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15.wintry sky①

「かっこいい人だね」  席についてメニューを開くより先に、冴子は言った。 「何、誰?」 「今の、ほら、ナントカ先生」 「かっこいいと思ったのになんで名前覚えてないの」  吹雪はメニューを開いた。コーヒーや紅茶などの飲み物の他に、ケーキなどの菓子類やサンドウィッチをはじめとする軽食もいくつか並んでいる。 「あの人が今ふうくんが好きな人?」  エスパーか。 「…… ご覧の通り、かわいい彼女がいるよ」 「関係ないじゃーん」 「そう思うのは冴子さんだけだよ」  相変わらずそっち方面に関しては奔放な様子の冴子にきっぱりと言い返すと彼女は「失礼な」と冗談交じりに言った。 「私はね、ちゃんと全員と同意の上で付き合ってるの。同意よりも体の方が先になったことはあるけど」 「今は何人?」 「今は誰とも付き合ってないよ」 「え、そうなの?」  思いがけない答えに思わず吹雪は言った。 「本当に?」 「うん。なんで?」  不思議そうな顔をする冴子に吹雪はだってと口にしながら声のトーンを下げる。 「…… 佳澄ちゃんは、冴子さんが自分と付き合ってる時に他の人とも付き合ってるのが嫌なんでしょ? だったら――」 「それは無理」  吹雪が最後まで言い切る前に冴子が遮るように口を開いた。 「だって付き合ったその日に私が新しい恋に出会うかもわからないじゃない。私と付き合うってそういうことだよ。佳澄ちゃんだってそれくらいわかってるし」 「…… どうして?」 「うん?」  思わず吹雪がこぼすと、冴子は首を傾げた。 「なんで一人じゃ駄目なの? 一番の人がそばにいてくれればそれで充分でしょ」 「…………」  冴子は吹雪の質問に答えないまま、テーブルの隅にあるベルを鳴らした。 「私、ロイヤルミルクティー。ふうくんは?」 「…… アメリカン」  間もなくやってきた店員にそれぞれが注文して、店員が去ると冴子はゆっくりと話し出す。 「…… ふうくんはさ、じゃがいもって好き?」  唐突な問いかけに吹雪が何も言わずにいると、冴子は特に気に掛けない様子で続けた。 「じゃがバターっておいしいよね。それだけで立派な料理だし、そこそこお腹も満たされるし。―― でも、私はそれなら人参とか玉ねぎとかを入れてカレーや肉じゃがにする方が好きなの。手間はかかるけど、お腹にも満ちるし。…… 私にとっての恋愛ってそういうもの」  わかるような、わからないような。同意も否定もせずにいるとふわりとコーヒーのいい匂いが漂ってくる。淹れたてのコーヒーが近くの席に運ばれてきたのだ。 「私にとっては、全部大事なの。…… ひとつでもなくなったら、息ができなくなる」 「だから、佳澄ちゃんのことは切り捨てるの?」  問いかけると、冴子は「切り捨てる?」と小首を傾げた。それからふっと顔に笑みを浮かべて、まさか、と口にした。 「逆」  言葉の意味がわからずもう一度尋ねようとしたところで佳澄がやってくる。 「もう何か頼んだ? トイレすごい混んでて……」 「なんか近くでイベントやってるみたいだよ」 「ナントカ先生もそれに来たのかな?」  吹雪が先ほど見た情報を告げると冴子が冬真たちをちらりと横目で振り返りつつ言った。すると、案の定佳澄が「誰、それ?」と怪訝な顔で首をひねる。 「学校の先生。さっき偶然会って」 「ご挨拶したんだよね」 「何て?」 「どうもーって」 「何て名乗ったの?」  何気ない問いかけに、吹雪と冴子は顔を見合わせる。 「どうだったっけ?」 「いや、冴子さん、はじめましてとは言ったけど名前は……」  言ってないかも、と吹雪は先ほどのやりとりを思い出しながら言った。名前どころか、彼女が何者であるかも冬真に告げていないのではないか。 「二人とも変なところで抜けてるんだから……」  やや呆れた様子の佳澄の前で、冴子が「あ」と何かに気づいたように口元に手を当てる。 「さっきの先生に私とふうくんの関係、誤解されてたらどうしよう?」 「いやありえないから……」  佳澄はほとんど相手にしない様子で冴子に言った。 「自分のこと何歳だと思ってるの」 「一回りくらいの歳の差なんか別に珍しくないよ」 「いやいや…… え、本当?」  ひそひそと余計な心配を始める彼女たちに吹雪がどう出るか悩んでいるうちに、先ほど注文したロイヤルミルクティーとアメリカンコーヒーが届く。 「あ、すみません、カフェラテください」  吹雪たちの前にカップを置いた店員に佳澄が注文をする。ふと吹雪が目をやると、すでに退店したのか冬真たちは席にいなかった。  あと十日もすれば期末試験だ。ついこの前テストを行ったばかりのような気がしてならないが、と思いながら冬真は授業を進めた。チャイムとともに授業を終えるとたちまち生徒たちは騒がしくなる。冬真は教室の窓際にいる真島と広瀬に目をやった。何事か二人で交わしながら笑い合っている。 「冬真せんせー」  呼ばれて振り返ると、数人の女子たちがそこにいた。彼女たちは冬真を呼んだにも関わらずなんだかもじもじとしている。やがて一人が痺れを切らしたように、 「冬真先生、白峰先生が彼女いるって本当ですか?」 と聞いてきた。 「知らないけど……」  冬真は言いながら、後ろの方に隠れている女子に気づく。 「…… 気になるなら自分から本人に聞きなさい」  そんなこと、むしろこっちが聞きたいくらいなのに。