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6.Wintering②
冬樹はいい父だったと思う。吹雪や、吹雪の姉にも優しかったし、間違ったことをすれば叱ってくれた。大好きな父だった。
吹雪はキッチンの収納を開けて、あれ、と首を傾げた。
「ラップの買い置きってここじゃなかったっけ?」
「あ、ごめん、このまえ頂き物で缶詰いっぱいもらっちゃって、それ入れるために一旦上の棚に移動させたんだ」
「ここ?」
上の収納棚を開けるが見当たらない。隣の棚だろうか、と佳澄の頭上に手を伸ばすと、彼女の肩がびくりと震えた。
「あ、あった」
「―― そ…… そう、よかった。…… あ、私、部屋に下着干しっぱなしだったから取り寄せてくる。鍋進めといて」
そそくさとその場を後にする佳澄の背を見つめながら、吹雪は思わずラップを持つ手に力を込めた。
本人に詳しく聞いたわけじゃない。しかし、彼女の言葉や態度の片鱗を組み合わせていくと、そういうことになる。―― それに。
『それでも私は兄を一生許せない』
ある時佳澄はそう言った。
「…… 戻ってきちゃってごめんね」
「いいよ、もうその話は」
鍋をよそいながらぽつりと言うと、そう言われる。せめて父ともども嫌われているならまだよかったが、あんなふうにおびえられてはどうしようもない。
体育祭当日、吹雪は得点板と本部の間を何度も行ったり来たりさせられていた。この学校の得点板は校舎の三回ベランダに設置されていて、競技ごとに各軍の得点が確定すると得点板の表示を変えなければならない。得点板の表示を変える役割の生徒もいるにはいるし、得点板の近くで待ち構えている教師もいるのだが、点数の間違いや変更を伝えに行くために幾度も走らされている。
着ているのは派手な黄色のTシャツで、ずっと見ていると目に悪影響がありそうな色だ。黄軍のクラスの副担任なので仕方なく身に着けているが、本来なら着たくない。
本部に戻ると、同じく教師の中では若い冬真が教育委員会などの関係者にお茶を出してきたところだった。目が合うと、お疲れ様です、と挨拶される。
「このあとリレーですけど、いけそうですか?」
「―― ええ、まあ……」
息を切らして曖昧な返事をすると冬真は少し笑って吹雪にペットボトルのお茶を渡してきた。来客用の余りだろう。
この間のことといい、こういうところが生徒に人気なのだろう。優しさや気遣いが自然で、気さくで親しみが持てて。加えて若ければそれだけで生徒は寄ってくるだろうし。…… まあ、かっこいいし。
吹雪はスタートラインに立った。最後から二番目のランナーだが、前のランナーが体育の三宅なのでそれほど負担はないようにも思える。そんなことを考えているうちに走順が回ってくる。バトンが渡る。何度かバトンの受け渡しの練習はしたが、思った以上に体が重い。遅れをとらないようにするので精一杯で、差をつけることなどできなかった。
冬真は赤軍のアンカーと最下位を争いながらゴールした。本部に戻る際彼と一瞬目が合うが、雑務を理由に気づかないふりをして校舎の中に引っ込んだ。
校舎の外からにぎやかな声が聞こえてくる。
「ああ、白峰先生、こんなところに」
閉会式が終了して、また来年まで出番のなくなった得点板を解体していると、冬真が顔をのぞかせた。
「何人かの先生たちで軽く打ち上げに行きませんかと…… 数日後か来週になりますが」
「…… いや、俺は」
吹雪は一瞬視線をさまよわせてから、再び冬真を見た。
「今回は遠慮しておきます。…… 先日ご迷惑をおかけしたばかりなので」
冬真はそうですか、と口にして、それから少し黙った後、
「安心しました。他の人に見せるのは少し…… ためらわれるような姿だったので」
と言った。冬真は心底安堵したように言うと、それじゃ、と断ってその場を後にした。その後ろ姿をしばらく見送ってから、吹雪は壁にゆっくりともたれていった。
(本当に)
後頭部を窓ガラスにぶつけぎみにあてると、ごつりと鈍い音がした。
(本当に、誰でもいいみたいだ、こんなの)
「ついもらってきちゃったけど、私も君もこんなに飲まないよね」
佳澄は申し訳なさそうに言いながら「誰か飲んでくれる人いるかな……」とスマホを操作し始めた。リビングのテーブルの上にはいくつかの酒の缶や瓶が並んでいる。
「俺も知り合いに聞いてみようか。誰か飲む人がいるかも……」
吹雪の申し出に佳澄が少し驚いたような顔で見てきたので、吹雪は何、と言った。
「俺だって一緒に酒飲む友達くらいいるよ」
「あ、いや…… うん、そうだよね」
ごめんごめん、と佳澄は謝りながら台所に戻っていった。…… 気を遣ってくれているのかもしれない。北斗とのことは話していないが、なんとなく気づかれているような気はする。そんなことを思いつつ吹雪は自身もスマホを操作して連絡先から酒をもらってくれそうな相手を探す。
