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第10話

 神田山交番の管内でも特に山奥の方、ほとんど駐在所の管内との境で、山一つ越えたところが現場であった。  昔ながらの古くさい家屋の中へ入っていく。  ほとんど病死だと分かっているが、万が一があるため、やはり検視には医師の診断が必要になる。 「遅くなりました、花村です」 「先生、お待ちしていました」  花村が刑事当直に挨拶をしている。先ほどまでの寝ぼけ具合から一転して、医師の顔になっていた。  パトカーの中で花村は上機嫌に話をしていた。  なんでも、静とキスをして、静が応えてくれる夢を見たのだという。  それを聞き、今度こそぶん殴ってやろうか、と怒りをみなぎらせた。  キスは現実だ。気持ちよくて、ちょっと自分から舌を絡ませてしまったのも事実で、静はそのことに自己嫌悪した。  花村はパトカーの中の締まりのない顔とは違い、今はキリッと真面目そうな顔をしている。服装も、ポロシャツにチノパンとか、ラフな格好で良いのに、わざわざスーツを着用しているところに花村らしい真面目さを感じた。  医師の診断が出るまでは事件の可能性もあるので、本来ならば現場保存をしなければならない。  しかし貴重品等も家の中にあり、捜査員ではない静から見ても、事件性は薄いように感じられた。  ふと思い立ち、静は花村の仕事ぶりを見てみようと思った。寝ぼけて間違ったことをすれば、そのことでからかってやろう。  思えば家にいる花村しか見たことがない。単純な興味もある。 「ちょっと外、見ててよ。俺、中にいるから」  先に現場臨場していた他の交番の後輩に一声かけると、静は花村と刑事当直の後を追う。  一人暮らしと聞いていたが、中は整然としていた。荷物は多いが、汚く感じることもない。  故人はきっと綺麗好きだったんだろう。  奥にある寝室のベッドの上で高齢の男性が横たわっている。この方が変死していた男性だった。  安らかな顔をしていた。発見した息子によると、ここで眠るように亡くなっていたとのことだった。  今は部屋に刑事課員ふたりと花村、静の四人がいる。 「この方ですね」  花村は故人に向けて手を合わせ、小さく頭を下げた。  そして、お願いしますね、と言ってから、ふたりの刑事課員に指示を出していく。 (……ちゃんとしてるんだな)  死者に向けて手を合わせる、という行為は一見して普通の良識ある行動のように思えるが、それをこともなげにしてみせた花村を静は意外に思ったのだ。  静も花村の姿を見て、慌てて手を合わせた。  警察官も医師も、人の死というものに慣れ切っている。高齢化が進む社会において、今日のような通報は珍しくない。この人はおそらく死後すぐに発見されたから良い方だろう。風呂場で突然死し、何日も煮詰められてから発見された人を見たことがあるが、ひどい状態であった。  数をこなしていくほど、いろいろなものは薄れていくものだ。若い刑事課員が、最初は敬意を持って、ご遺体に手を合わせていたのに、慣れてくるにつれ、めんどくさそうな顔をするだけになっていくのを何度も見てきた。  医師である花村は警察官よりももっと死が身近だろう。  静が見てきた警察医はこんな夜中に呼び出されると不機嫌そうな顔をして、送迎の静たちや刑事当直に対して横柄な態度を取っていることが多かった。もちろんご遺体に手を合わせるといった行動をする人もほとんどいなかった。  花村は丁寧な手つきでご遺体に触れている。 「この方は循環器系の疾患をお持ちですね。原因はそれです。隣県にご家族の方がいらっしゃるはずですが、ご連絡は?」 「発見したのが息子さんなので、連絡はついています」  「そうですか。ご遺体に、特に不自然な点は見当たりません。司法解剖は必要ないでしょう。息子さんに返してあげてください」 「わかりました。ご家族の方にもそう伝えておきます」  花村はもう一度、ご遺体に手を合わせてから部屋を退室した。    検視が無事終了し、午前三時ごろである。  静は花村を送り届けるためにパトカーを運転していた。 「なんで、故人の家族が隣の県にいることを知ってたんだ?」  後部座席の花村に対して話しかける。  検視を見ていて、不思議に思ったことだった。 「あの方を一度だけ、診察したことがあるんだ。心臓に病を抱えていて、週一で通院するように進言したんだけど、足が悪くて遠いからって断られてしまって。だったら往診するって言ったんだけど、こんな遠いところまで来てもらうのは先生に悪いって言われてしまったんだよ。入院も嫌がっていたし」  バックミラー越しに花村の顔を見れば残念そうな顔をしていた。 「今度、病院に来てもらった時にもう一度、入院を勧めるつもりだったんだ。残念だよ。せめて週一で診察できていれば、もう少し延命できたのかもしれないから」  そうか、と一言返して、静は前を向く。 「僕はね、こういうことを少しでもなくすためにここに帰ってきたんだ」 「こういう……」  一瞬、間が空く。花村はゆっくりと口を開いた。 「過疎地域の医療崩壊を防ぐことだよ。僕が生まれ育ったこの地域は今、医療面において危機的な状況に瀕している。圧倒的に医師や病院の数が足りない」   静の脳裏に炎天下の中をおぼつかない足取りで、遠い病院へと歩いていった山田の姿が過った。 「もっと頑張らないとね。この地域のために僕は何かできることをしたいんだ」  花村が持っている『この地域のために何かできることをしたい』という思いは、静と同じ類のもののように思えた。  それに気がつくと、何だか親近感が湧く。今日の検視の時の態度や最近の家事を頑張っていることも思い出してくる。 (やっぱ良いやつだな……)  迎えに行った際、寝ぼけた花村にキスをされ、押し倒された際、思い切り腹を蹴り飛ばしてしまった。  静はやりすぎてしまったかも、という心境になってくる。しかし素直に謝罪するのも何だか釈然としない。 「あー、なんていうか真面目に色々考えてるんだな」  そう言って静は一度、口を閉じた。 「ちょっとだけ見直した。すごいよ」  言い終えると、何だか緊張してきた。気恥ずかしさで顔が赤くなる。  これ以上は言葉が出そうになく、花村の返答を待つ。  しかし何も返事は来ない。静の予想では大はしゃぎして、ペラペラと一人で喜びと静への愛を語り出すのでは、と思っていたが、そんなこともない。  そっとバックミラーで確認する。  花村は完全に寝落ちていた。静の話は全く聞こえていないようだ。  赤信号だ。腹が立ち、静は思いりブレーキを踏んでやったが、花村は起きなかった。

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