冬真が女子生徒たちを軽くあしらって教務室に戻ると、廊下で吹雪と一人の女性教員が立ち話をしているところだった。 「なんだ、そうだったんですか」  女性教員のオーバーなリアクションと、ふと顔を上げた吹雪と目が合って冬真は思わず「どうされたんですか」と声をかけた。 「白峰先生が先日ものすごい美人と一緒にいたって生徒に聞いたものですから」 「叔母の知り合いですと説明していたところです」  吹雪の口から出てきた言葉に、冬真の肩からふっと力が抜けていった。 「本当だったら、うちの部の女の子たちみんな白峰ロスになっちゃうところでした」  女性教員は笑いながら廊下の角を曲がっていった。 「…… もしかして、この前一緒にいた?」  吹雪と並んで教務室に戻りながら冬真が問いかけると、吹雪が「そうです」と頷いた。 「叔母とは歳が近くて…… それにしたって一回りも離れてるのに」 「えっ、そんなに離れてたんですか?」  先日予想していた姿から予想していた年齢とは大きくかけ離れた歳を聞かされ、冬真は思わず声を上げる。 「綺麗な方だったのでてっきり俺より少し上かそう変わらないくらいかと……」 「高橋先生はおいくつでしたっけ」  机の上の資料を捲りながら伏し目がちに言う姿に、冬真はいっとき見惚れた。端正な顔立ちを隠すように長い髪はもったいないと思っていたが、それが彼の白い頬に濃い影を落とすと、これがどういうわけか美しい―― そう思いかけて、冬真はいやと否定する。美しい、ではない。  ―― 艶めかしい、だ。 「何か?」  黙っていると、吹雪が視線を上げて聞いてくる。普段は年上にすら見える彼だが、こういうふとした時の表情は年相応だ。…… というか、さっきはついほっとしたがよく考えてみれば叔母の知り合いなんて言っても血縁でもなんでもないわけだしあれだけの美人なら簡単に恋愛対象に入るんじゃないか。冬真は別にと返しながら目を逸らす。 「…… 三宅先生に聞いてください。あの人、俺が通ってた小中学校の先輩なので」 「俺が三宅先生を苦手って知ってて言ってませんか?」  新規の情報に食いついてはくれないかと思いつつ言ってみるが無駄に終わった。 「冬真先生、小嶋先生知らん?」  噂をすれば、タイミングよく教務室のドアが開いて三宅が顔をのぞかせた。 「ついさっき出張に出られましたよ」と冬真が伝えると三宅は「あちゃ、遅かったか」と苦々しげに言った。 「三宅先生、白峰先生が質問があるそうです」 「えっなんです…… あっ」  冬真の言葉に三宅は一瞬首を傾げるがすぐさまぱっと顔を輝かせた。 「今度の球技大会でやるバスケの先生チームの選手募集の件ですね?」 「え、いや」 「大丈夫、まだ一人足りないところでした! セーフ!」 「違いますバスケはしません!」  強めの語気できっぱり断ると瞬時に三宅の顔が曇る。なんだか悪いことをした気分になりながら吹雪はおずおずと尋ねる。 「いえ、その…… 三宅先生っておいくつなのかなと思いまして……」  一体自分は何がしたいんだろうと自問自答する吹雪の前で、三宅はため息を吐きながら「そんなこと」と口にする。 「冬真先生に聞いてくださいよ。そいつ小中の後輩なので」  それでは無限ループになってしまう。 「もう本当に困ってるんですよ。生徒は先生チームとの試合を求めているのに誰も乗ってくれなくて」  肩を落とす三宅を見ていると申し訳なくなってくる。 「…… す、すみません。でも球技は本当に苦手で…… あ、三宅先生、落ちましたよ」  三宅の手に抱えられたファイルの中からプリントが数枚落ちて、弁明しようと立ち上がった吹雪の足元へ舞い込んでくる。拾い上げるためにしゃがもうとしたその時、足の下で何かが滑って吹雪はバランスを崩した。とっさに伸ばした吹雪の左手は、石油ストーブに押し当てられる。古い、円筒状の、熱源の周囲が格子で囲われたタイプのもので、上からは太い管が伸びている。 「熱っ――」  吹雪はすぐに手を離して胸に抱え込んだ。冬真と三宅が慌てた様子で駆け寄ってくる。 「手、見せてください」  三宅が冷静に言ってきて吹雪は「すみません」と素直に手を差し出した。 「プリント踏んじゃったかも……」 「プリントなんか今はどうだっていいでしょ!」  教務室の片隅で怒声にも似た声がこだました。 「どうしてそんなに無防備なんですか? そんなだから――」  俺みたいなのの前で眠りこけて手出されるんじゃないですか?  思わずそう言いかけたのを、冬真はぐっと飲み込んだ。横から三宅が冬真先生、と落ち着いた声で制してくる。 「急に大きい声出すと、外で生徒たちがびっくりしちゃうから。な」  三宅は再び吹雪の手に視線を戻すと、 「流水でしばらく冷やしてきてください。後から痛むと思うので、念のため保健室も行って」 と指示した。吹雪が出ていくと、三宅は床に散らばったプリント類を拾い上げる。そして立ち上がってから、彼は冬真を顔を見るやふっと笑った。 「なんつう顔してんだ」 「…… すみません」  教務室に人がほとんどいなくてよかった。冬真は自席に戻ると、額を押さえため息を吐いた。 「その顔、生徒の前に出るまでになんとかしてけよ」 「…… どんな顔してますか、俺」  尋ねると、三宅は驚いたように冬真を見た。まるで気づいてなかったのかとでも言うように。 「えっ、なんですか」 「いやいや、なんでも。…… うん、まあ―― がんばれ」 「なんなんですか。―― ちょっと、三宅先生」

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