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ex.白峰佳澄①
自分より二回りほど大きな手が、真下にある自身めがけて振り降ろされる。頭だろうが胸だろうが容赦なく。耐えかねてうずくまると今度は足で蹴られる。一通り兄の気が済むと、ようやく祖母が居間から出てきてまあ、帰ってたの、と白々しくも言うのだ。今の騒ぎが聞こえないはずもなかろうに。
物心がつく前に両親は亡くなった。兄共々父方の祖父母のもとに引き取られたが、とうに定年を迎えた二人では荒れた兄を止めることなどできようもなかった。
佳澄が中学に上がった頃、就職するのとほぼ同時に兄は結婚した。いわゆるでき婚で、高校時代に付き合っていた複数の彼女のうちのだれかであろうと思った。
それから祖父が認知症で施設に入って、祖母ともども介護に追われ、解放されたのは高校二年生の時だった。
(…… やばい)
佳澄は広い校内の廊下で途方に暮れていた。祖父の葬儀が一通り終わった頃に校外学習で訪れたのはある国立大学だった。わずかな自由時間で校内を好奇心のままにたった一人で歩き回ったのがいけなかった。佳澄はすっかり迷ってしまっていた。
(こんなとこ、通えるはずないのに)
こんなたかが数ページのパンフレットに浮かれて、迷子になって、馬鹿みたいだ。大学進学なんて祖母だっていい顔をしないだろうし、祖父にも生前耳にタコができるほど言われていた。
―― 勉強なんかしてなんの役に立つもんか、と。
実際佳澄もそう思う。地元で働くなら、大学へ行くより自分で簿記の勉強でもして資格を取る方がよっぽどいい。
「制服、かっこいいね」
ふいに話しかけてきた声に、佳澄は顔を上げた。明るめに染められた茶髪。ゆるく波打つ毛先から、ふわりと甘い匂いが漂ってくる。佳澄はいっとき、その人に見惚れた。
「どこ高? 三年生?」
「…… あ…… えっと…… 東、東高です……。二年で…… 校外学習で……」
「すごい。頭いいひとだ」
大学生というものはこんなにも大人なのかと、当時は思った。
彼女の名は、氷見冴子といった。
「じゃあ、佳澄ちゃんは高校出たらすぐ就職するんだ?」
集合場所まで案内してもらう道すがら、間を持たせるために会話した流れで進路のことについて話すと、冴子は小首を傾げた。佳澄は「はい、まあ」と答える。
「…… 祖母も、多分承諾してくれないと思います。亡くなった祖父も、昔かたぎの人間なので」
ふうん、と冴子は言って、校舎の外を指さした。
「着いたよ」
「あ―― ありがとうございました。それじゃ……」
「佳澄ちゃん」
礼を言って去ろうとした佳澄を、冴子が呼び止める。
「ね、ほんとに進学しないの?」
「それは……」
「さっきの佳澄ちゃんの話聞いてると、佳澄ちゃんのお祖母さんは佳澄ちゃんが説得さえすれば許可してくれるような気がするけどな」
「…… でも……」
言葉を詰まらせる佳澄に、冴子は言い重ねる。
「佳澄ちゃんの人生を生きるのはお祖父さんの亡霊じゃないでしょ? もういない人のこと考えるのなんかやめて、ね、おいでよ、うちの大学」
それでも佳澄が何も言えずに黙っていると、広場で教師が集合の声をかけた。佳澄が踵を返そうとすると、冴子がもう一度名前を呼んできた。
「もし入学したら、文芸サークルにおいで」
ね、と微笑んだ彼女の姿を、十五年経った今でも覚えている。
そこから進路を変えて、合格圏内に入るのは容易かった。もともと成績は良かったし、目標があれば勉強するのは苦じゃなかった。一番予想外だったのは、祖母の反応だった。彼女は冴子の言った通り―― いや、それ以上の、あるいはそれ以下の反応しか見せなかった。好きにしなさい、と、ただそれだけ。
「…………」
佳澄はなんとなく自信の脇腹をさすった。兄に蹴られてできたあざはとっくに消えていて、痛みもない。自分にまるで興味のなさそうな祖母の反応を見るや、廊下に出た佳澄は柱を背にしてずるずると床に座り込んだ。
おいで、なんて初めて言われた。綺麗なひとだった。いい匂いがした。
(…… バイトしよう)
長期休暇以外のアルバイトは禁止されているけど、バレないところを探せばいい。もしかしたら親の遺産が少しはあったのかもしれないが、頼りたくはなかった。
それからの一年半、佳澄はバイトと勉強に明け暮れる日々を送った。
―― 彼女に、氷見冴子に、また会える時を夢見て。
「冴子ー! 客ー!」
文芸サークルには、思った以上に人がいなかった。たまたま入り口にいた男性が奥に向かって呼びかけると、パンプスが地面を打つ音が聞こえてくる。ふいに漂ってくるあの香りに、佳澄の胸がうるさく騒ぎ出す。
