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3.冬が来た①

 幼馴染四人の中で一番最初に彼女ができたのは昴だった。小柄で、小学校が同じだったけれどあまり交流のない、大人しいタイプの女子だったと冬真は記憶している。  昴は昔から自分に対する好意に弱いところがある。おまけに頼られると誰よりやる気になってしまう。最初の彼女に告白された時だって、今まで女子に興味なんてなかったくせに、彼女の方よりも好きになっていたし。その子とは半年くらい付き合って、中学三年の初めくらいに別れた。 「ああ、昴別れたって」 「え?」  何気ない会話の中に突然降ってきた言葉に冬真と千晶は声をそろえた。 「い、いつ?」「なんで?」「昨日?」「一昨日?」「なんでお前知ってんの?」「なんで俺らは知らないの?」 「ちょ…… ちょっとストップストップ」  矢継ぎ早に浴びせられる問いに、鷹弘はその身を引いた。 「そうやって騒がれるから昴もお前らに言わなかったんじゃないの」 「そりゃ騒ぐだろ…… 冬真?」  おもむろに席を立って教室を出た冬真とすれ違いで昴が入っていくのが見える。  その違和感は、昴に彼女ができたその時からあった。何か鋭く、しかしけして細くも小さくもない異物が自身の胸の中心を差して、昴と話す度にそこが痛んで、上手く話せなくなった。 「お前らさ、なんか喧嘩でもしてんの」  ある時ふいに千晶が尋ねてきて、冬真は生唾を呑んだ。 「…… 別に」 「鷹弘も心配してる」 「心配ないっつっといて」 「昴も気にしてる」 「…… マジでなんでもないから」  千晶に見つめられると、冬真はいつもすべてを見透かされているような気分になる。彼はいつも人間関係に関することは鈍いくせに、どうしてかこの四人の間で起こった出来事にだけは鋭く、その場しのぎの嘘など通用しないと思わされる。 「ちょっと前にフラれて、俺が勝手に落ち込んでるだけだから」  取り繕うように言うと、千晶はふうんと呟いた。 「…… それってさ」 「お前らの知らない奴。他校」 「…… あ、そう」  初夏の生温い風が開け放った教室の窓から入ってきて、カーテンをさらった。田植えがされたばかりの青い田んぼの匂いがする。昼間降った大量の雨の匂いがする。家の軒先で干された梅の匂いがする。冬真の嫌いな匂いだった。 「フラれてんのに俺がまだ諦められてないってだけの話だから、あんま…… 気にしないでいいし」 「よくないだろ。普通に今まで通り接してやれよ」  かちんときた。もう完全に気づいていて、それでも今まで通り幼馴染を演じろと言っているのだ、この男は。 「…… 普通って…… どうやって今まで通りになんかできるっていうんだよ」  なかば八つ当たりぎみに言えば千晶は「知らねーよ」と投げやりに言った。 「俺らの知らない奴なんだろ。でもお前がそんなだと昴も鷹弘も心配するしこっちだって気ィ遣うんだよ。フラれて落ち込むのはわかるけど昴に当たんなよって話」  そんなふうに言われては冬真には返す言葉がなかった。  千晶の気持ちもわかる。高校は全員同じところを志望しているけど、全員が無事に合格できる保障なんてないし、その先なんてもっと。共通点なんてひとつもない四人で、一緒にいると周りがそろって首を傾げるのが常だった。  ある意味では、バランスが良く。  またある意味では、ひどく不安定で、ふとしたきっかけで簡単に崩れてしまいそうな。  そういう感覚のなか、四人の関係は成り立っていた。  そこへ忍び寄るようにして入り込んできた異物は、時折鈍く音を立ててその存在を主張した。それはまるで――………… 「高橋先生、データありがとうございました」  男は、美しい顔を少しも動かさずに言った。ついこの間、ベッドの上で乱れていた男と同一人物とは思えない。 「…… いえ。また何かあれば言ってください」  白峰吹雪は、去年の春に新卒で採用されたばかりの英語教師だ。年齢に似合わず落ち着いていて、隙のない態度から生徒にも遠巻きにされている印象だ。受け持ちの部活の生徒によれば授業自体はわかりやすいらしく、冬真は勿体ないなと思う。 