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5.Wintering①

 ずっと母子家庭だった北斗に義理の父親ができたのは、高校に入ってすぐのことだった。北斗も確かに喜んでいたし、祝福もしたけれど。―― これは吹雪の予想でしかないが、北斗には母親が裏切り者のように見えていたのではないだろうかと思う。  あの日から、北斗のそばにずっといたのは自分だったのにという想いが消えない。 (またか)  またなのか。冬真の部屋のベッドで目覚めた吹雪は、ベッドの上にひとり座りながら、この上なく冷静に反省していた。  昨夜、いつものバーで冬真に偶然会って、その時点でほろ酔いだったが、その後から記憶がない。ただ前回と違うのは、隣に冬真の寝姿がないことだ。加えて言えば、着ていたはずの服ではなく見覚えのない白いTシャツが己の上半身に収まっている。ついでにいえば下半身も、下着はそのままだが着ていたはずのものではなく黒いジャージが履かされている。寝室の外の方から物音が聞こえるのが怖い。 「あ、具合どうですか」  寝室の引き戸を開けると冬真がキッチンに立っていた。 「具合……?」 「昨日二度ほど吐いてたので。覚えてないですか」 「し、知らないですなんですかそれ」  酔って家に上がり込んで嘔吐までして「知らない」も「なんですかそれ」も言えた立場ではないが初耳だ。 「服まだ乾かないんですけど、予定とかありました?」 「いえ……」  冬真は前回と同じようにさもなんでもないような態度だ。もしかすると本当に何もなかったか、あるいは彼の中では日常的なことなのかもしれない。…… 高校教師なのに? 自分のことを棚に上げてあれこれ考えていると、冬真から声がかかる。 「今から軽く朝飯作るので、先生もよかったら」 「はい…… あ、手伝います。というか俺がやります」  冬真の立つキッチンに足を向けようとして、ふと思い至る。昨日はシャワーを浴びた記憶がない。ひょっとすると入れてもらった? ただの同僚にそこまでするか? いや、でもそれを言い出したらそもそもただの同僚の家で介抱までしてもらっているこの状況が……。 「すぐにできるんで、先生はシャワー浴びてきてください」  昨日そのまま寝たでしょ、と言われてしまえば従うほかない。風呂に入れてもらうまではしてもらっていないことに安心しつつシャワーを浴びて戻るとすでに簡単な朝食ができあがっていた。 「先に水飲みます?」  席に着き、冬真が注いでくれた水を一口飲んで、吹雪は息を吐いた。 「…… 本当にすみません。何かできることがあれば何でもするので、言ってください」  そう言ってから、自分にはできることが何もないことに思い至る。冬真とはおそらく数歳しか違わないが自分の方は教師としては新人かつ後輩で、力になれることはないだろう。 「じゃあもう酔わないでください」 「はい……」  反論などできるはずもないので、吹雪は大人しく料理に手を付けた。すべて食べ終えて、一緒に出されたカフェオレを味わっていると冬真のスマホが鳴って彼は席を立った。 「―― もしもし。何? キーホルダー? 知らないけど。落としたの? この前来た時って…… ちょっと待って」  冬真は吹雪の方をちらりと見て、会話を続けながらリビングの方へと向かった。長引きそうな様子だったので吹雪は席を立ち、食べ終わった食器を洗うことにした。 「わかった、わかった。探しとく。今客が来てるから、もう切るぞ―― 何? 昴? 違うよ…… 女でもないって。はいはい、じゃあな」  友達? …… 彼女かもしれない。  そんなことを思いながら食器を洗っていると冬真がすみませんと言いながらこっちへ戻ってきた。吹雪が「いえ、これくらいは」と言って作業を続けていると、ふいに冬真がじっと見つめてくる。 「…… さっきの話ですけど」 「はい?」 「さっき、何でもするって言いましたよね」 「………… 俺にできることであれば」  自分で言い出したことだが、嫌な予感がする。冬真は「そんなにおかしなことではないですけど」と苦笑まじりに言った。 「今度の体育祭で、軍対抗リレーがあるじゃないですか。それに出る先生チームのメンバーが足りないから一緒に出てほしくて」  吹雪はひっそりと眉間に皺を寄せた。というのも、この話はつい先日体育科の教師に同じことを依頼されて他の業務で手一杯だからと理由をつけて断ったばかりだったからだ。うまく躱したと思っていたのに、こんなところで捕まるとは思っていなかった。吹雪の険しい表情に冬真は断られるとでも思ったのか 「言っても最後の三年男子のリレーだけですよ。負けたからって何かペナルティがあるわけじゃないし、純粋に盛り上がるので」 と付け加えた。  そうは言われても、リレーどころかまともに走るのさえ高校以来だ。若いというだけで百メートルも走らされるのは納得がいかないが、何でもするなどと言った手前断れない。去年はどうだったか。今年同様、細々した業務をあれこれ任されているのを理由に断ったような気もするが。中庭にいくつか置かれた自販機の中からコーヒーをふたつ選ぶと、吹雪は教務室に戻った。教務室に入るなり、気づいた体育科の三宅が声をかけてくる。 