「来ると思ってた」
彼女はそう言うと、少年のような顔でいたずらっぽく笑った。
本当に来るとは思ってなかったけどね、と冴子は窓際で文庫本を開きながら言った。
「…… え?」
「ん?」
「いや、さっき来ると思ってたって」
言葉の矛盾を指摘すると、冴子はああ、と口を開く。
「大学には入学して来るんだろうとは思ってたけど、本当に私のところに来てくれるとは思ってなかった、の意」
「ああ……」
なるほど、と佳澄が言う横で、さっきの学生らしき男性がくつくつと笑い声を漏らす。
「気をつけなよ。その人、基本的に言葉足らずだから」
「うるさいなあ」
氷見冴子は、思った以上に社交的で交友関係の広いひとだった。
校内で会えば必ず毎回違う人と話をしているし、教授とも物怖じせず会話しているのを何度か見た。
「佳澄ちゃーん!」
その代わり、向こうがこちらを一方的に発見した時も必ず声をかけてくる。
「ねえ、明日サークルのみんなで遊びに行くんだけど、佳澄ちゃんも行こうよ」
「あ…… すみません。私土日は基本バイトで……」
せっかく誘ってくれた彼女に対して申し訳なく思いながら佳澄はそう口にした。サークルも、冴子も他の先輩たちも来れるときに来てくれればと言っていたが週に一度、もしくは月に二度ほどしか顔を出せていないのもどうにも後ろめたい。
「サークルもあんまり来てくれてないよね。もしかして一年生ほかにいないから居心地悪い?」
「え、いや、そんなことは」
そんな発想はなかった。なにしろ、ほとんど冴子目当てでサークルに顔を出して、他の人間には文字通り見向きもしていなかったので。自分以外に一年生がいないのも今知ったくらいだ。冴子は佳澄の返答に「本当? よかった」と安心したように言った。
「私、佳澄ちゃんのことだいぶ気に入ってるから、もしもサークルやめちゃったら残念だなって思ってたの」
わかってる。―― わかってる。私だって馬鹿じゃない。
佳澄は自分に言い聞かせながら気持ちを落ち着かせようとした。
他の人にも似たようなことを言っていることくらい、馬鹿か、あるいはよっぽどの楽観主義者じゃなければすぐにわかる。
「ん……?」
「どうかした?」
部室にある本棚を見て、佳澄は首を傾げた。借りた本の続きを読みたいのだが、巻数が飛んでいる。佳澄の様子に気づいて声をかけてきた冴子に、佳澄はいや、と本棚を指さしながら言った。
「これの四巻が読みたいんですけど、四巻だけなくて」
「誰かが持ってったんだねー」
冴子は佳澄の持っている本を受け取って表紙を眺めながら言ってから、何かに気づいたように「あ、そういえば」と腰を上げた。
「この本、ネットで連載してるから多分読めるよ」
「え、本当ですか」
「本になった時に割と加筆してるし書きおろしの話もあるんだけど、こっちで読んでも大筋は変わってないから」
ほら、と彼女がスマホの画面を見せてきて、佳澄は思わず冴子に身を寄せた。本当だ、と呟きつつ、佳澄はスマホが冴子のものであるのを忘れて、画面に見入ってしまう。どうやら最新の、単行本に収録されていない話もここに掲載されているみたいだ。
「それ、漫画化もしてるんだよね」
「あ、へえ、そうなんですか」
「アニメ化もするって、前に水野くんが言ってたよ」
「そうなんだ…… あ、すみません、携帯……」
と、目の前の冴子の体が、自分の方へ傾いた。そう思った次の瞬間、佳澄の唇は奪われていた。彼女は何事もなかったかのようにスマホ片手に座り直すと、
「佳澄ちゃんは本は紙派? 電子派?」
と聞いてきた。
「…… 電子…… ですかね……。辞書とかも、家に置く場所なくて……」
「私は断然紙だなー」
どうにか佳澄が答えると、冴子は椅子の上で伸びをしながら言った。その姿はまるで、気ままな猫のように見える。
「短篇集のあの話だけ読みたいって時とか、あと調べものする時とかもそうなんだけどね、やっぱり指の感覚って大事で、だいたいこのあたりのページかなーって欲しい情報がある場所を指が結構覚えてるもんなんだよね。ページ数なんて絶対に覚えてなんかられないし…… まあ、代わりに何百冊もの本を一度に持ち歩くなんて芸当はできないんだけどね」
自分たちは、たった今、キスをしたんじゃないだろうか? 彼女の様子はとてもそんなことをした後とは思えないようなもので、佳澄は軽く混乱状態になる。が、目の前にいる彼女があまりにも美しくて、そんなことはどうでもよくなる。
目が合うと、彼女はにこりと笑った。
多分、自分は、これから何度でもこの人を好きになるんだろうと。
そういう、予感がした。
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