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【8】-1

 清正に彼女ができたと、初めてそんな噂を聞いたのは、高校一年の時だった。五月の連休が明けて何日が経った頃、教室の隅を流れる会話で耳にした。  その日は清正がいないのを承知で上沢の家に行き、青いベンチに座ってぼんやりしていた。  何も考えないように慎重に心を殺して、アンジェラの花びらが散るのをいつまでも見ていた。  花の色は薄紅よりも銀色に見えて、世界には案外色が少ないのだと思って寂しくなった。  光に気が付いた聡子がテラス窓を開けて、黄色い琵琶の実をいくつかくれた。  その時から、光はなんとなく琵琶が好きではなくなった。聡子のせいではないし、琵琶にも罪はない。  甘く黄色い果実を食べなくなった自分を、今もどこかで申し訳なく思っている。  薔薇企画を出た光は、コインパーキングに停めたクルマに乗ると、運転席でしばらくぼんやりしていた。  それからふと、時間はまだかなり早いけれど汀を迎えに行こうと思った。  汀の保育所は薔薇企画の本社からわりと近い。上沢に帰ってまた迎えに来るよりも、今日はこのまま汀と帰ってしまおうと思った。  駅に隣接するビルの地下駐車場にクルマを入れ、地上に出て広い通りの向こうに並ぶビルを眺めた。  ペデストリアンデッキを囲むのは幹線道路や商業施設ばかりで、近くに公園や緑地などはない。葉を落とした街路樹の銀杏だけが季節の移り変わりを教えていた。  排気ガスの混じる冷たい空気を吸い込みながら、高い場所にある窓を見上げた。  汀の保育所があるのは四階で、高所にある窓は安全のために全て嵌め殺しになっている。  エレベーターを降りて、ホールの先にある強化硝子の扉を開ける。正面の椅子に腰かけていた女性職員が、唇の前に指を一本立てた。  昼寝の時間なのだ。  半透明のポリカーボネートで仕切られたスペースに、カーテン越しの鈍い光が差している。いくつも連なる小さな山が健やかな寝息を立てていた。  薄明りに包まれた室内は、水の底のように青く静かだった。  マスクと眼鏡を外して会釈をすると、職員は怪訝な顔をした。だが、すぐに合点したように頷き、口元をほころばせた。  席を立って、仕切りの向こうの毛布の山の一つにそっと近付いて優しく触れる。  抱き起された汀が、半分眠りかけた目をこすってこちらを見た。光の顔を確認すると、嬉しそうに両手を伸ばした。  職員に何か聞かれて大きく頷いている。  ほかの子どもを起こさないように、職員はゆっくりと抱き上げた汀を運んできた。静寂が支配する室内で、無言のまま頭を下げて小さな塊を受け取った。  半分眠ったような汀は少し重かった。  硝子の扉を出てエレベーターを待ちながら、ふわふわした髪に囁いた。 「眠いか」  返事をする前に汀はことんと光の肩に頭を預け、寝息を立て始める。額にかかる髪が湿っていて、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。  リュックごとコートの中に抱いて、冷たい空気の中を駅まで戻った。  クルマに乗せ、チャイルドシートの上から毛布を掛けると、汀は一度目を開けかけたが、すぐにまた寝息を立て始めた。  三十分ほど走って上沢の家に着いた。  ぐっすり眠ったからか、汀は機嫌よく目を覚ました。

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