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11.If Winter comes, can Spring be far behind?③※

 鷹弘はラウンジで見かけた人影にふと気づいて足を止めた。 「昴、何してんの」 「べつに……」  昴の見つめる先には夜景と呼ぶには暗すぎる景色があって、彼のそんな姿に既視感を覚えて鷹弘はくすりと笑みを漏らした。前にもこんなことがあった。 「今、暇? 暇ならちょっと飲まない?」 「千晶は?」 「もう寝た。ほら、さっきすごい飲んでたから。冬真もさっき誘ったけど、部屋で一人で飲みたいって」  他二人がいないことを知ると昴は、「じゃあいく……」と腰を上げた。  旅館の施設内にあるバーはこぢんまりとしていて、席数も全部で十席程度だ。 「そりゃ、すごい偶然だね」  鷹弘はグラスから泡が零れそうになっているビールを半分ほどまで飲んだところで、グラスを置いた。 「そこまで都合のいい相手にはなれないって感じ?」  夕食の時もそれなりに飲んでいたはずだが、鷹弘から酔っているような雰囲気は感じない。昴は「いや」と答えながら自分もグラスをテーブルに置いた。 「全然…… さっきも言ったけど俺あの人たちの間に何があったかも知らないしできることなんかないから、そういうふうにでも役に立てるんならいいんだけど」  昴はそこまで言って、ふうっとひとつ息を吐いた。 「でも、それも別に要らないんだろうな……」  彼には彼の、自分には自分の。お互いに踏み込まないと決めた領域がそれぞれあって、それは別に、相手を必要としていないわけではないのだが。  せっかくだから他の種類の酒も飲もうかとメニューを眺める昴の横顔を、鷹弘は何とも言えない顔で見つめた。 「また冬真が心配するんじゃない、そういうこと言ってると」  鷹弘の言葉に、昴は本気でわからないと言った様子で首を傾げる。 「なんで冬真? 千晶ならごちゃごちゃ言ってきそうだけど…… 何だよその顔」 「いや…… 昴は鈍くてかわいいなと思って」 「絶対思ってないだろ」  鷹弘は笑いながら残りのビールを飲み干した。何年も付き合ってきた彼女と別れたばかりとは思えない。昴が元カノと別れた時は、いずれも多かれ少なかれ落ち込んだものだが。…… まあ、鷹弘と彼女のことだ。昴はそう思って、グラスの中身を呷った。  目が覚めると、ベッドの上だった。夕食の際に地酒を少し飲んで、それからの記憶がない。吹雪はゆっくりと半身を起こした。部屋の窓際にあるテーブルの椅子に冬真が座っているのが見える。テーブルに飲みかけの酒があるが、飲んでいたらしい当人は椅子に座ったまま寝ている。吹雪は静かに部屋を出た。  ぶらぶらと廊下を歩いていると反対側から誰かが歩いてくるのが見える。北斗だ。気づいた瞬間、吹雪は身を翻そうとした。 「待って」  が、腕をがしりとつかまれて足を止めるしかなくなる。 「少し、話をしよう」  誘われて断ることもできず北斗についていく。彼が向かった先はラウンジだった。上の階にはバーもあったはずだが、お互い飲めないことを考えての場所の選択だろう。それぞれ自販機で飲み物を買って窓に面した椅子に少し間を開けて腰かけた。他に人がいないので、離れていても声は通る。 「…… 心配した」  座ってしばらくしてから、北斗はぽつりと呟いた。 「君、あれ以来連絡も寄越さないし街中でも顔見ないから」 「あー…… いや、叔母さんのとこに戻ったんだ。ついこの前まで、新学期やら学校行事やらで忙しかったし」 「…… 叔母さんのとこって、居づらいんじゃないの」  北斗の問いかけに吹雪は目を逸らしつつペットボトルの口を開けた。 「…… そんな話したっけ」 「見てればわかるよ。…… 学校でも結構色んな話を聞いたし…… 君は何も話してくれなかったけど。でも……」  そう言って口ごもる北斗に、吹雪はふっと笑みをこぼした。 「父親はいわゆる妾の子どもで、母親と二人でほとんど駆け落ちみたいにして結婚してるせいで親族から避けられてる」  隣から息を飲むような気配がした。 「そんな話、楽しくないよ」  窓の向こうで小さく灯っていた明かりが、点滅した後に消えた。  部屋の明かりはまだ点いていた。昴はベッドに座って本を読んでいて、北斗が部屋に戻ったのを知ると顔を上げて座る位置を少しずらすと、「はい」と言って布団を捲った。 「…… もしかして待っててくれてた?」 「いや、普通にまだ眠くなくて」  ためらいがちにベッドに入ると昴はそう言って、本にしおりをした。そして隣のベッドに視線をやる。 「ていうか今思ったけど、向こうのベッド使ってないのちょっともったいない気がするな…… 旅館が高級すぎるせいで……」 「じゃあ、一緒にあっち使う―― あ、いや」  他意はなく言ったはずだったが、別の意味に取られる可能性に気づいた北斗が慌てて弁明する。 「ごめん、変な意味じゃなくて」 「いや俺が変なこと言ったから」  大丈夫、と寝る体勢に入ろうとする昴に、北斗は続ける。 「…… 本当に、そういうことをするのが嫌なわけじゃなくて。今したら、多分、昴くんの気持ちに甘えることになると思うから」 「うん」  好きなように甘えてくれていいのに。  昴はそう思いつつも言わなかった。ベッドが無駄に広いせいで少し離れた場所に横になった北斗は、掛け布団を鼻の上まで引き上げた。 「それ癖?」 