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8.切なき思いぞ知る②

 昴は、北斗の部屋のキッチンに立っていた。戸棚には大きめの皿とどんぶりがひとつずつ、マグカップがかろうじてふたつあるきりだった。 「すみません、ろくな食器ないでしょう」  北斗が恥ずかしそうに言って、昴が「ああ、いや」と否定する。 「俺の一人暮らしの友達もこんなもんですよ」  と、ズボンのポケットに入れたスマホが鳴って、昴は北斗に断ってからスマホの画面に手を滑らせた。  ホーム画面ではメッセージアプリが新規メッセージの受信を知らせている。送信主は千晶だ。 (――『今年の夏は温泉などいかがでしょう』…… めずらしい)  温泉なんていつぶりだ? 子どもの時に子ども会で行ったのが最後かもしれない。高校の修学旅行で入ったのは…… あれは大衆浴場か。 「これ、どっちも同じ?」 「あ、うん、両方カフェラテで―― あっ」  ふたつあるカップの中身を問われ頷きかけた昴は何かに気づいたように声を上げる。 「北斗さんがコーヒー飲めないの忘れてた……」 「の、飲めますよ、ブラックじゃなければ……!」  砂糖も入れるしと言うも、昴はまだ心配そうにしている。どうも年下扱いされている気がして、北斗はめいっぱいむくれたような顔をしてみせる。 「敬語。戻ってます。呼び方も」  ふたりが付き合い始めてすぐ、敬語をやめてほしいと提案したのは北斗だった。自分がくん付けで昴を呼んでいるところで年上の昴に敬語に加えさん付けで呼ばれるのは居心地が悪いとのことで、北斗の方も敬語をやめるならという条件で承諾した。 「北斗くんも今敬語だったけど」 「えっ、嘘」 「戻ってます、て言った」  気づかなかった、と自身の口を押えた北斗に、昴は敬語とさん付けをやめながら苦笑いして言う。 「ペナルティでもつける?」 「…… 例えば?」  昴の何気ない提案に、北斗が首を傾げた。 「例えば……」  尋ねられて昴は思案しつつ隣の男を見た。同じようにこちらに視線を向けている彼と目が合う。視線が絡み合ったまま、どちらからともなくふたりの顔が近づく。  ―― そして、鼻先が触れようかという瞬間に、昴のスマホが再び鳴り響いた。反射で画面を見ると、スマホは振動を続けながら幼馴染からの着信を知らせている。 「何」 『お前ってあんまもしもしって言わないよな』 「もしもし、切っていい?」 『え、仕事中?』 「取り込み中」  昴が電話相手に言った言葉に北斗は赤面しつつカフェラテをテーブルの上に運んだ。 『送ったやつ見た? 鷹弘のじいちゃん家の温泉なんだけど、俺と、誰かもう一人の車で行こうって話してて』 「なんで二台?」  四人なら一台で足りるはずと思い尋ねると千晶は言った。 『お前の彼氏連れて来いよ』 「…………」  こういう時の千晶の声は、いつもどこか脅迫じみている。昴は膝をついてしまいそうになりながら声を絞り出す。 「い…… 嫌なんだけど」 『お前の彼氏連れて来いよ』 「ていうかなんで知ってんの?」 『お前の彼氏連れて来いよ』 「…………」  連れていくと言わない限り永遠に同じ言葉を繰り返しそうだ。昴は通話を切った。 「お友達?」 「いや、迷惑電話」  答えながら昴は北斗の待つテーブルに着いた。テーブルの上には、昴が買ってきたサンドイッチの入った袋がある。 「ほら、さっき言った、このサンドイッチ売ってる店教えてくれた女の子の兄貴と俺仲良いんだけど、そいつ含めて四人で毎年夏とか連休に休み合わせて遊んでて」  袋を開けながら、昴は続ける。 「今年も泊まりでどっか行こうって話はずっとしてるんだけど、千晶…… その友達が北斗くん連れて来いって」 「え、僕も行っていいんですか?」  ほとんどが知らない人間のいる場にしかも泊まりで参加するのは肩身が狭かろうと思った昴とは反対に、北斗はそんな声を上げた。 「泊まりですよ?」  思わず敬語で聞き返すと、北斗は 「昴くんの友達に会ってみたいし」 と口にする。 「いや、そんな会う価値のあるような奴らじゃないし……」  昴は友人らのことを思い出しているのか一人でぶつぶつと口の中で呟く。 (友達か)  北斗はふと、吹雪のことを思い出した。先の冬に、またねと別れてから連絡を取っていない。何度かメッセージを送ろうと試みたのだが、何を言うのも何となくしっくりこなくて結局この半年ほど何も送っていないし向こうからも何もない。  何をしているんだろう。どうかせめて、寂しい思いをしていないといいな、と思いながら、北斗はカフェラテに口をつけた。 「あー、温泉でしょ? 聞いた聞いた」  冬真はスマホを片手にキッチンに入ると、作業台の隅に通話状態のまま置いた。 「昴の彼氏呼ぶって聞いたけど」 『千晶、その話したら電話切られたって』  スピーカーから聞こえる鷹弘の言葉に冬真は、だろうなあ、と苦笑いで答える。 『でさ、二人部屋を三つ取れるらしいからもうひとり呼べるんだけど、冬真、誰か呼びたい人いる?』  鷹弘の問いかけに、冬真はすぐさま「いや別に」と答えた。 「いいんじゃん? いつも通り四人で」 『千世ちゃんに聞いたんだけど冬真、最近学校で仲良い先生がいるんだって?』  がらん、と流し台の上部にある収納に入れていた鍋が音を立てて落下した。予想外に大きく響いた音は向こうにも聞こえたらしく、鷹弘が「大丈夫?」と尋ねてくる。 