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 一番古い記憶は、(きら)めくガラス玉が涼やかな音色を立てながら回転している光景から始まった。ガラス職人の父が作ったオリジナルの回転木馬だったのだが、まだ赤ん坊だった暁は、ただキラキラ光る綺麗なものだと思って、それを見る度に笑っていた。  父の腕がどの程度なのか、実は23歳になった今になっても分かっていないが、その回転木馬はきっと何歳になっても忘れないほど素晴らしかった。  光の加減で万華鏡のように色を変え、一日たりとも同じ色合いだったことがない回転木馬。  ある程度成長した暁が、父の膝の上で「色って何色まであるの?」とガラスを見ながら尋ねると、「お前が自分の目で見える数だ」と真剣に返された。  物心ついた時から、父と二人きりだった。母親のことを一度だけ尋ねたことがあるが、悲し気に笑うばかりで、答えは返って来なかった。  成長と共に、母は死んだか出て行ったのだと憶測を働かせたりしたが、答えを追求しようとは思わないまま大人になった。一度も会ったことのない肉親に対する思いというのは、案外そんなものだ。  一方で、父の龍巳からは異常なほど愛情を注がれてきた。それが異常だと完全に気付く頃にはもう、暁の体は隅々まで父のものになっていた。 「暁、どうした。ん?」  まだ小学校にも上がっていない頃のこと。暑い夏のある日、暁は朝から猛烈な体のだるさと闘っていた。  龍巳に気付かれまいとしていたわけではないが、作品づくりに勤しむ龍巳に言い出しにくかったため、我慢していた。それを見抜かれたのは、いつも行く虫取りをしに行かずに、部屋の中でブロック遊びをしていた時だった。 「何が?」 「何か元気がなさそうだからな。どこか具合でも悪いか?」  龍巳が言いながら近付いて来て、暁を背中から抱き上げ、胡坐の上に座らせる。龍巳はもともと体温が低いのもあるが、その時はいつにも増してひんやりと冷たく感じられて、思わず暁は龍巳の胸元に抱きついた。 「やっぱりどっか具合が悪いんだろ。いつもはこんな甘えてこないもんな」  そう喉奥で笑い、龍巳はどおれと言いながら暁の体を(まさぐ)り始めた。  最初は熱を測るためにか額と腋の下だったが、暁がくすぐったくて笑い声を立てると、喜んでいると勘違いしたのか、腹部から背中、胸元まで触り出す。しかも、胸の頂の突起の部分はしつこく捏ねくり回された。 「お、とうさ……、なん、そこばっか……」  次第に龍巳が何をしているのか分からなくなり、むず痒さと共にぐんと体温が上がった気がした。 「ん?暁が汗を掻くようにな。ほら、暑くなってきただろ」  指摘されて気付いたが、いつの間にか全身がじっとりと汗ばんでいた。 「汗を掻くと熱が下がるからな。暁、バンザイだ。汗を拭いてやる」  言われたとおりに両手を上げると、あっという間に服を脱がされ、ズボンだけ履いている状態になった。そして、龍巳がタオルを持ってくるのを待つ。  ところが、龍巳はなかなか動こうとせず、暁の肌をじっと見ていた。 「お父さん?」  不思議に思いながら問いかけると、はっと我に返ったような顔をして、苦笑を浮かべながらタオルを取り出して来て、予告通りに拭き始めた。その手つきは少しも不自然なところはなく、変なことはもうされなかったが、少し強張っているように感じた。  その時は、それだけで何もなかった。  ただ、夜中に高熱を出して苦しんでいたら、龍巳が額に唇を押し付けてきたような、そんな気がしたのを、うっすらと覚えている。  その次は、小学校に上がったばかりの頃だったか。あの時には、少しずつ父親に対する違和感を抱き始めていた。そして、忘れ難いあの出来事があったのだ。  その日は、放課後に二人の友人と帰り道にある公園で遊んでいたのだが、いささか夢中になり過ぎて、時間が随分経っているのに気付かなかった。  ふと顔を上げると、燃えるように赤い夕陽があって、単にもう帰らなくてはいけないなと思った。 「暁、帰るのか?」  公園で一緒に遊んでいた友人の一人が額の汗を拭いながら聞いてくる。小学一年生にしては体格のいい春音(しゅんと)は、暁の一番の友人だった。 「うん。暗くなる前に帰るんだぞってお父さんに言われているから」 「お前んち、お父さんきびしーのか?」  もう一人の友人である疾風(はやて)がボールを網に仕舞いながら、何やらにやにやと見てきた。 「何だよ。べつに厳しくないよ。すっごく優しいし。でも、ちょっとでも遅く帰ると怒られるけど……」 「お前、それ何て言うか知っているか」 「何て言うの」  暁の代わりに春音が尋ねると、疾風は得意気に言った。 「カホゴって言うんだって。俺の妹に対して、俺のお父さんがしているのと、お前に対してお前のお父さんがしているのは同じに見える。