「え?」 「匂い嗅ぐの」  何気なく聞いたつもりだったが、北斗は顔の布団から出ている部分をぱあっと赤く染めた。 「く、癖っていうか、その」  まさか気づかれているとはとでも言いたげな顔で北斗は布団を自分の鼻先に引き寄せる。 「…… 昴くんっていい匂いするよね」 「俺、香水も何もつけてないよ」  不思議そうな顔の昴に、北斗は「なんか、落ち着く感じの匂いがする」と答えた。 「柔軟剤の匂いとか……? そんなに匂いがするやつじゃなかったと思うけど、でも他に匂いのするものって俺持ってないし」  煙草は少し前に止めたし、というか北斗は煙草の匂いが苦手だしと昴は思考を巡らせる。 「あとはー…… しいていうならコーヒーとか……」 「コーヒーっぽくはないかな…… 柔軟剤かも。自分ちじゃ適当なの使ってるけど、もしかしたら実家で使ってるのと同じなのかも。ごめん、なんか寝る前に悩ませちゃって――」 「今は?」  するりと昴の指が鼻先へ伸びてきて、同時に問いかけられた。 「今はする? しないか、風呂も入ったし」 「…… ちょっとは、する」  昴の低く落とした声のトーンに北斗は妙にどぎまぎして、うつむきながら答える。 「じゃあ寝られそう?」 「…… ん、うん」 「よかった、役に立てそうで」  昴がほんのわずかに自分の方へ身を寄せる。北斗も、ためらいがちに彼の方にわずかに、ほんのわずかに身を寄せた。 「あ、おかえりなさい」  吹雪が部屋に戻ると冬真は起きていて、ちょうど冷蔵庫からペットボトルの水を出しているところだった。 「…… まだ飲んでるんですか?」  尋ねると、冬真は「まあ」と濁すように言った。 「なんか眠れなくて。先生、寝られるんだったら電気消してもらって大丈夫ですから」  そう言って冬真はペットボトル片手に窓辺の椅子に戻っていってしまう。 「…… 俺も一緒に飲もうかな」 「いや、先生もう結構飲んだでしょ」  相手の顔を窺いながら言えば、冬真は振り返らないまま答えた。表情が見えない彼の背中に「俺も眠れないので」と告げると息を詰めるような気配がする。 「前みたいなことになったら、困りますか?」 「…………」  冬真は黙っている。吹雪は彼の座っていた椅子のテーブルを挟んで向かい側の椅子に腰を下ろした。 「普段から、ああいうことを?」  逃げられないと思ったのか、冬真はため息を吐きながら吹雪の方へやってくると反対側の椅子へ腰かけた。 「そんなわけないでしょう…… というか、自分から他人の首に腕を回してくるような人に言われたくありません」  首に腕を回したのか。  まったく覚えていないというのが顔に出ないように口元に手をやったが、幸い冬真はグラスに新しい酒を注いでいる最中だった。 「俺も一杯頂いていいですか?」  素面でこんな話をしているのが耐え切れず、瓶に手を伸ばすとそれを遮るように冬真が再び瓶に手を置いた。 「先生こそ、いつもああいうことをされてるんですか」 「………… まあ」  近頃はご無沙汰だが、一時期においては事実なので肯定すると、彼はなぜか不快そうに眉間に皺を寄せた。 「やめてください。危険な相手だったらどうするんですか」 「…… 気をつけてはいますが」 「もう二度としないでください」  妙に熱心だ。疑問に思うと同時に、怒りに近い感情も湧く。確かに迷惑はかけたが、どうして無関係な彼にここまで言われなければならないのかと、少し苛立ちながら吹雪は言った。 「じゃあ、先生が相手してくれるんですか」 (―― あれ?)  ふわふわと浮いては沈む意識の中、吹雪はいつのまにかベッドに横たわっていた。全身が熱を持っているのは確かだが、一点、比べ物にならないほどの熱を伝えてくる箇所がある。 「あ……」  はだけた浴衣の下、大きく開いた己の股の奥に、しっかりと収まっているのが見える。知らずと漏れた吐息に、冬真が視線を上げる。 「先生、ここ、好きでしょ」 「ん、あ、あっ……」  まるで吹雪の体のことは知り尽くしているというふうに動かれて、吹雪は背中を跳ねさせた。一瞬隣の部屋のことが脳裏をよぎって、歯を食いしばるがその間にも冬真は動くのを止めない。部屋にはベッドが軋む音と冬真の吐息交じりの声が響いている。 (…… どうしよう)  吹雪は必死に声を堪えながら、思考を巡らせた。 (この人の声、好きかもしれない)  今思うことではない気はするが、意識したら最後、体が今以上に熱を持っていく。同じようにはだけた相手の袂を引き寄せると、彼はすぐさま覆い被さってきた。どちらからともなく舌を絡め合い、溺れるようなキスをした。 「―― っは、あ……」  体を近づけたせいか、さっきより相手の匂いを強烈に感じるような気がする。ぞくりと体の内側から沸騰するような気配に、自分のことながら呆れる。 (馬鹿じゃないか、叶うわけもないのに)  頭の中で考えて、吹雪は違和感に眉をひそめる。  ―― 叶うってなんだ。  叶うとか叶わないとか、そんなのまるで。 (―― 恋を、してるみたいだ)  背筋を登り詰める感覚に、吹雪はその身を震わせた。どうしてか、ついさっきの北斗との会話が脳裏によみがえる。 『…… そんな話でも、僕は君としたかった』  すっかり闇に閉ざされた街並みを見ながら、彼は言った。 『僕だけじゃなくて、みんな。もっと君と話したいと思ってたよ』

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