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13.汚れつちまつた悲しみに②

 吹雪は帰宅してすぐに佳澄の部屋の冷蔵庫を開けた。米を切らしているので、今日は麺類だ。冬真の部屋のキッチンは綺麗だった。同時に思い出す。冬真の友人の妹だという、千世という女性。ただの友人の妹が一人暮らしの男の家に訪問するということはないだろうし、そうなると二人の関係は明白だ。―― いや、でも、恋人がいながらあんなことをするだろうか?  酔った自分を毎度―― そのたびにあんな行為に及んでいたとはいえ―― 介抱してくれた冬真が? 生徒に慕われていて、困っている生徒がいたらさりげなく助けてやるような彼が?  それとも、それは表の姿で、本当の彼はああいうことをする男だった? 『ただの同僚だよ、それ以外ないだろ』  その言葉に間違いはない。それなのに、どういうわけかどこかでめちゃくちゃ傷ついている自分がいる。 「…………」 「ただいま」  玄関の方で声がした。佳澄にしては少し遅い帰りだ。働き出してからは吹雪の方が早く帰る日は珍しい。 「作ってくれてたの?」  ありがとう、と声に疲れをにじませる佳澄に吹雪は調理を進めながら言った。 「うん。麺なんだけど平気?」 「大丈夫。すごいいいにおいする」  佳澄は着替えるために部屋に入っていった。吹雪はふと、旅館でのことを思い出す。本当に、行為に至るまでの記憶がない。旅行の時だけじゃなく、そうなるまでの記憶が酒のせいか所々飛んでいる。自分が誘ったのか、向こうから誘われたのかもわからない。最悪、強引に押し倒されていたとしてもわからない。そんなことはないはずだがと思いつつ、吹雪は自分の首元に触れた。あんなふうに優しく触れられたことはない。北斗さえ、あんなふうには……。 「君は飲まないの?」 「だって俺すぐ酔っちゃうし」  缶ビール片手に佳澄が言うので、吹雪はそう返した。 「この前だってつい酔って、またあの人に……」 「あ、旅行誘ってくれた人? 最近よく飲んでるっていう…… 介抱してくれるんだ」 「迷惑ばっかりかけてる」  なかば愚痴のように言うと、佳澄はふっとかすかな笑い声を漏らした。 「迷惑かどうかはわかんないけど―― まあ、好きな人や恋人は甘やかしたくなる、とはよく言うね」  叔母の口から思わぬ言葉が飛び出して、吹雪はむせそうになる。 「何、急に」 「え、だって付き合ってるんでしょ?」 「付き合ってないよ」  当然のように尋ねられて否定すると佳澄は意外そうな顔をする。 「何回か泊まってるから、てっきり付き合ってるんだと思った」 「いや佳澄ちゃんに言われたくない…… 本当そういうのじゃないから」  そうなの? とビールを飲み続ける佳澄の前で吹雪はフォークにくるくるとパスタを巻き付けながら続ける。 「…… なんか、あの人の近くにいると安心する。いい匂いがするから、いつも眠くなる。…… うちで使ってる柔軟剤とか石鹸と同じの使ってるのかな……」 「好きな人はいい匂いがするって、よく言うね」 「だから違うんだって。…… 佳澄ちゃんには悪いけど」  そう言ってすぐ、吹雪は「ごめん」と同居人に謝罪した。 「…… 私は、君との同居生活は案外楽しかったよ。今も思ってるし」  吹雪は黙っている。後ろのソファに腰かけていた佳澄が、テーブルの上にトンと音を立てて缶を置く。 「確かに君は兄の子だし、私は彼を憎んでる。一生許せない。…… でも、それと君に対する感情は別で…… 別であるべきだと思う。それに私は、君のそういう、素直で誠実なところは好ましいと思ってるよ」 「…………」  素直とか誠実とか、自分がそんな言葉が似合うような人間じゃないのは、胸に手をあててみなくてもわかる。 「―― 佳澄ちゃんの話は、いつも回りくどくてよくわからない」  吹雪が言うと、佳澄は微笑みながら吹雪の肩にぽんと手を置いた。 