「白峰先生、リレーに出てくださるようで」 「はあ、まあ」  まるきり不本意であるという感情をできるだけ表面に出して言ってやるが、彼には通じなかった。心配事がひとつ片付いたといった様子で自席に帰っていった。苦手だ。  苦虫を嚙み潰したような顔になりそうなのを隠しながら、吹雪は冬真の座る机にさっき買った缶コーヒーを置いた。不思議そうな顔で見上げてくる冬真に、吹雪は口を開いた。 「先日のお詫びというか…… その、下着…… はお返しするわけにもいかないので、よろしかったら」  冬真はああ、と口にすると短く礼を言って缶を手に取った。 「リレーに出てもらえるってだけで、俺としてはよかったんですけど。白峰先生が走るってなったら、喜ぶ生徒も多いでしょうし」  言われて、吹雪は思わず口を閉ざした。 「…… ご迷惑をおかけしたのは確かなので、リレーには出ますけど。…… 正直、そういう扱いを受けるのはいい気がしません」  と、その時ちょうどチャイムが鳴って、吹雪は「すみません、失礼します」と断って授業に向かった。  体育祭が近づいてくると、いつも以上に授業に集中しない生徒も出てくる。衣装案や、パネルのデザイン画をこっそり描いている生徒もいるし、私語も普段より多い。配布したプリントの説明をするが、見てもいない生徒がちらほらいるなかで、吹雪の視界に後ろを向いて会話をする女子が目に入る。トントンと机を叩いて注意を促すと彼女は慌てて正面を向いた。  吹雪が立ち去ると「じゃあ、Lにしとくね」と言う声が後ろから聞こえてくる。彼女の手元にあったのは体育祭で着るTシャツのサイズ確認票だ。軍ごとのイメージカラーと同じ色を生徒はそれぞれ身に着ける。  ちらと話しかけられていた方に目をやれば、話しかけられていた女子はうん、と控えめに頷いた。その女子は背が高いことで入学してから教師の間でも話題になっていて、先日などはそのことで男子にからかわれていた。その男子は運悪く生活指導部の教師に見つかって注意を受けていたが。 「あ、白峰先生」  人気のない特別棟の廊下から教務室に戻ろうとしていると、後ろから声をかけられた。振り向けば、どこか緊張した面持ちの冬真がいる。 「あの、さっきは……」  冬真が口を開くと同時に、後ろから「高橋先生」と呼ぶ声がした。吹雪や冬真とそれほど変わらない背丈の女子は、冬真の方へ進みながら「日誌、持ってきました」と手にした学級日誌を差し出した。冬真がお疲れ様、とねぎらうと彼女は礼をして立ち去ろうとした。 「ああそうだ、関屋」  背を向けかけていた彼女を、冬真は少し慌てた様子で呼び止めた。 「ごめん、体育祭のTシャツのサイズ表、さっき俺コーヒーこぼしちゃってさ。何人かサイズわかんなくなっちゃって。関屋のもわかんなくなっちゃったから、今教えてもらってもいい?」 「あ―― ええと」  彼女は一瞬口ごもった後、 「え…… エム、Mでお願いします」 と口にした。冬真は了解、と言って手元のメモに書きつけてから、はっとしたように顔を上げた。 「女子に服のサイズ聞くのってセクハラですかね?」 「えっ、ど、どう…… なんでしょう……」  不意打ちで問いかけられて曖昧に返す吹雪の目の前で女子生徒はわかりやすく慌てた。 「あ、あの、大丈夫です、気にしてません」 「マジ? よかっ――、いやよくないわ…… 白峰先生これ内緒にしてくださいね」 「いや、言わないですよ、いちいちこんなこと」  あぶねー、と呟く冬真の前で、女子生徒はもう一度挨拶すると小走りで去っていった。 「…… コーヒーこぼしてなんかないんじゃないですか?」  女子生徒が完全に見えなくなってから吹雪が問いかけると、冬真は「どうですかね」と言った。 「こぼしたのはひょっとすると、気のせいのような気がしないでもないですが」  冬真は窓の外に目をやった。 「…… なにが、本人にとって良いことか悪いことかなんてわからないですよね。本人は気にしているかもしれないし、周りが何か言ったりしたりするかもしれない」  グラウンドには部活動にいそしむ生徒たちの声が飛び交っていて、冬真はそこから目を逸らすように体の向きを変えた。 「先ほどはすみませんでした。容姿が優れているのは長所だと思い込んでいて……。狭い価値観でしか考えていない発言でした」 「…… いえ」  吹雪は、ここまで真摯に謝罪されるとはまさか思っていなかったので、少したじろぎつつも言った。 「あれは別に、高橋先生の言葉に傷ついたためではなくて、…… 昔あった、嫌なことを思い出したせいです。こちらこそ一時の感情で失礼な態度をとってしまって、すみません」  廊下の向こうから「先生さようならー!」と大声で言うのが聞こえた。冬真が生徒たちに挨拶を返すのを見ながら、吹雪は再び歩き出した。 「…… 好きだった人が、俺の顔が好きだと言ってくれたんですよね」 「―― それは、」  冬真は一瞬驚いたような顔をした後、吹雪に問いかけた。 「その人は、今は……?」 「もう会ってないですね。他に恋人がいて――」  そこで吹雪ははっとして口をつぐんだ。完全に余計なことを話してしまった。吹雪は冬真の視線から慌てて目を逸らした。

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