『―― 北斗、北斗っ……』  あの夜、うわずった声で涙を流しながら言ったのは、知った男の名前だった。  昴の―― 長い間片想いしている相手の、新しい恋人。一瞬同じ人間かと思ったが違う人かもしれない。北斗なんて特別珍しい名でもない。  昴はああみえて、彼女が途切れたことはほとんどない。中学から専門学校時代は特に。冬真の知らないところで、知らない女と付き合って、知らないうちにいつも別れている。 『またフラれたって?』  昴に彼女ができるたびに疎遠になって、別れるとまた仲良くするというのを何年も繰り返していた。 『なんか合わなかった』  別れてから言うのはいつも、そんな曖昧な文句だった。じゃあ最初から付き合わなければいいのにと。俺がいればそれでいいじゃないかと、そういう言葉を幾度となく飲み込んで。  歴代の彼女たちに対する優越感に満たされながら、つかの間のぬるま湯に浸る。     *   『冬が来た』―― 高村光太郎  (前略)  冬よ  僕に来い、僕に来い  僕は冬の力、冬は僕の餌食だ  しみ透れ、つきぬけ  火事を出せ、雪で埋めろ  刃物のやうな冬が来た   (詩集『道程』より)     * 「―― はい、じゃあ今日はここまで」  チャイムとともにざわめき出した教室内で、冬真は声を張り上げた。 「さっきのプリントは次のテストに出すからなくさないように」  冬真が教室を出るタイミングで複数の生徒たちが財布を持って教室を出て行くのが見える。この学校に購買はないが、代わりに昼休みになると商店街のパン屋が玄関ホールで販売をしている。近くにコンビニもあるので、大体は朝にコンビニで調達する生徒と、自宅から持ってくる生徒、昼にパンを買う生徒、の三パターンに分かれている。それは教師もおおむね同様で、冬真はいつも朝コンビニに寄ってくる。  昼食を置いている教務室に戻ろうとしてふと、ある教室の戸の前で立つ吹雪の姿を認めて足を止める。 「どうしたんですか」  声をかけると吹雪はこちらに顔だけ向けて言った。 「戸が閉まらなくて」 「ああ、ここ古いから」  建てつけの悪い、古い木製の戸に手を置く吹雪と替わって持ち上げるようにして閉めようと試みるが、上手くいかない。 「白峰先生、ここ使ったことなかったですっけ」 「ないですね……。今日は第三が選択授業で使われてて」 「あーなるほど…… 全然閉まんないですね。なんか挟まってんのかな」 「それか湿気のせいですかね」  戸が閉まらないと鍵をかけられない。 「俺こっちから押してみます」  吹雪が戸の反対側に手をかけて、せーので押す。動かない。もう一度掛け声を合わせ、それは突然動いた。 「とっ……!」  自然とさっきより力が入った体は、突然動いた戸に合わせて傾ぐ。自身もよろめきながら、冬真は隣でよろめいた体を反射で抱きとめた。 「…………」 「…… 閉じましたね」 「…… あ、ですね」  助かりました、と言いながら吹雪は錆びが原因で取り替えられた鍵穴に鍵を差し込み、しっかりと施錠する。…… それにしても、なぜ扉ごと取り替えてくれなかったのか。鍵だけ取り替えるという判断を下した人物に内心文句をつける冬真のそばで、吹雪がふうっと息をつく。 「疲れましたね」 「ほんとに」  笑いながら言うと、微かな笑みが返ってくる。少し肩の力が抜けたようなその表情は、普段よりもいくらか親しみやすい。そんなことを思いながら、今度こそ昼食を摂りに教務室へ戻ってきた。  教務室の隅では、何人かの教師たちがとある不登校の生徒について言葉を交わしていた。  …… 昴は、不登校とか、そういうことをする勇気のある奴じゃなかった。学校なんて病気以外で一度も休んだことのない昴が、あっさりと社会に潰されてしまったのは、社会人になって一年目の冬だった。  理不尽だと思った。  一方で優越感も感じながら、大学生で時間の余裕もあったこともあって、昴のそばにずっといた。自分が、自分だけが。 (俺だったのに)  昴が立ち直るまで、ずっとそばにいたのは俺だったのに。

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