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ex.佐倉つぐみ②

 あの後つぐみとはしばらく付き合ったが、社会人になってから一年と経たないうちに別れた。お互い仕事を始めて精神的にも余裕がなくなったのが、理由としては大きい。 『私の気持ちは、斎藤にはわかんないよ』  喧嘩でもなんでもない、ふとしたやりとりの最中だった。  昴が初めて務めた会社を辞めたのはその後だ。どんなにがんばっても手を尽くしてもどうにもならないことがあるのだとその時知った。  誰にも必要とされていない気がして苦しかった。  冬真に誘われて本屋のバイトを始めた時も気を遣われているみたいで辛かったが、家の中で両親と二十四時間同じ空気を吸い続けるよりはましだった。 『多分かっこいいと思うんだよな』 『何が? 早くそっち持って』  呼ばれて行ってみれば冬真は大きな段ボールを動かそうとしていたので、昴も反対側に立って加勢する。 『今の人さぁ、あっ今本の注文してったんだけど、眼鏡かけて下向いてたからよくわかんないけど、多分眼鏡取ったらすごいかっこいいんじゃないかと思うんだよな』 『告白すれば?』 『いや展開早すぎるだろ…… ていうか告白しないし』  段ボールを地面に下ろすと、どすんと重たい音がする。 『なんでおまえら寄ってたかって俺のことそっちの人扱いすんの』 『どんな昴でも変わらず友達だよって話じゃん』 『うまくまとめようとするなよ』  付き合ったことを後悔しているわけじゃない。  子どもの頃から知っている大事な女の子には違いないし、元気でいてくれたなら、それは嬉しい。 「…………」  昴はスマホのバイブレーションする音で目を覚ました。ひどく気分が重たいが、悪い夢でも見ていたのだろうか。記憶にはないがと思いつつ今しがた鳴ったスマホを手に取ると、北斗からメッセージが届いている。それを見て昴はようやく思い出した。今日の北斗の仕事が終わった後に、北斗の部屋へ行く約束をしていたのだった。時計を見るともう出なければいけない時間だ。昴は急いで立ち上がった。 (―― あ)  貸し出しカウンターに現れた人物を見て、北斗は思わず声を上げそうになった。  つい先日、昴と話していた、“さくら”と呼ばれていた女性が目の前に立っていた。北斗は平常心を保ちながら彼女の貸し出しカードを手に取り、そこにあった名前に一瞬動きを止めた。  佐倉つぐみ。  貸し出しカードにはそうあった。 「…… 返却日は二週間後の五月二十二日になります」  いつもと変わらない笑みを浮かべて本を手渡して、北斗は去っていく彼女の背中を見送った。 (―― どうしよう)  めちゃくちゃ安心している。別に彼が呼んでいたのが名字だったからといって、自分に何か有利に働くわけでもないのに。昴には自分と違って年相応の経験があってもおかしくないし、そこに対して自分があれこれ考えたところでどうなるわけでもないのに。  仕事が終わってから昴との約束があったのでこれから退勤する旨を連絡して、北斗は図書館を出ようとした。裏口を出て少し歩いたところで、狭い歩道の反対側から歩いてきた女性とぶつかってしまう。その拍子に手にしていたスマホが地面に落ちた。 「すみません」 「いえ」  どうぞ、とスマホを手渡してくる女性を見て、北斗は動揺が表に出るのを堪えつつ礼を言ってスマホを受け取った。  かなり感じのいい人だ。絶対に勝てない、とか思ってしまった自分が嫌だ。  北斗は部屋に戻ってから、荷物を部屋に投げるとリビングの片付けに取りかかった。つい先週も昴を部屋に呼ぶために片付けたはずなのに、どうしてこんなに散らかっているのかまったくわからない。  昴はいまだに北斗をさん付けで呼ぶ。言葉遣いも敬語のまま。…… これはお互いさまだが。 (…… お願いしたら呼び捨てにしてくれるのかな。でも、困らせたくないしな)  それに面倒な奴だと思われたくない。  掃除機をかけ終えたところで部屋のチャイムが鳴る。北斗は小走りで玄関に出た。 「いらっしゃい。