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第6話

 地上に帰れないのならば今以上に穢れで塗れてしまえばいい。天帝が言ったように天上の清らかさが籐刹の命を蝕むのならば、もう一度水に触れればいいのだ。そうすれば術を使うまでもなく籐刹の命は終わる。ここは籐刹が誕生した時に天帝が与えた天宮の一室だ。寝台を離れて少し歩けば、扉のない壁のみで仕切られた続きの部屋がある。そこには大人の女性の身長ほどはあるだろう巨大な水瓶があるのだ。同じような形の風呂がこの天宮にもあるが、この水瓶は清らかな水が常にたっぷりと張られている。その水に触れればいい。そう思って悲鳴を上げる重い身体を引きずるようにして籐刹は水瓶に近づいた。たった数十歩の距離であるはずなのに、もはや籐刹は立っていることすらできず半ば倒れるように座り込む。大きく胸を喘がせながら、穢れがびっしりと刻まれている腕を伸ばした。しかし、その腕どころか指先さえ、水瓶の水に触れることは叶わなかった。  決して強くはない。弾くような痛みもない。だが目には見えない真綿のような何かが遮り、水の少し上で指の侵入を徹底的に拒んでくる。これは決して籐刹が穢れを受けているため清らかな水に拒絶されているわけではない。水に触れられないよう結解が張られているのだ。  籐刹の浅はかな考えなど、天帝にはお見通しだったのだろう。何一つ籐刹に許すつもりはないと。  音のない空間で、触れることさえできない水面はただただ籐刹の姿を水鏡にして映し出す。顔のつくりはどこか夕栄に似ているかもしれないが、かつては地上で弟と慈しんだ栄鷲(えいじゅ)とは似ていない冷たく、暗く、人形のような容貌。黒かった髪は膝裏までとどくほど長い藤色の髪になり、黒曜石のようだった瞳は赤紫になっている。顔のすべてを覆っているはずの黒く禍々しい穢れの模様は左半分が消えており、そこには真白な肌が覗いていた。  どれほど縋っても、しがみついても、この姿のどこにも地上の名残はない。かの地での、否、かの地で絆を交わした彼らとの繋がりが無くなってしまったかのように思えて、焼き尽くさんばかりに熱い何かが胸の内から込み上げてきた。 「何をしている」  何かを押し殺すように唇を噛みながら水面を見つめていた籐刹の背に、冷たく感情の見えない声が投げられた。ビクリと肩を震わせる籐刹に構うことなく、声の主である天帝は有無を言わさず籐刹を抱き上げ水瓶から遠ざける。恭しく頭を垂れながら侍女が端に寄せた天蓋をくぐり、トサッと籐刹の身体を寝台に横たえさせた。天帝が手の動きだけで人払いを命じると、侍女たちはしずしずと下がっていく。二人きりになったこの空間は籐刹にとって胸を圧迫するかのようだった。 「まだ水が使えぬことはわかっているであろうに」  深々とため息をつく天帝に籐刹は顔を背けた。天帝は常に籐刹に対して多くの言葉を紡がない。そもそも神々の頂点に立つ彼は常に忙しく、常に誰かに周りを囲われていて、そして拒絶を恐れて逃げるように地上に下った籐刹には、彼が言葉にしない胸の内を知る由もない。  そもそも天上に存在するすべての天神に愛され崇拝される天帝にとって、天神の中でも異端とさえ言われるほどに力が弱く何の役にも立たない籐刹などどうでも良い存在であろうに、なぜここまでして籐刹を生かそうとするのだろう。籐刹と同じように地上に降りて穢れを受け、それでも留まり魂ごと消滅してしまった天神はそう多くはないものの存在する。彼らが望まない以上、その意志を捻じ曲げてまで天帝が動くことなどなかった。まして天帝の住まいであり天上の中心である天宮にその身を置くことも本来ならば許されはしない。穢れを受けている身ならば尚更だ。籐刹を助け天宮に置くことは、天神たちに眉を顰められこそすれ天帝の利になることはない。だというのに、なぜ――。

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