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14.汚れつちまつた悲しみに③

 一日目は移動がほとんどだ。ここしばらく真島と広瀬を注意して見てみてはいるものの、そういう先入観で見ているせいなのかなんなのか、どうもよくわからない。…… まあ、彼らとて周りの目があるところで堂々と触れ合ったりはしないだろうが。  ―― あの時、広瀬は何を言いかけたんだろうか。仮に恋愛相談なんかされたとして、うまく相談に乗れる気がしない。千世とはお互いの認識こそ付き合っているというものだったが、世間一般的なそれかと言われると正直微妙な話だし。千世以外ではそれなりに遊んだりはしたものの、正式に恋人同士として付き合った経験なんてほぼ皆無だし。  再び声をかけられでもしたらどうしよう、などと思いつつ消灯前の見回りのためにホテルの廊下へ出ると、タイミングよく階段を降りてくる広瀬と鉢合わせる。 「どうした、もうすぐ消灯だぞ」 「えっと、水を買いに……」  普段大騒ぎしているような連中ではないのと、彼一人であることに少しの油断を滲ませながら冬真は「短めにな」と注意して彼に背を向ける。 「…… あの、先生」  来た。  内心そんなふうに思いつつ「何?」と言って振り返ると、広瀬は今度は意を決したような顔で唇を開いた。 「先生は、友達に告白されたことってありますか」  いきなり核心をつくような質問だ。「なんで?」と尋ねると彼は困ったような顔でうつむいて黙りこんでしまった。どこか思いつめたような顔が、誰かを彷彿とさせる。 「…… ないけど。友達を好きになったことならあるよ」  冬真がそう言うと、広瀬の顔がぱっと上がった。 「自分の気持ちを言ったことはないし、これからも多分言わないけど」 「…… その人って……」 「他の人と付き合ってるよ。まあ、この年だし。それでも…… 何回他の奴と付き合ってるの見せつけられてもまだ忘れられなくて、だらだら好きでいるけど」  言いながら、冬真はふっと自嘲気味の笑みを漏らした。 「重いうえに望みも何もなくてびっくりしただろ。これ、他の奴に言わないでな」 「言いません」  広瀬は冬真にきっぱりとそう約束すると、少しの沈黙ののちふいに口を開いた。 「…… あの、先生もうわかってると思うから言いますけど俺、唯人と…… 真島と付き合ってます。夏休みにあいつから告白されて」  彼の言葉自体は突然だったが、内容はあらかじめ冬真自身が想定したものだったのでさして驚かなかった。 「唯人とは小学校から仲良いし、俺も唯人のこと好きだったし、あいつがあんなふうに真剣な顔で話すの初めて見たし、それに」  広瀬は今まで胸の奥に溜め込んでいたすべてを吐露するかのように言葉を出し続けていた。そしてふと、何かに気づいたようにふと言葉を止める。上げた顔は、今にも泣きだしそうで。 「―― 俺、唯人に嫌われたくなかった……」  そうだよなあ。  水槽の中で自由に泳ぎ回る魚の群れを、冬真はぼんやりと見つめた。鰯の大群は誰ひとり和を乱すことなく、規則正しく同じ方向へ泳いでいく。  広瀬とて、その程度で本当に真島に嫌われるなどと思ってはいないだろうが、そんなふうに思ってしまうのも無理はないくらいには、あの年頃の心というものは、薄くてもろい。 「先生、なんでひとりで見てんの?」  物思いにふけっていたところに水を差されて、冬真は苦々しく眉を寄せた。声をかけてきた人間が人間なだけに、必要以上の苛立ちが募る。 「ひとりなら俺らのグループ入れてあげようか?」 「女子か。先生はお前らみたいなのが公共の場で騒がしくしないか見てるのが仕事なんだよ」 「いや、今普通に水族館楽しんでた……」  しつこく構ってくる真島を、冬真は「うるせーな」とあしらった。 「広瀬とかと一緒じゃないのかよ」 「あ、そうだ、それ」  真島は冬真の出した名前に反応して一度は去ろうとしていた足を冬真の方へ戻した。 「文哉さ、今朝からちょっと元気ないんだけど―― 先生、もしかしてあいつ、先生になんか話した?」 「…… 別に何も」 「話したんだ」  冬真が否定したにも関わらず、真島は勝手に解釈して納得する。 「…… 俺別に、あいつのこと困らせたかったわけじゃないのに。…… ねえ先生、俺どうすればいいのかな」 「どうすればいいじゃないだろ。大事にしてやれよ」  思わず、そんな言葉が口を突いて出た。真島は戸惑うような表情で冬真を見ていた。 「…… どうやったら大事にできる?」  真島からそんな問いが返ってくる。冬真は再び水槽の中に視線を向けた。 「…… お前は、お前のやり方で大事にするしかないだろ。お前はお前以外になれないんだから」  その結果、どうなったとしても。どうなるとしても。  冬真は冬真以外になれない。昴の好きな人にも。千世にとっての大切な人にも。吹雪の大切な人にも。逆もまた然り。 (…… それでも)  許されるなら、その人になりたい。  縋るように伸ばされた指の、その先にいる人間に。 「かわいい」  商業施設のカフェ店内で沖縄土産であるガラス細工の置物を渡すと、千世は嬉しそうに笑った。 「お兄ちゃんがうち帰ってきた時に見つからないようにしないと」 「いいよ、別に見つかっても」  置物を見つめながら言う彼女に冬真は言った。 「なんかあいつ、微妙に気づいてるような気もするし、ていうかもう十年近く経つし、いい加減……」 「あはは、十年」  そんなに経つんだ、と千世は笑いながら言った。十年前はまったくと言っていいほど化粧っ気がなく、ほんの少し前までは手探り状態だと漏らしていた気がするが、今ではかなり様になっているように見える。  彼女は注文したミルクティーを飲んでから、あのね、とふとした様子で切り出した。 「好きな人、できた」 「…… そう」 「うん」  ごめんね、と千世が言った後、長い沈黙が訪れてある程度騒がしいはずだった店内がすっかり静かになったかのような雰囲気におそわれた。目の前で千世がもう一度ミルクティーを口にした。なんとなく真似をするように冬真も頼んだホットコーヒーを飲む。 「…… その人はさ」 「あっ、吹雪先生」  不意に思いがけない名前が千世の口から飛び出して、冬真は「は?」と思いながら振り返る。 「あ……」  冬真は思わず目の前の男と同じ声を重ねた。 「お―― お疲れ様です」 「…… お疲れ様です」 「こんにちはっ」  職場で会う時のような挨拶を交わす二人の後に、千世が軽快に挨拶する。 「どしたのふうくん、急に立ち止まって―― あ、友達?」 「えーっと……」  吹雪の後ろから、彼よりいくらか年上の女性がやってきて吹雪に向かって尋ねた。吹雪は少し悩んだ後、 「同じ学校の、高橋先生」 と紹介した。 「えー、はじめましてー」 「あ、どうも……」  ふうくんがいつもお世話になってます、と彼女が挨拶してから吹雪は小さく二人に向かって会釈をしてその場を女性とともに去った。 「そんな悲しそうな顔しないの」 「別にしてないけど」  吹雪や冬真よりもいくらか年上に見えた。親子や姉弟とは言い難い歳の差だ。…… 綺麗な人だった。 「なんで俺がそんな……」  彼が美人と一緒にいたところで自分が傷つく必要はないだろうと思い言うと、千世は「え? だって」と首を傾げた。 「友達にちゃんと友達って紹介してもらえないと悲しくならない? あ、友達ではないんだっけ」 「…………」  冬真は千世の顔をじっと見つめた。長い間同じ男を好きでいて、すっかり同じ方向を見ている気でいた。そんなはずはないのに。幼い頃から、それこそこんなふうに付き合う前から見てきた泣き顔はこのところとんとお目にかかっていない。  冬真なりに、大事に、―― 大事にしてきたつもりだった。 「…… その人は、千世のこと大事にしてくれんの?」 「してくれるよ」  即答だった。不意の問いかけだったのに、まるで答えを用意していたみたいに。 「ずっと大事にしてくれてる。多分、これからもずっと」  だから別れるんだよ、と千世は言った。そのきっぱりとした態度に、冬真はもう何も言い返せない。 「ね、ケーキ頼んでいい? 私、二個食べたい」  冬真は暗くなる前に千世を家まで送り届けることにした。車で家の前まで送ると申し出たのに、千世はそれを断った。 「お兄ちゃんがこっち来てるかもしれないし、見つかったら嫌だし―― ていうか、いつもそうしてるじゃん」 「だから、見つかってもいいって…… 雨も降ってるし」 「いいの」  千世は頑なだ。結局、近くの公園まで彼女を送るということで妥協してもらった。 「この雨ももうすぐ雪になるね」 「まだ降らないだろ」 「すぐだよ」  言い合ううちに、公園が見えてくる。冬真は道路脇に車を停めた。 「そのまま待ってて」  冬真は千世に言うと、傘を持って助手席の方へ回った。 「なんか今日の冬真くん優しくない?」 「いつも優しいだろ」  ドアを開けて傘を傾けてやるとそんなことを言いながら降りてきたので、冬真は少し怒ったふうに返した。 「傘持ってけよ。ビニール傘だし、返さなくていいから」 「え、いいよ、すぐそこだし走って帰る」 「いやお前は絶対にマンホールの上で滑って転ぶ」  冬真がきっぱりと言い切ると千世はじろりと冬真を睨みつけた。差し出した傘を受け取るため近づいた背に、冬真はするりと手を伸ばした。 「―― 応援してる」  抱きしめるとまではいかない、けれどしっかりと力を込めて自身の背中に回された手の体温に、千世は傘を持つ手にぎゅっと力を込めた。 「…… ばーか」  千世は笑って言いながら、グーで冬真の肩を押した。  じゃあね、と言って傘を両手で持って歩いていく千世の背中を、冬真はじっと見つめていた。その姿が見えなくなるまで、ずっと。

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