっすぐな意見に引っ張られて、僕はただ後をついて行ってただけだったのに、腕の中の嶺緒はなぜか僕より小さく感じた。 子供の様に涙をポロポロ溢して、泣く嶺緒が愛おしく感じた。 「嶺緒、僕と疎遠になってる間、何があったの?何かあったなら、相談してくれたらよかったじゃないか。」 「...忙しかったのは嘘じゃない。本当に、毎日時間が足りなくて、帰ったら気絶する様に寝てた。それで、数日してから泉の連絡に気づいて...それを繰り返してたら、もう泉は連絡くれなくなって....泉は優しいし、きっと他にも友達が居るからって、俺からも連絡出来なくなってった。」 「嶺緒からの連絡ならずっと...!ずっと欲しかったよ!でも...忙しい君の邪魔になると思ったんだ...。すれ違ってたんだね。友達じゃ無いって思われたんだとばかり...。」 「泉は友達だよ。俺、泉以外の友達殆ど居ないし...。」 嶺緒は小さく優しい笑みを見せると、ふぅっと息を吐いて空いた椅子へと座り直した。 「本当に、色々あったんだよ。」 そうして話は遡り、嶺緒の生い立ちから始まった。 ーーー 24年前、生まれた。 大きな家で、綺麗な家具が揃ってて、白い木目の床で、父親は大きくて、いつもスーツを来て髪を後ろに綺麗に流していた。 父親の記憶は曖昧だけど、母さんは「凛々しくて、綺麗な顔はお父さん譲りだね。」だと言った。 名家αの父と、一般庶民のΩの母の間に生まれた子。それが俺だった。 でも物心ついた頃には父と母は離婚し、母と2人で暮らしていた。 離婚の理由なんて知らない。 でも両親が喧嘩したところなんて見たことなかった俺は、なにか難しい事情があったんじゃないかと思った。 父と離婚してから、生活は一転。 母は父と結婚する際に実の家族と縁を切られており、身寄りもなかったため随分お金に苦労した。 唯一父からの養育費だけが、救いだった。 そんな母1人で子育てをするのは大変だったからか、寂しかったからか、母には暫くして恋人ができた。 すこしの間、母の恋人と母と俺の3人で生活していた。 母の恋人は酒を飲み、暴力を振るい、所謂DV男ってやつだった。 おおよそ3、4年ほど一緒に暮らしていた気がする。 母は、男を愛していたからかお金の援助をしてもらっていたからか、家を追い出す事はなかった。 が、中学2年の春、事件は起きた。 その日は母が仕事で遅く帰ってくる日だった。 相変わらず男は俺が学校から家に帰ってくる頃には、随分酒を開けているようだった。 思春期の俺はそんな男を居ない物のように扱っていた。 それが男の怒りに火をつけてしまった。 「おい、帰ったら挨拶くらいするのが筋だろ。」 古い部屋のドアを開けようとした時、後ろから投げられた言葉。 煩わしい。 言い返す気にもなれず、そのまま自室へ入ろうとした所を、後ろから襲われた。 後ろから纏わりつくような酒の匂い、重い体。 のし掛かる大人の体重は、成長前の俺の体を簡単に押し潰した。 大人の力と、暴力に、屈するしかなかった。 習っていた柔道も、後ろから羽交い締めにされ体格が2回りも違う大人には通じなかった。 助けて。怖い。 そんな気持ちなんて湧いて来なかった。 『あぁ、遂にこうなってしまった。』 と只々落胆するしかなかった。 日々振るわれていた暴力からか、暴言からか、俺は全てを諦めていた。 「しゃぶれ。」 ただ一言、そう言われた俺は大人しく正座する相手の股を割って入りズボンのチャックを下ろした。 俺は初めて口で男を慰めた。 乱暴されたくなくて、抵抗をやめた体には小さな引っ掻き傷一つついた程度で済んだ。 男は俺の処女には手をかけなかった。 でも、母が貯めたお金で買ってくれた制服がボロボロになったことの方が悲しかった。 その頃から俺は自分の体を大事だと思えてなかったのかもしれない。 