ごめんなさい、散らかってますけど」 「お邪魔します。そんな、気にしないでください」  リビングに案内しようと踵を返した瞬間、後ろから腕を取られる。 「…… あっ」  驚いて振り返ると、北斗以上に昴の方が自分の言動に驚いたような顔をしていた。 「えーと、あの、練り切り。うちでもらったのが余ってたので、よかったら」 「わ、ありがとうございます。―― でもうち今緑茶とかない……」 「だと思って、緑茶も持ってきました。ティーパックのやつ」  昴はけっこう尽くしたがりなところがあるし、面倒見もいい。前の彼女にもこんなふうに優しかったのかもと思うと、正直嫌だ。昔一度だけ付き合った彼女や、友人の話で聞く女性の面倒な言動を、まさか自分が起こす側になるとは思ってもみなかった。  何気なくつけたテレビでは、動物のドキュメンタリー番組をやっていた。 「このテレビって、けっこういいやつですよね?」  ふと昴は疑問に思って尋ねた。テレビだけではなくて、ソファやその他の家電が明らかに安物ではないし、洗濯機に至ってはドラム式だ。 「父が一人暮らしするって時にお祝いで買ってくれて。一緒に買いに行ったんです」  北斗は緑茶を飲みながらそう答えた。昴が「仲良いんですね」と言うと、彼は曖昧に微笑んだ。 「…… 父と言っても、母の再婚相手なんです、実は。ずっと片親家庭だったんですけど、僕が高校の時に再婚して……」  この話になると、どうしても吹雪のことも思い出してしまう。 「優しくて、いい人だけど。母の連れ子の僕とも仲良くなろうとしてくれるけど。…… 僕はそれが、少し辛くて。…… すごく幸せで、いいことのはずなのに」  言い終えてからはっとして「すみません」と口にしようとする北斗の目の前に置かれた皿に練り切りがひとつ追加される。 「北斗さんて、甘いもの食べるとすごい幸せそうな顔しますよね」 「えっ……」  指摘されて北斗は頬が熱くなる。確かに甘いものは好きだが、顔に出るほどではないと思っていたので恥ずかしい。 「その顔が好き」 「…………」  天然だったら恐ろしい。北斗はそう思いつつ、再び緑茶を啜った。  偶然見えた男の姿に、つぐみはあ、と声をこぼした。 「斎藤」  昴はちょうど借りていた本を抱えて車から降りるところだった。呼びかけてからつぐみは彼のそばまで小走りで駆け寄った。 「ごめん、大した用じゃないんだけど」  つぐみはそう言いながら、肩に掛けたバッグを直した。 「…… 私この前、ここの司書の望月さんて人とぶつかって、その時彼の携帯の画面見ちゃって…… ごめんね、全然そんなつもりじゃなかったんだけど」  隣にある小学校のグラウンドから掛け声やらなんやらが飛び交っているのが聞こえる。つぐみは頬に落ちた髪を耳にかけながら続けた。 「もし、もしもね、斎藤が“そう”なんだったら私、前にひどいことしたんじゃないかって……」 「………… 別に」 「あっ、ごめん、そうだよね。私、変な勘違い……」  昴の呟きにすぐさま反応したつぐみに、昴は「いや、そうじゃなくて」と遮る。 「俺は確かにあの人のことが好きで付き合ってるけど、別に佐倉の言動で傷ついたりはしてないよ」 「…… そう」  頷く彼女に頷き返しながら、昴は何気なく顔を上げた先で恋人の姿をとらえた。ガラス張りの窓からこちらを見ている、ような気がする。 「それじゃ、俺行くな」 「あ、うん、ごめんね、呼び止めて」  また、と去っていく昴の後ろ姿をつぐみはぼんやりと見つめた。 (…… 失恋)  カンとバットが強くボールに当たる音がして、つぐみは思わずそちらを振り仰ぐ。白球が青く澄んだ空を駆けていく。 『私の気持ちは、斎藤にはわかんないよ』  傷つけるつもりはなかった。本気でそう思っているわけでもなかった。  だとしても、自分にはもう彼に恋をする資格はないように思えた。  もう、―― もう、二度と。 (…… 失恋だ)  つぐみはゆっくりとした仕草でグラウンドに背を向けて、その場を後にした。

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