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12.汚れつちまつた悲しみに①

 やってしまった。  あれだけ気を付けていたのに、二度あることは三度ある、を体現してしまった。前回は何もなかったからと油断した。一番良くないのは、あれがけっこう、いやかなりよかったことだ。冬真は教務室に戻ってくるなりぐったりと頭を垂れた。 「あ、高橋先生、さっき女バスの生徒が探してましたよ」  椅子に座ろうとする前に、一人の教員が言ってくる。 「誰かが怪我をしたとかで、手が空いている人がいなかったのでついさっき白峰先生が向かいました」 「…………」  正直顔を合わせづらい。温泉から帰ってきてから、学校でまともに顔を合わせていない。  生徒は多分、保健室か部室だろう。大怪我じゃないといいがと思いながら冬真は保健室から順に見ていくことにする。保健室に到着すると、ドアに保険医不在の札がかかっていた。中から声がしたので一応ドアをノックして開けてみると、ばたばたと慌ただしげな音がして間もなく男子生徒がカーテンの奥から出てきた。 「―― さ、さよなら!」  直後、もうひとり男子生徒が同じカーテンの向こうから飛び出してきて、「さようならっ」と挨拶して保健室の外へ駆けていった。 「あ、廊下は……」  走るなよ、と注意する間もなく彼らは去っていってしまう。自分が副担任を務めている、二年一組の生徒だ。国語の授業も受け持っているので名前もわかる。真島と広瀬だ。あいつらって仲いいんだっけと考えているとふと、床に落ちているものに気がついた。 「…………」  拾い上げて確認する前にそれがなんなのかわかって、冬真は少し離れた場所から見つめた。  間違いない、コンドームだ。  確信すると同時に、冬真は開け放たれたカーテンの奥に目をやった。シーツが乱れている。少し座っただけのようにも見えるし、それ以上に乱れているようにも見える……。それから、この学校の保険医のことを頭に思い浮かべる。規律と貞節に厳しい女性だ。彼女がこれを発見したらどう思うか、想像に難くない。  冬真は少し迷ってから、床に落ちていたそれを拾い上げた。なんとなくティッシュに挟んで、うっかり落とさないようスーツの内ポケットに入れる。  なぜ部活の生徒を探していたはずがこんなことに遭遇せねばならないのだろうか、と心の中で悪態を吐きながら女子バスケ部の部室に行くと、結局生徒の怪我は軽い擦り傷で、すでに手当て済みだった。時間も時間だったので片付けと戸締りをきちんとして帰るように指示を出して自分は教務室に戻った。 「高橋先生」  再び息を吐きながら自分の席に着くと、後ろから声をかけられた。声の主はいつもと変わらない冷ややかな表情で冬真を見下ろしている。 「女子バスケ部の生徒ですが……」 「ああ、はい。聞きました」  対応していただきありがとうございますと礼を言うと、吹雪は少し言いにくそうに口を開いた。 「あの怪我、部内での軽いいさかいが原因だったみたいで…… 余計かとも思ったんですが、一応お耳に入れておこうと思って」 「…… そうですか」  冬真はもう一度吹雪に礼を言って、仕事に戻った。  女子バスケ部は、二年と一年が対立している。対立というと大げさだが、一年が規律に厳しい二年に反発しているようだった。三年がうまくまとめられればいいのだが、二年が厳しくするのは三年のいないところなのでどうしようもない。今は三年が主導だからなんとかなっているものの、この先の大会を終えて一年が部を辞めてしまわないか心配だ。  冬真は今日何度目かのため息を吐いた。  なぜ自分の気持ちもままならないのに他人の人間関係に悩まされなければいけないのか……。  先ほどの保健室で会った男子生徒のことを思い出す。 (…… 一応呼び出して注意しとくか) 「せんせー課題持ってきたー」  翌日、偶然日直だったのを口実に真島を国語準備室に呼び出した。彼は呼び出す際に申し付けたクラス全員ぶんの課題プリントを手に持っている。 