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7.切なき思いぞ知る①
千世は千晶の二つ下の妹だ。千晶に比べて大人しい性格で、いつもの四人で千晶の家に遊びに行くと顔を合わせる程度の関係だった。
中学の時、千世が廊下で教師に捕まっている現場に遭遇した。数メートル離れた場所から聞こえてくる話を聞くに、どうも髪色の件で呼び止められたようだった。
「先生」
気の毒に、と冬真が思っているうちに、昴が近づいていって声をかけた。
「その子、地毛ですよ。うちのクラスにいるこの子の兄貴もまったく同じ髪色してますから、連れて来ましょうか」
「三年一組の渡辺千晶です。確認してくれたらすぐにわかります」
急いで冬真もフォローすると、誤解が解けたのか教師は去っていった。千世は二人に礼を言うと、
「私も二人みたいに真っ黒だったら良かったなあ」
とため息を吐いた。彼女は入学してすぐの服装検査でも別の教師に目をつけられていた。千世の―― それから千晶の髪の色はやや色素が薄く、光が当たると明るい茶色に見える。
千世の自分の髪に対する文句に、昴が「そう?」と首を傾げた。
「きらきらしてて、俺は綺麗だと思うけど」
―― ほら、こういうところだ。
冬真は内心呆れながら、奥歯を噛みしめた。昴ときたら老若男女問わずこの調子で、特に内気なタイプの女子は度々この男にときめいてしまうのが常だった。
それは千世も例外ではなく、長い間想いを募らせていたのを冬真は知っていた。あいつのことだから、千世が想いを打ち明けたらなんだかんだ受け入れるんじゃないかと、そういう、甘いことを考えていた。
中三の進路を選ぶ頃になって、昴は最初の彼女と別れた。
「事実上の失恋、だと、思うんだよね」
彼女は静かに言った。四人が集まるのは大抵千晶の家か冬真の家で、約束より早めに千晶の家に行くと千世と顔を合わせることが多かった。
「告ってもないのに」
「告ってはないけど」
千世はコップに麦茶を注ぐと、リビングにいる冬真の目の前に置いた。
「たとえば、初めて会う全然知らない人に告白されて付き合うことはあっても、私の気持ちを受け入れてくれることは絶対にないと思う」
哀れだと思った。
想いが実らないとわかっていてなお、幼馴染を演じ続けるその姿が。
冬真が千世と幼馴染たちに隠れて付き合い始めたのは、それから数か月経ったあとのことになる。
(流され方があの時とまったく同じ……)
冬真はテーブルに伏してしまった吹雪の手中に収まったままのグラスを引き抜くと、他のグラスとまとめて流し台に持っていった。酒に弱いのは、自棄になってしまっているからか、それとも……。
「ん……」
テーブルに伏せたまま、吹雪が小さくうめいた。前回、前々回のように自力で立つだけの意識があるならまだしも、すっかり寝てしまっている今回ばかりはどうしようもない。無理に動かそうとして起こしてしまうのも気が引ける。冬真は吹雪の肩に薄いブランケットだけかけて自分はベッドで眠りにつくことにした。
「―― 先生、高橋先生」
声をかけられ、遠慮がちに肩に触れられて冬真は目を覚ました。
「お客さんいらっしゃってます」
「客……?」
整った顔面から告げられた言葉に首を傾げながら起き上がると、キッチンでは千世が勝手知ったるという様子でカップやら皿やらを取り出している。
「お客さん来てるなら言ってよ。…… でもよかった、多めに買ってきといて」
「あの、これってもしかして俺の……」
冬真に文句を言う千世に恐る恐る尋ねると、彼女は慌てて吹雪を振り向いた。
「あ! ごめんなさい、これからご予定とかありますよね」
「いや、そういうわけでは……」
「だったら、多めに買ってきたので、よかったら」
嘘でもあると言えばよかったのかもしれないが、吹雪は素直に答えてしまい、引っ込みがつかなくなる。
「じゃあ、その…… いただきます」
大人しくリビングに戻っていった吹雪を横目に冬真がキッチンに入ると、千世が買ってきたものを皿に出しながら言ってくる。
「冬真くんにこんなかっこいい友達がいるなんて知らなかった」
「…… 職場の同僚」
友達と言われたのが妙にむずがゆくて補足すると、千世は「じゃあ先生なんだ」と口にした。
「お友達の先生は、何先生ですか?」
「え?」
「お名前」
問いかけの意味がわからなくて首を傾げれば千世がそう言って、吹雪は口を開く。