汚された、陵辱された、と普通は感じるのだろうが、かけられた汚れをシャワーで洗い流して仕舞えば元通りになる。ただ、泥で汚れただけ。その程度の感覚だった。 自尊心が薄かったんだと思う。 行為の後はお金をくれた。 それを母に黙って貯めて、今後の生活費に充てようと思っていた。 男からの行為、母がその事実に気づいてしまったのはそんな日々が半年ほど続いた何もない平日だった。 好きだった男が、息子を抱いていたんだ、複雑だったろうと思うが、母は俺の心配だけをしてくれた。 母はしばらく泣きながら俺に謝った。 母を泣かせた事だけが、俺の胸に詰まって離れなかった。 もっと上手くやれていれば良かったのか、それとも男が全て悪かったのか、当時の俺には分からなかった。 男は追い出され、また貧しい2人暮らしになった。 高校は首席で学費免除に、大学も首席で入学で奨学金がタダになった。 おかげでなんとか生活できた。 母の給料とバイト代、実の父からの養育費。 それでも医学部では、学費以外の出費も多く、苦しい日々が続いた。 お金に余裕もなく、生活にも余裕がない当時の俺は、授業さえまともに受けてはいたが、クラスの同級生とは反りが合わず、問題行動ばかり起こしていた。 結果的に、相応の学力が必要な職業にはαが多く、高校の頃と何も変わらない...喧嘩して、勉強して、バイトして、...そんな日々が続いただけだった。 その時居酒屋で深夜まで働いてた俺は、近くのセックスパブの求人を見た。 ボーイとしてホールを走り回ってるだけで、居酒屋の深夜手当付きの給料よりも1.5倍ほど高い給料だった。 金が必要だった俺はすぐに応募した。 動機は高時給だから。 そんな淡白な俺でも、顔はいいからという理由で働かせてもらうことになった。 朝学校に行って、帰りはバイト、テスト期間中や試験に合わせて休みを貰ったりしながら、仕事中も休憩時間はすぐに小さな本を開いて勉強した。 仕事は難しくはなかった。だがボーイもチップをもらえるもの。ただぼーっと働いているだけでは時間がもったいなかったから、必死に働いた。 睡眠時間は平均4時間を切り、心が壊れるのも時間の問題だった。 大学の大きな門を越えて、外に出た瞬間から俺に安息はない。 引っ掴まれて人気の少ない場所へ連れて行かれると、大抵喧嘩になった。 毎度毎度違うαをボコボコにした。 もちろん、俺だって怪我まみれだった。 遂にα達は俺をボコすために徒党を組んだ。 α同士が組むなんて、考えもつかないが、同じ敵を倒す為ならプライドもなく俺を囲むわけだ。 数には勝てない俺はもちろんボコボコにされた。 それでも一瞬死を覚悟した俺は、2、3人は病院送りにしてやった。 俺だって骨は何箇所も折れた。 でも、世間は奴らではなく俺を排除した。 停学にされ、事実留年が確定。 もう一年多めに在籍する金なんてなかった俺は、治療費という負債と一緒に自主退学せざるを得なかった。 病院送りにした3人の親は、訴えを起こそうとはしたものの、結果的に防犯カメラに俺をリンチしている映像が残っていた為双方何もしない形での示談となった。 俺をリンチした奴らは今ものうのうと大学に通っているわけだ。 悔しくて仕方がなかった。 金さえあれば、と、反骨精神が俺をセックスパブのキャストにした。 Ωに生まれついた時点で、負けたと思ってた。 俺はこうして自分を売ることも、身を削ることも何も、金の為なら厭わない。 穢らわしい...綺麗さなんてかけらもない生き方してきた。 それでも悔しさでαに噛みついてきた。 悔しさだけが俺を動かしていて、俺に美しさなんて一つもない。 外面だけ、綺麗に産んでもらって助かったよ。 汚いもん全部隠して綺麗だって思われるんなら。 嶺緒は哀しそうに、そう話を締め括った。

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