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ex.白峰佳澄②
「―― もう行くの?」
朝方、まだ薄暗い部屋の中で身支度を整える佳澄の後ろで、冴子が言った。
「バイトがあるんで」
「大変だねえ…… でも、佳澄ちゃんて学費一部免除受けてるし、奨学金も借りてるんでしょ? しかも実家暮らしだし…… そんなにバイト入れる必要ある?」
「車学行くお金貯めてるんです。あと通学費用。電車代けっこうかかるんで」
悪気なく提示された疑問に佳澄立ち上がりつつ説明すると「佳澄ちゃんち遠いもんねー」と冴子がまた呑気に言った。部屋の中心に置かれた―― というよりは投げ捨てられた自身の鞄を取り上げると、すぐ近くを下着姿の冴子が通り過ぎる。
「駅まで車で送るから、待ってて」
「え、いいですよ別に」
冴子の借りている部屋から駅まで歩いてほんの三十分弱だし、佳澄の実家から最寄り駅までの距離に比べれば充分近いので佳澄としては構わなかったが、下着を脱ぎながら風呂場へ向かう冴子に「だーめ」と徒歩での帰宅を禁じられる。仕方ないので座って待っていると、来客を知らせるチャイムが鳴った。
「冴子ー、俺ー」
知らない男性の声に戸惑っている佳澄にシャワーを浴びている冴子が「ごめん、開けてやってくれる?」と聞いてきたので恐る恐る部屋の鍵を開けてやる。開けるのを忘れたチェーンロックががちっとドアが開くのを阻む。
「あれ、冴子は?」
「約束今日だったっけー?」
首を傾げる男性に、冴子が奥から問いかける。
「今日って言ったよ」
「二十五日の火曜でしょ?」
「二十五日は月曜だよ」
えー? と言いながら下着姿同然の冴子が玄関の前を通っていくので、佳澄はそわそわしながら微妙に体の位置をずらしてみるが、男性の方が頭ふたつぶんくらい大きいので多分意味はない。と、そこで男性と目が合った。
「一年生?」
「え、あ、はい」
「冴子の後輩?」
「はい…… あ、サークルの」
「なにちゃん?」
「ナンパ禁止」
見知らぬ男性との会話に戸惑いつつ応じていると、身支度を終えた冴子が出てきて言った。
「佳澄ちゃん、取って食われるからこっちおいで」
「よく言うよ」
冴子は男性と軽口を叩きながら車のキーを持って玄関に出てきた。
次の瞬間、目の前で起きた出来事に佳澄は自分の目を疑った。
玄関に出てきた冴子は、そのまま流れるような仕草で同じように自然に身をかがめた男性とキスをした。思わぬ出来事に固まっている佳澄の目と、男性の目が合う。
「行こっ」
状況が理解できないでいるうちに、冴子に腕を取られて駐車場にある彼女の車に乗り込む。車が道路に出て走り出してから、佳澄は「あの……」と恐る恐る切り出す。
「さっきの人って……」
「涼くん?」
会うの初めてだっけ、と何一つ変わったことなどなかったかのように言ってくる冴子に、自分の感覚がおかしいような気分にさせられる。
「歯学部の人でねー、あっ歳は一個上なんだけど」
「…… どういう、関係なんですか」
佳澄が放った言葉は、自身で思った以上に重たい響きを持っていた。一瞬にして変わった車内の空気に、冴子が口を閉ざす。そして、ふうっと短い吐息をもらした。
呆れと、諦めと、いろんなものが入り混じったような息に、佳澄は唾を飲み込む。
「―― ああ、そっか。また言うの忘れてた」
ごめん、と謝罪する彼女の姿に、佳澄は背筋が震えた。
帰宅するなり、佳澄は自分の部屋のなかで膝からどさりとくずおれた。
冴子とああいう関係になったのはあのキスをしてすぐのことだった。校内で何度かキスをしたし、それこそさっきのような場面で彼女の車の中でしたこともあるし、今日のように部屋に泊まったことだって何度かある。
『恋人かな。有り体に言うとね』
駅に向かう車内で、冴子は確かにそう言った。
『一般的にはそうカテゴライズされる人が彼の他に二人いる。…… 二人とも男の子だけど、半年前は女の子が一人いた』
意味がわからなかった。普通の恋愛は自分にはできないとわかってはいたが、まさかこんな――。
『おかしいっていう人もいるけど、私には四人とも必要だったの。私にとっては普通のことだから、たまに忘れる。隠してたわけじゃないよ』
―― 兄には数人の恋人がいた。いや、体の関係があっただけで、恋人ではなかったのかもしれない。父も祖父も、外に愛人がいた。祖父の妾の子どもが父だったし、男はそういう生き物なのだというのが祖母の口癖だった。
「うっ……」
気持ちが悪い。昨夜、佳澄の唇に、皮膚に触れた彼女の唇は当然、彼らの肌を、唇を同じように撫でたことになる……。
翌日から数日間、大学を休んだ。とはいえ、家にも居づらいので家の近くをうろついたり、図書館で時間をつぶすなどして過ごした。ようやく講義に出たその日、佳澄は文芸サークルの部室へは向かわずに、学校近くの喫茶店へ冴子を呼びだした。
「…… そういうの無理なんです、本当に」
空が荒れていた。店の窓ガラスを雨が責め立てるように叩いていた。
冴子はしばらくの沈黙のあと、
「そっか。わかった、佳澄ちゃん」
ごめんね、と、そう口にしてテーブルに紙幣を置くと店を後にした。
その後、佳澄は同じ講義を受けていた男子と付き合ったがふた月と経たないうちに別れた。残されたのは、自分はもう男とも女とも恋愛などできないのだ、という深い絶望だけだった。
兄の訃報を耳にしたのは、それから数年後のことになる。
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