でも、それって何か変じゃね?」 「何が」 「だって俺のお母さんが言ってた。お父さんは男親だから娘が可愛いのは仕方ないって。でも暁のところはそうじゃないだろ?何か、お前が」  オンナノコみたいと疾風が言う声に被さるようにして、夕方5時のチャイムが鳴り始める。 「やっべ。俺帰らねえと」 「俺も。じゃあな、暁」  暁だけが帰る方向が違うせいか、二人に取り残されるかたちになる。手を中途半端に持ち上げて振り返し、帰りかけたところで、疾風の言葉が反響した。  それって何か変じゃね?オンナノコみたい。  胸の内に説明のつかない感情が湧き起こる。苛立ちでも、怒りでも、悲しみでもないそれは、心に消えないシミをつくった。  だがそういう感情が湧き起こるのも、暁自身が感じていたことを言い当てられたからではないのか。そう思うと、余計に息が詰まるような気がした。  帰ろうとする気持ちが(しぼ)み、傍にあったブランコに座る。いつまでもこうしていたら、間違いなく父の龍巳が迎えに来るだろう。そして、叱りつけてくるだろうか。  龍巳は普段はとてつもなく優しい父親だが、帰宅が遅かったり、少しでも約束を破ったりすると、とんでもなく怖くなる。殴ったり、暴言を吐かれたりとかそういうことではない。ただ無言で、両目を獣のようにぎらつかせながら、静かに暁の体に触れてくるのだ。  もちろん、そういう時に限ってではなく、いつも何かしら体に触れてきてはいるのだが、手を握ったり抱き締めたりといった程度のものだ。  それが、この間少し帰宅が遅くなった時は、いきなり全部服を剥ぎ取られた。そして、いつかのように胸を執拗に触り始めたかと思うと、その先端に口をつけて舐められた。  不思議と嫌悪はなかったが、舐められる度に奇妙な感覚が体を這い、龍巳によって体を作り変えられていくような気がして、その恐怖と闘いながら、嵐が過ぎ去るのを待った。  オンナノコみたい、という疾風の言葉がいつまでも頭の中に響いている。反論できなかった。その通りな気がした。  俺は、本当はオンナノコなのかもしれない。  その考えに至った時、一瞬脳内に何かの光景が浮かんだ。暁の声を呼ぶ、誰かの声。その誰かが暁に手を伸ばし、そっと抱き上げようとしている。龍巳ではない。それだけは確かだ。 「だ、れ……?」  頭の中に存在する相手に問いかけても、返事があるわけがない。だが、その相手は口を開き、何かを答えようとしてきて。 「暁!」  耳に飛び込んできた声で現実に引き戻される。顔を上げずとも声の主が誰だか瞬時に理解したが、まるで見知らぬ人から呼ばれたような奇妙な違和感を抱いた。 「お……と、うさ……」  見上げた先に、父親というよりは年の離れた兄といっても通用しそうな男が、息を切らしながら立っていた。  龍巳が近付いてきて暁を抱き上げてくるのに身を任せながら、そういえば、と思う。  そういえば、周りの人間にはよく、「暁ってお父さんにあんまり似てないな」と言われるなあと。 「ねぇ、お父さ……っ」  龍巳に何を確かめようとしたのかは、自分でもよく分からない。何か重要なことだった気がした。  だが、尋ねようとする暁を黙らせるように、龍巳は臀部を揉んできた。 「っ……、ぁっ……」  やめて、という言葉が薄っすらと浮かびかけたが、手がハーフパンツの中へ侵入してきて直に触り始めると、あっという間に消え去り、代わりに変な声が自分の口から出始めた。 「あっ……、ンん……」  声を出すまいと唇を噛み締めても、龍巳の指が後孔を突いて(しわ)をぐりぐりと押してきた時、我慢ならずに溢れ出た。 「ぁああっ……」  宵闇に沈みかけた住宅街に、自分の濡れた声が響く。とてつもなく恥ずかしかったが、同時に背中が反り返るほど気持ちがいいとも思い始めてしまい、龍巳の手でダンスを踊らされるように乱れに乱れた。  自宅に着いた時にはわけが分からなくなっていて、無言のままの龍巳に服を全部脱がされ、ベッドの上に寝転され、上から覆い被さってこられても声の一つ上げず、されるがままだった。  それが、父親と一線を超えた最初の瞬間だったのだが、今でも不思議に思うことがある。  いくら誰にとっても初めての相手が特別とはいえ、肉親相手には普通、もっと違う感情を抱くのではないかと。妙なことに、暁は未だに、父に縛られていながらも、そういうことをしている時は気持ちがいい以外の感情は湧いてこないのだ。  ただ、世間に対する後ろめたさや、相手が父親だという息苦しさがあるだけで。  そして、何よりも。龍巳が暁を抱く時に見る目だ。最初からずっと、まるで痛ましいものを見るように暁を見ていた。  あの目の意味を聞くまでは。  そうやって過去に思いを馳せているうちに、いつの間にか実家に来ていた。

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