「白峰です。白峰吹雪」
「吹雪先生はコーヒーと紅茶どっち飲みますか?」
「あ、じゃあコーヒーで……」
はーい、と千世が軽快に答えて戸棚からコップを出すのを横目に、吹雪は冬真の方に視線を向ける。
「妹さんですか?」
「あー…… いや、幼馴染です。普段彼女の兄貴と俺が仲良くて」
吹雪に尋ねられ、冬真はやや戸惑いがちに答えた。
「渡辺千世っていいまーす」
千世がテーブルに皿やコップを並べながら自己紹介をする。皿の上には三種類ほどのサンドイッチが並んでいる。多めに買ってきたとは言っていたが、冬真と千世、二人分を想定してきたとしても量が多い。
「千世、いつも作るにしても買うにしても量が多いんだよ」
「だって冬真くん、絶対またご飯何食か抜いてると思ったから」
「いや、食事抜いたからって次の食事で抜いた分もいっぱい食えるわけじゃないし」
冬真と千世が軽いやりとりを交わしながらサンドイッチに手を伸ばすのに倣って、吹雪も皿に手をつける。大分気安い仲のようで、冬真も一見文句を言っているように見えるが許容しているようにも見える。
「渡辺さんは……」
吹雪が千世に向かって口を開くと千世が首を傾げ、数秒置いてから「あっ、私か」と反応した。
「会社でも学校でも同じ苗字の人多くて、今まであんまり苗字で呼ばれることなかったから……」
照れたように言う彼女に吹雪が
「普段なんて呼ばれてるんですか?」
と尋ねれば、千世は思い出すように宙を仰いだ。
「…… 一番多いのは、千世ちゃんかなぁ?」
「じゃあ千世ちゃん」
躊躇とかないのか。
会ってまだ数分の女性を下の名前をちゃん付けした同僚に、冬真はコーヒーを危うく吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
吹雪先生、千世ちゃんとあっさり下の名前で呼び合うようになった二人は仲良く世間話など始めてしまったので、冬真は寝起きのぼんやりした頭に戻ってコーヒーをすすりながらサンドイッチをかじった。
「でもほら、冬真くん泳げないから、海もプールも行けないんですよ」
「…… 何の話してんの?」
無意味につけてあったテレビのチャンネルを回す傍ら聞き捨てならない言葉が聞こえてきて、冬真は手を止める。
「何年か前、皆で海行った時の話。冬真くん泳げないからずっと砂浜にいたよね」
「好きじゃないだけ。平泳ぎくらいならできる」
冬真の反論を聞いているのかいないのか、千世は「だからさ」と続ける。
「今年は温泉とかどうかって、この前の連休で一瞬帰ってきた時にお兄ちゃんが鷹弘さんと話してて。ほら、鷹弘さんのおじいちゃんが経営してる旅館あるじゃない?」
あそこ、と千世が言いながらサンドイッチにかぶりつく。
「千世も来んの?」
「んーん」
冬真が聞けば千世は咀嚼しつつ首を振った。
「休み合わなそうだし、夏は他の用事で忙しいから、今年もパス。お兄ちゃんにも言ってある。冬真くんにも今度電話するって言ってたけど」
千世は言って再びサンドイッチにかじりついた。会話がひと段落したらしいのを見計らってか、吹雪が
「いいですね、温泉」
と言ってくる。
「俺、多分小学生の時に家族で行ったのが最後…… あ、修学旅行で大浴場には入ったかな」
「俺もそんなもんだな……」
高校で行った修学旅行を思い出していると、千世が「ていうか」と口を開く。
「吹雪先生も一緒に行ったらいいんじゃないですか? 部屋数ならなんとかなると思うし」
唐突な提案に冬真がまたしてもむせそうになる横で、吹雪が「いやいや、そんな」と手を振る。
「せっかくのお友達同士の場に入るのは、さすがに……」
「え? 吹雪先生もお友達じゃないんですか?」
「と……」
友達……? と吹雪はまるで言葉の意味がわからないような、あるいは電波障害でも起きたかのような顔で首を傾げた。まさかと思うが、この人友達いないんだろうか。冬真は昨夜、吹雪が言ったことを思い出した。
『高橋先生、この間から俺のことまるで本当の友達みたいに扱いますね』――。
以前、行為の最中に零した名は多分、友達なんかじゃないだろう。冬真はその名を口にした吹雪の姿を思い出すと同時に、胸の中にごろりとした何かがあるのを感じていた。
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