「君の帰る家はいつでもちゃんと用意しておくよ、という話」 「話」  冬真のスマホに短いメッセージが届く。冬真からも短く、なんの、と返信する。 「会った時話す」「どっか行こ」  立て続けに送られてくるメッセージは、明らかにいつもと雰囲気が違う。 「近々修学旅行」 「その後でいいよ」  千世とのやり取りがひと段落して、冬真はスマホをしまった。二年生の修学旅行がある関係で、二年だけ早めに定期試験を終える。冬真は採点途中である現代文の答案用紙を見つめた。氏名欄には「広瀬文哉」の名がある。正答率はそこそこで、これが古典になるとかなりの点数を叩き出す。真島とは反対におとなしい、物静かといったふうな見た目なのに、あれで自分の意見ははっきり言うので驚いたと彼らの担任が言っていた。だから彼に限って、真島に押されて、断れなくてという話ではないと思うが。…… そういえば、中学校が同じだと聞いた気がする。  こんこん、と国語準備室のドアが控えめに叩かれた。同時に、失礼します、という挨拶とともに生徒が入ってくる。噂をすれば、広瀬文哉だ。 「高橋先生、ノート集めて持ってきました」 「ありがとう。そこに置いといて」  冬真が入り口近くの空いた机を指すと、広瀬はすぐにそこへノートの束を置いた。 「採点、次の授業までには終わるって皆に言っといて」 「あ、はい。わかりました」 「広瀬」  用を済ませたらすぐにでも出ていきたそうな彼を、冬真は呼び止める。 「この前の保健室での落とし物、真島に渡したから。もう聞いたと思うけど」  そう言うと、広瀬は一瞬目を泳がせかけたが、すぐに元の表情に戻った。 「あ…… 聞いてます。ありがとうございました」 「まあ修学旅行も近いけど、あんまり……」 「先生、あの」  羽目を外すなよ、と注意するより前に、広瀬の方から呼びかけられる。振り返ると彼は真剣な顔をしてその場でうつむいていた。 「…… すみません、なんでも。やっぱりなんでもないです」  広瀬は失礼しますと挨拶すると急ぎ足で去っていった。 (…… 付き合っているわけじゃないのか?)  採点作業に戻りつつも、冬真の思考は真島と広瀬のことに戻っていた。  ―― 例えば、例えばだが、さっきほんの少し懸念したように広瀬の方が真島を拒絶できないでいるとか。いや、保健室であんなふうだったから冬真が勘違いしているだけで、実際は違うのかも……。でも真島の方の反応は確実にそうだったよな……。  今日から四日間冬真がいない。二年生の修学旅行に引率して沖縄へ行っているからだ。その関係で、主に二年が使っている二階は人の気配がまるでない。  …… 正直、北斗と出会ってからの学校生活はあまりいい思い出がない。楽しくなかったわけではないのだが、自分の感情を抑え込んだままでの数々の行事だったから、どこで何をしたのかろくに覚えていない。北斗は結構まめな性格をしているから、覚えているかもしれないけれど。  なくなるのが怖かった。駄目になったら、友達ですらいられなくなるんだろうな、とか思って。大事にしすぎて、結局駄目にした。そのくせ、いまだに捨てられない。  多分、次も、その次があっても、結局全部駄目にする。 (…… そんなのないけど)  そう思ってからふと、佳澄が言っていたことを思い出す。 『好きな人や恋人は甘やかしたくなる、とは――』 『好きな人はいい匂いがするって――』  吹雪はひとつ息を吐いて目の前に視線を戻した。生徒たちが制限時間と戦いながら一心不乱に問題を解いている。一年生と三年生は、修学旅行に行った二年生より一週間遅れで今日から試験期間に入った。 (…… 好きって)  そんな、都合の良いこと。

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