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4.冬が来た②
好きなもの、嫌いなもの。得意科目、苦手科目。好みの女子のタイプ。苦手な女子のタイプ。知らないことなんてひとつもなかったはずなのに、いつからか知らないことの方が増えて、本来体の一部だった場所が剥がれていくような感覚がただ怖かった。四人が四人とも、別個の存在として生きていく。あたりまえだけれど怖かった。お前など俺の人生に無関係なのだと突きつけられたみたいで。
耐えられなくて逃げるように一人暮らしを始めたのが、つい最近。もともと就職したら一人暮らしをするつもりだったのが、祖父の不幸で延びてしまい、ずるずると実家に居続けてしまった。
(男か……)
そうか、男か。
先日昴から例の彼と付き合うことになったという報告があって、その前からあった胸の中の異物が、少しずつ悲鳴を上げ始めている。
別に、どうこうなりたいとか、そういう間柄に自分がなりたいとか思っていたわけじゃないけど。
冬真はあるバーの扉に手をかけた。扉を押し開くとベルが軽やかな音を立てて出迎える。
「…… 白峰先生?」
カウンター席に知った顔を見つけて考えるより先に声が出た。吹雪は呼ばれて一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにこんばんは、と挨拶してきた。
「家この辺りなんですか?」
「あー、最近引っ越して」
仕事でないときに話すのも嫌がられるかと思ったが、向こうから話しかけられたので隣に座りながら答える。というかこの人、一人で酒なんか飲むのか。以前飲んだときはすぐに赤くなっていた上に、ビールが苦手だとこぼしていたからてっきり酒自体あまり飲まないのかと思っていた。
まあカクテルなら度数が弱いものも多いしと思っていた矢先。
「レッド・アイです」
吹雪の前に置かれたカクテルを見て、冬真は内心穏やかでなくなってしまう。
「そ……、それビール入ってますけど大丈夫ですか」
半分はトマトジュースが入っているとはいえ、この間居酒屋でビールをグラスの半分も飲まないうちに酔ったのを目の当たりにした身としては心配になる。冬真の言葉に吹雪は大丈夫ですよ、と薄い唇の端を持ち上げた。
「度数も低いし、ちゃんとつまみも食べてるんで」
そうだろうか。冬真はジントニックをゆっくりと飲みながら吹雪の顔色を見た。見目がいいので、バーで酒を飲む姿はかなり様になっている。昴も酒に弱くて、彼が酔わないように配慮するのは冬真の役目だった。
(それにしても)
綺麗な横顔だ。多分、この間みたいなのも初めてじゃないんだろう。普段からこういうところで適当な人間を引っかけて遊んでいるのかもしれない。…… それって教師としてどうなんだろう。いろんな意味で心配になる。でもまあ、この人だって大人だし、そんな必要はないだろうが。
「―― だめじゃないですか」
吹雪はグラスの三分の一ほどを残して舟を漕ぎだした。ほら見たことかと水を飲むよう促すと、吹雪はほんのりと赤い顔で冬真の向こう側を指さした。
「あれ飲みたい」
そちらを見れば、少し離れた場所に座る男性が飲むカクテルグラスが目に入る。黄味のかかった白っぽい、半透明のショートドリンクで、きっと吹雪がさっき飲んでいたのよりは度数は高いだろう。
「無理でしょう……」
「前友達が飲んでてー、お前には無理って言われてー」
「じゃあ我慢してください」
えー、と子どもみたいな文句を言ってくるが、顔は全然子どもには見えない。
「飲みたい……」
「…………」
一口くらいならいいか。どうせもう大分酔っているし、たった一口では変わらない気がする。一口飲めば気も済むだろう。
「ビトウィーン・ザ・シーツです」
目の前にやってきたカクテルグラスを、冬真は吹雪に向かって押し出す。
「おいしい」
カクテルを飲む吹雪を見てなぜ自分がたまたま居合わせた同僚の面倒を見なければいけないのかという疑問がふと脳裏をよぎるが、男の顔を見るなりそれは霧散する。
ただでさえ整った顔であるのに、酒で潤んだ目元はほんのりと色づいた表情も相まって性別、年齢問わずどんな人間も酔わせてしまいそうな魔性にもにた香りさえ感じる。
その香りを無理矢理断ち切るように、冬真は残りのカクテルを飲み干した。
「先生、今日こそ自分の家に帰ってくださいね」
「んー……」
聞いてないな。前回と完全に同じ流れだ。冬真もさっきのカクテルが効いてきたのか目蓋が重くなってきて、タクシーの運転手に行き先を告げるだけで精一杯だった。
まずい。今膝をついたら秒で寝る。
「先生そこで寝ないでください」
眠気に抗う冬真とは対照的に、廊下でそのまま眠りにつこうとする吹雪に注意するがやはり聞いていない。
―― ここで、この廊下で、この人を抱いた。
『白峰先生、そこで寝ないでください。ベッド使っていいので』
まさかビール一杯で自分の家の住所も言えないほど駄目になるとは思わなくて、戸惑いつつも自宅に上げた。
『―― ベッド、ベッドね、お気に入りだったんですよ、あれ』
同じように廊下に座り込んで壁にもたれながら吹雪は話し始めた。
『あそこでくっついて寝るのがね、すごい好きだったんですよ…… 男二人で寝るとさすがに狭くて…… いや、好きっていうより安心してたのかな…… あ、叔母さんに買ってもらったんですけど』
吹雪の話は支離滅裂で、まさに酔っぱらいのそれだった。
『薄情な…… 人間なんですよ、俺は…… 名前も冷たいし』
そう言って吹雪はへらへらと笑った。
『ずっと、何しても…… 寂しくて。…… 北斗も、そうだったんだろうなって…… ほら、雪玉って、ぶつかり合うと壊れるじゃないですか…… だから俺、怖くなって…………』
あの時と同じように腰を支え、やや強引に立たせた吹雪の足ががくんと落ちる。倒れてしまわないように慌てて支えようとした体は反対側の壁にもたれ、冬真が覆い被さるような形になってしまう。
冬真はどきりとした。
長めの前髪が頬にかかって、影を作っていた。それはあまりにも美しく、何か著名な彫像のように思えた。
気づいた時には迫りくるその顔に、唇を奪われていた。
「…………」
だめだ。
この前の二の舞になる。よくない、と思っている間にも唇の隙間から舌が入り込んできて酒のせいで風前の灯火だった理性があっさり吹き飛ばされそうになる。
(ああ)
情に弱いのはきっと俺の方だ。
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