「…… ちょっと、そこ座って」  言葉遣いに指導を入れようか入れまいか悩んだのち、冬真は何も言わずに空いた椅子を指し示した。 「え? なんで?」  訝しがる彼を前に冬真は準備室の鍵を閉めた後、例の物を机に置いた。瞬間、真島の両手がそれの上に被さる。冬真が顔を上げると、血の気が引いた彼の顔がある。尋問するまでもなかった。が、教師としては一応指導しておくべきかと考えた結果、 「俺が何を言いたいかわかる?」 と面倒臭い女のような言葉を放ってしまう。しかし真島には効果があったらしく、彼はひどく焦ったような顔をしている。 「あのー、違うんだよ先生、ちょっと皆で遊んでただけで別に……」 「だとしても授業に関係ないもの学校に持ってきたら駄目だから」  冬真がその物から手を引くと、真島はそれをすばやく制服のポケットにしまった。 「それ、あんまポケットとか財布に入れない方がいいぞ」 「なんで?」 「破れるから」  ふうん、と怒られる様子がないのを察したのか真島は気の抜けたような返事をするので、冬真は椅子に座りながら小さくため息を吐く。 「まあ、節度を持って――」 「冬真先生、最近白峰先生と仲良いけどなんで?」  ついさっきの蒼い顔はどこへやら、突然そんな質問をぶつけてきた彼に、冬真は無言で立ち上がって準備室の鍵を開けた。 「…… 話は終わり。次の授業が始まるから教室に戻んなさい」 「皆、気になってるよ。白峰先生かっこいいから」  冬真はそれには返事をせずに、顎で部屋を出ろとジェスチャーをする。 「マジで白峰先生と冬真先生、どういう関係かって女子が騒いでて」  真島はようやく立ち上がるがそれでも懲りずに聞いてきて、冬真はしびれを切らしたように言った。 「ただの同僚だよ、それ以外ないだろ。仕事の話してただけ……」  と、その時準備室のドアががちゃりと開いた。 「…… あ、すみません。ノックはしたんですが……」  突然現れた男の姿に冬真が一瞬怯んだ隙に、真島はすばやく準備室を出ていく。次の授業で絶対に当ててやろうと決める冬真に、吹雪があの、と控えめに声をかける。 「図書室でお借りした教材を返しに来たんですけど……」 「ああ、すみません。今整理中で―― お預かりしておきます」  やや困った様子で言われて、冬真は図書室が書架整理中であったことを思い出す。 「さっき、何の話をしてたんですか?」 「え?」  謝罪しつつ受け取るとそんなふうに問いかけられ冬真は首を傾げた。 「自分の名前が聞こえたような気がしたので」 「ああ……」  別に後ろめたい話ではないのだが、内容が内容なだけに言いにくい。夏休み前の体育祭準備の時に、この件で彼を不快にさせた前例もある。が、向こうから聞かれていることなので言わないわけにもいかない。 「…… うちの生徒が白峰先生と話したがっていると。―― 今の…… 真島が言ってました」  ほんの少し言い方を変えたが、大筋の意味では同じはずだ。吹雪の顔をうかがうと、彼は静かに固まっていた。不快そうではないが、特別嬉しそうでもない。ずいぶん長く固まっていたように思えたが、ほんの数秒だったのかもしれないし、たった一瞬かもしれなかった。 「…… そうですか」  呟いて、彼は踵を返した。  ―― なんだか、この間から少し彼が冷たい気がする。そもそも彼が冬真に対してあたたかかったことなどないのだが、旅行へ行く前の方が今よりも打ち解けていたような気がする。あくまで以前と比較して、だが。 『誰とでも簡単に寝るような人よりは――』  あれは絶対に自分に対する言葉だった。あの後、部屋で誤解は解いたはずだが…… というかそもそも、誤解があったとして。  そこに対して怒るような権利も資格も、お互い持ち合わせていないのに、なぜ怒る必要が?  休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。冬真は準備室のドアに自分の後頭部をごつんとぶつけた。 「どういう関係って……」  それはこっちが聞きたい気分だ。

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