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第20話 サディスト
邪魔な前髪を手で退かす仕草が好きで、でも俺とは殆ど関わりのない人で、ただ手の届かないその人が“美しいな”と、嶺緒さんにはそれだけの感情しかなかった。
でも目の前にしたその人は、俺の胸に縋り付いて、赤くした目をうるうると滲ませながら、快楽と比例して与えられる苦しみに耐えるように真っ直ぐに伸びた眉を顰めて、歯を食いしばっている。
可哀想だと、普通の人は思うんだろうか。
でも、俺は普通じゃない。
だから可哀想だとは思わない。
その表情を向けられ、俺を頼りにして、抱きついて、助けを求める様なその姿に、俺は気持ちが良くて仕方がなかった。
笑んでしまいそうな表情筋を抑えて、乱暴にしてしまいたい気持ちを抑えて、「大丈夫ですよ。」と「俺がいますから。」と優しい言葉をかける。
俺も間違いなくサディストだった。
———
初めは、オーナーからの呼び出しだった。
嶺緒さんをSMで一度舞台に立たせてみたいと。
それで、北尾さんを嶺緒さんと出演させたいが、嶺緒さんはΩで、北尾さんはαで、何か間違いが起こらない様にβの俺が補佐・監視役として一緒にショーに出るのを頼まれたのだ。
働く場所も違う俺にとっては嶺緒さんと共演だなんてありえないチャンスだった。
断る理由はない。
3Pといえど、ただ、嶺緒さんが無理せず、無事にショーに出るのを見届ける脇役。
それだけの筈だった。
「石黒くん、ちょっといいかな?」
笑顔で手招きするのは、北尾さん。
この人は普段は優しくて温和な人だが、Mやサブミッション趣味の人間には堪らないサディスティックな面があるαのキャストだった。
SMのNo.2とは名ばかりの俺とは違って、圧倒的に俺よりも人気がある。俺と北尾さんの間には大きな差がある。
俺は人が少ないから空いた席に座ってるだけのサディストな一面があるただの一般人にすぎない。
「なんすか〜?」
ちょっとした物陰が図体のでかい俺と北尾さんをピッタリ隠す。
「嶺緒のショーの補佐に着くんでしょ?僕がメインキャストとして嶺緒と一緒に出るのは知ってる?」
いつもの心を厚く覆う様な底の見えない笑顔で北尾さんは俺に話しかけた。
笑顔の通り機嫌がいいのか、それとも作った笑顔の裏に何かがあるのかは分からない。
「あぁ、聞いてますよ。お邪魔にならない程度にウマくやるんで、心配しないで下さいよっ。」
あくまでお前は“補佐”だから出しゃばるな。
そう言われるんだと俺は思っていた。
嶺緒さんとショーに出れるのは嬉しい。
でも、ここで立ち回りを間違えて敵を作ったりはしたくない。
俺は人生“ウマくやれてる”方の人間だから、北尾さんという人とも程よく、うまくやっていきたいだけだった。
「いや、君にはね、嶺緒のメンタルを“支える”人間でいて欲しいんだよね。」
肩に当たって跳ねた髪の先を整えながら、俺の胸を指先でコツコツと小さく突く。
絶えない笑みがその意味の深さを計り知れなくさせる。
「メンタル...?どういう事っすか?」
嶺緒さんがメンタル的に弱いなんて話も聞いたことがないし、俺には理解ができなかった。
それは俺がドミナンスに関しての理解が及ばないのと同じだった。
「僕は嶺緒の心が欲しいんだよ。彼は仕事以外での付き合いは持たないみたいだからこう言った機会は逃したくなくてね。石黒くんにはいい役回りをお願いするから、僕に協力して欲しいんだ。」
支配者(ドミナント)の言い回しは遠くわかりずらいが、要は嶺緒さんが好きだから落としたいって事だろう。
俺は別に、自分が損したり、被害を被らなければなんでもいい。
「内容によりますね。いい役回りってのも俺は“良い”と思えるかどうか、北尾さんにはわかるんすか?」