「大丈夫大丈夫…… で、なんだっけ」 『いやだからさ、その先生も呼んだらどうかって千晶が言ってて』 「…… あー、いや、夏は向こうも実家に帰るなりして多分忙しいだろうし、そもそも自分以外の面子が全員顔馴染みってのも居心地悪いだろ」  鍋を拾い上げつつ否定的な意見を並べると、鷹弘はそう、と短く言った。 『まあでも、せっかくだしさ、大勢の方が楽しいじゃん。誘うだけ誘ってみてよ』  冬真の眉間に皺が寄る。 「…… なんかたくらんでるだろ」 『…… 誰が?』 「千晶だよ。前はこんなことしなかったのに、なんでいまさら……」  今までずっと、どこへ行くにも何をするにも四人だけで、いたとしても千世くらいのものだったのに、どうして今更他の人間を入れようとするのか、冬真には理解できない。冬真の恨み言のような疑問に、鷹弘はさあね、と口にした。 『知りたいなら、千晶に聞いてみたら。文句もそっちにどうぞ。どっちにしろ俺は千晶に従うだけだから』 「………… マゾ」  今度こそ本当に恨み言のつもりで言うと、スピーカーからくすりと笑い声が漏れてくる。 『俺はいつでも俺にとって都合がいいひとの味方だよ』  じゃあね、という声とともに一方的に通話が切れた。  ―― あいつ。  冬真は込み上げるむしゃくしゃした思いを断ち切るように料理を始めることにした。拾い上げた鍋に水を入れると、そのままコンロに上げる。別に外食でも構わないのだが、いちいち車を出すのが面倒なのと、純粋に料理が好きなのもある。料理をしていると、嫌なことを考えずに済む。  昴が好きだったのはもうとっくに過去の話だし、彼にも、同じ幼馴染の千晶や鷹弘に思うのと同じように幸せになってほしいと思っている。…… 思っていた。あの男の存在を知るまでは。冬真だけじゃなく、千晶と鷹弘にもあの男の存在とやらは多かれ少なかれ何かしらの影響を与えたことだろう。  キッチンの隅でスマホが鳴る。見ると、千世からのメッセージだった。一人では入りにくい店があるから今度一緒に行ってほしいとの誘いだったので、いいよ、と返信しておく。  千世に対して、罪悪感とか、そういうものがないわけじゃない。大事な幼馴染の妹だし、人並みに幸せになってほしいと思うし、そういう相手がいずれ現れてくれればとも思う。 (少なくともああいう時、そばにいるべきなのは自分じゃなかったことくらいは)  千世がまだ高校生になったばかりの頃、当時冬真は千世と付き合っては別れてという、彼女の兄に知られたらどうなるかというような、有り体に言えば不誠実な付き合いをしていた。お互いそんなことは重々承知で、だからこそ彼女は、両親と兄の不在に冬真を招いたのだろうとは思うが。 「…… まあ、わかってるんだけどさ」  なんだかちょっと間男みたいだ。 「なんか言った?」 「いや、別に」 「あのね、今日の夜ホラー映画があって、ひとりで観るの怖いから……」  千世の口調は妙に早口だ。明らかに口実であるのだと分かる。…… 別に、そんなことをしなくても呼ばれれば行くのに。行くしかないのに。  うつむいた彼女の頭をくしゃくしゃにかきまぜると、下から悲鳴に近いような抗議の声が上がる。 「先に風呂済ませてくれば?」 「えっ」 「映画観たら絶対後から怖くなるから……」  あとトイレもと付け加えると、彼女は気まずそうに目を逸らした。 「あ、あー、そういう…… ごめん私、自意識過剰……」  照れる様子などみじんもなく、そこには恋人同士にあるべき空気は感じられない。じゃあ済ませてこようかな、と腰を浮かせかけた彼女が、ふと動きを止めて冬真を見る。 「…… 一緒に、入る……?」 「…………」  恐る恐る聞いてきた千世に顔を近づけると、その肩がびくりとすくむ。 「―― いた」  額にごつんと自身の額をぶつけてやれば短い悲鳴とともに彼女は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で冬真を見上げてくる。 「この程度でそんな顔するような子には何もしません。嫌がってるならともかく」 「―― っい、嫌がった方がいいの?」 「いやだからそういう話じゃなくて……」  何かそういう性癖があると勘違いしているような千世の台詞を遮るように言うが、彼女は切羽詰まった様子で続ける。 「わ、私、がんばるし、勉強もするし――」 「馬鹿」  今度は頬の肉をつまんでやると、予想以上によく伸びた。 「そんな変なこと教え込んだら、俺が千晶に殺される」  いいからさっさと風呂、と再度促すも、千世はまだ納得していない様子でいる。 「…… だって冬真くん、寂しいと他の人のところに行くでしょ」 「や、そんな簡単に――」 「来てるじゃん今まさに」 「…… 思い上がりも甚だしい。ほら、早くしないと映画始まるよ」  三度促すとようやく彼女は入浴の準備をしに二階へ上がっていった。 (他の人のところね……)  彼女の心配もわからなくもないけど、そんなことを考えるってことは自分がそうなる心当たりがあるってことで。もし仮に、本当に彼女にそういう相手が現れたのならそれはいいことだと思うけれど。でももし、そうなったら自分はまずずるい、と思うだろう。自分が、この苦しみから永遠に解放されないのをわかっているだけに。 「…………」  冬真は完成した料理をタッパーに入れると、もう一度スマホを手に取った。それから、連絡先にある男の名前をタップする。 「―― あ、もしもし。…… お休みのところすみません」

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