―― が、確かによく考えてみれば連絡先には必要最低限の相手の名があるのみで、そのほとんどが同僚の教師たちだ。画面をスクロールしてふと「外塚北斗 」の四文字に目が留まる。親の再婚で名字が変わって、今は…… なんだったか。高校の時に変わったはずだが、高校の間は姓を変えずにいたのでわからない。
続けて画面をスクロールして、千晶の名前も目に留まるが、彼は携帯を見ていないことの方が多く、連絡を取れるときの方がめずらしい。誰ももらってくれる人がいなかった場合にまた考えるとして、先ほど一応目には留まったが見ないふりをした名前まで画面を戻した。
(『高橋冬真』……)
「すみません。もらっていただいて」
放課後、生徒の下校時間もとっくに過ぎたころ、周りの目を忍ぶように渡しながら、吹雪は頭を下げた。冬真はいえ、と言いつつ受け取って、
「結構多いですね」
と口にした。
「家の者がもらったんですが、彼女も自分もあまり飲まないので困ってしまって……」
「―― 彼女?」
「あ、いや叔母です、叔母…… 今居候していて……」
吹雪の発した言葉に反応して冬真が首をひねって、吹雪は慌てて説明した。冬真はへえ、と関心があるのかないのかよくわからない相づちを打ちながら、たった今吹雪が手渡した紙袋の中身を今一度見た。
「俺も流石に一人じゃ多いかもしれないです」
「ああ、じゃあ――」
いくつかは誰か別の先生に、と吹雪が続けようとするより先に、冬真の口が開く。
「白峰先生も一緒にどうですか」
―― 意味がわからない。他者に見せるのがためらわれるほどの醜態だったと言ったその口でどうして酒の誘いなんてできたんだろう。
「…… お邪魔します」
そう思いつつ、誘いを受けてしまう自分も自分だ。そういえば素面の状態で冬真の部屋に入るのは初めてだ。玄関は一人暮らしには十分な広さで、下駄箱の上には消臭剤と、小さなトレーがある。冬真は車のキーをそこへ置きながら、吹雪を奥へ促した。
「適当に座ってください。今グラス持ってくるので……」
リビングは前にも見ているはずだが、じっくり見るのは初めてだ。前の時はどちらも酔っているか、自分の失態に気づいて慌てふためいているかのどちらかだったのでじっくり見ている余裕はなかった。己の社会人としての、いや、人としての未熟さを感じているとふと、吹雪はテレビ台の上に並ぶ品に目を留めた。瓶の中に可憐な花が一輪泳いでいる。
―― ハーバリウムとかいったか。前にテレビでやっているのを見たことがあるが、男性の一人暮らしには似つかわしくない品だ。冬真自身にこういう趣味がないとも言い切れないが…… ひょっとして、彼女のものだったりするんだろうか。だとすると、自分は彼女がいる男と……。
「先生、水ちゃんと飲んでくださいね。あとつまみも」
冬真が釘を刺しながら座って、道中にスーパーで買ってきたつまみの封を開ける。
「他人の家で飲むのは初めてです」
目の前で酒の入った瓶が開けられるのを見つめながら吹雪がこぼすと、冬真が「えっ」と驚いたような声を出した。
「すみません、初めてがこんな粗末で……」
「え? いやそんなつもりは……。というか突然酒を押しつけて部屋に押しかけてるのはこっちなので」
それぞれが謙遜して話が途切れたのを、酒を飲んで誤魔化す。
「…… 例の、好きな人とは、飲まれたりしなかったんですか」
冬真が尋ねて、吹雪は「しないですねえ」と答えた。
「その辺の店とか…… あと、俺の方が、基本的に寂しがりやなので、俺が彼を呼んでばかりで……」
吹雪の声が徐々にゆっくりとしたものに変わって、頬にも赤みが帯びてくる。そもそも顔に出やすいのかもしれない。
「まあ、俺友達も少ないし、人と飲むことがそもそもないんですけど……」
「じゃあ俺みたいな人間は白峰先生にとって割とレアなんですね」
冬真の言葉に吹雪は一瞬驚いたあと、赤らんだ顔で小さく笑い声をもらした。
「高橋先生、この間から俺のことまるで本当の友達みたいに扱いますね」
おかしい、とこぼす唇は血色が良く、紅を差したようだった。潤んだ瞳がまばたきをすると細い睫毛が濡れ、冬真はいっとき、目を奪われそうになる。
「…… 別に…… 一緒に飲むのはもう三度目ですし、個人的にはもう割と友……」
「すみません水いただいていいですか」
切羽詰まった様子で言われて、冬真は急いでグラスに水を注いだ。それから、水の入ったグラスに口をつける吹雪の後ろの窓を半分開けておく。初夏の比較的涼しい風が柔らかく吹き込んできて、二人の髪を揺らした。
火照った頬に冷たい風があたるのが気持ちいい。
水のおかげもあって、吹雪は少しだけ酔いが醒めてきたような気になる。再び酒の入ったグラスに手を伸ばすと、目の前では冬真が水を追加で注いでくれている。なんとなく、甘やかされているような気になる。そんなはずはないのに。
吹雪は自嘲気味に笑いながら、また酒に口をつけた。
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