もはや嶺緒さんが知らない所で行われる裏取引の様なもんだ。モテる男は辛いな。
こうして周りがアンタの為に、アンタを巡って動いてるって本人は知らないんだろうと思うと可笑しくなってくる。
でも俺はこの話に半分乗っかるつもりだ。
嶺緒さんは悪い人じゃないんだろうが、俺にとって利益がある人でもなければ特別な人でもないからだ。
「石黒くん、君、自分の加虐性を抑えてるんでしょ?」
北尾がにっこりと笑みを深める。
自分の心の底を覗かれたようでゾッと逆毛立つ気分だった。要は、気分悪いって事。
俺の過去の過ちを、どこでしったかは知らないけど、しっかり理解して交渉しに来たんだ。
この人は侮れない。
「いや、俺はかなりマイルドなサドっすよ。」
一度鎌をかける。
あまり嫌な思い出を交渉の材料にはされたくないもんだ。
「いいや、違うね。何か恐れてるんだろう?過去に...、やり過ぎた経験でもあるんじゃ?」
今度は正確に核心を突いてきた。
確かに俺は以前のパートナーとセーフワードの認識や確認が甘いままプレイを行なって、やり過ぎた経験がある。
そしてそのパートナーとはそれっきり。
それが怖くて、本来の自身の欲求は抑えて人とは付き合うようにしてる。ましてや自分にサドっ気がある事も言わずただのβの男として今の彼女と付き合っている程だ。
「なんで、...知ってるんすか。」
「知っているではなくて、理解る。が正しいね。物足りないと言った顔をしてるよ。君はいつもね。」
間を詰められて少しだけ北尾さんを見上げる形になる。
お願いをしに来たのは北尾さんだ。なのに、有利な立場はあちらに掴まれている様でやりずらい。
「上手くやってくには、自分が我慢する事も必要っすよ。仕事なんですから、俺の欲を全部吐き出すわけにもいかないでしょ。」
そうやって諦めてきた。
そうやって自分の加虐性にストッパーをかけて、普通の嗜好を持っている人間に多少なりとも近いままでいようとした。
俺はαでもΩでもない。ただのβなんだから、と。
βなのにαの様に加虐性を募らせて、そんな自分がおかしいんだと、そう思って、変わろうとしたこともあった。
それが、大多数の人間と生きる上では正しい事のはずだと。
「そうやって、我慢してきたんだね。物足りなかったろう?それは嶺緒も同じ。自分のΩ性の持つ被虐性愛を理解していないんだよ。勿体ない事にね。」
優しく諭す様に、包み込む様に俺の過去の傷を舐める。
壁に追いやられ、壁に突いた腕が俺を脅す様だ。だがそれとは対照的に穏やかに垂れ、笑みで線になった目が俺の警戒心を解く。
「俺のことが、今回の嶺緒さんとのショーにどう関係あるんすか?」
「君の加虐性を抑え込む優しさは、嶺緒と僕に必要なんだよ。僕は今回のショーを成功させたい。でも今の嶺緒じゃマゾヒスト役は厳しいだろうね。僕もお遊戯をするつもりはない。だから君が、僕の責めで傷ついた嶺緒のメンタルを支えて欲しい。」
「それだけっすか?」
簡単すぎる。
俺はサディストだが初めてSMやる人に本気でやるほど鬼でもなければ、責めで傷ついた相手を慰めて優しくする程度の善意は持ち合わせてるつもりだ。
ただ後輩として嶺緒さんを支えるだけ。あまりにも簡単な事だと思った。
「勿論、僕が君にSの主導権を渡すタイミングにはよるが、ちゃんと責め役を君に任せる事もあるよ。責めもできて、僕が嫌われ役に回って君が嶺緒の味方になる。いい役回りだろ?」
こうして支配者に頼まれた仕事を俺は言われるがままにこなしている。
いや、こなしているというよりは自然と俺の性格上嶺緒さんに肩入れしてしまっているのが正しいだろう。
それが北尾さんの目論見だってことは、すっかり忘れてしまっていた。
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