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【8】-5
コートを脱がせた手が、迷うように光のシャツの上を彷徨った。なぜか心臓がドキドキし始めた。
「なんでも片付けるのはいいけど、外に出る時に羽織るものくらいどこかそのへんに置いておけよ。汀の上着が押し入れにあるんだから、一緒に仕舞っておけばいいだろ」
「だって……、平気だし……」
「平気じゃない」
昔から頓着しないで薄着で過ごしているせいか、光は案外丈夫なのだ。
それでも、不用意が過ぎれば、やはり風邪はひく。それを知っているから、清正はたまに、過保護なくらいうるさく光をかまうことがあった。
「汀のほうが、よほどしっかりしてるだろ」
「汀が心配なくても、前の職場に戻らないのか?」
「心配があってもなくても、なるべく一緒にいたいんだよな、俺が……」
汀が可愛いから。汀の存在が負担になって仕事ができないのではなく、単に清正が、少しでも長く汀といたいだけなのだと言う。
「研究開発は面白いだろうなと思う。でも、例えばおまえみたいに、本当に好きなことを仕事にしたって言えるほど、強い気持ちがあるわけでもないんだよ」
「でも、何か作るのは面白いだろ?」
当然のように聞くと、清正はふっと笑った。
「そうだな」
研究開発の部署を希望する者は多いと聞いている。そこは何かを作りだす部署なのだろうと光は思っていた。
清正も何か作るのは好きなはずだ。せっかく戻れるチャンスがあるなら、無駄にするのはもったいないのではないかと思う。
「まあ、もう少し考えるよ」
清正が光の髪に指を絡めた。
見下ろしてくる目の中に迷う色が浮かんで、不思議に思って見つめかえした。
「光……」
ふいに顎を持ち上げられて息が止まる。清正の顔が近付く前に、慌てて胸を押し返していた。
ドキドキと鳴る胸を押えている間に、清正は何でもない様子でキッチンに行ってしまった。
背中を向けて、冷蔵庫から取り出した皿をレンジに入れて温めて始める。
今、何が起こりかけていたのか、光にはよくわからなかった。
清正の態度は、もういつもと変わらない。
その背中を見ているうちに、なんでもなかったのだ、ただの気のせいだったのだと自分に言い聞かせた。
起こるはずのないことに驚くのはおかしい。
椅子の背に掛けたコートを、なんとなく手に取って畳む。そうしながら、他愛のない話を探して会話を続けた。
汀を公園に連れていったこと、まわりの親子連れに緊張したこと、汀は型抜きがうまくて、ほかの子どもと仲よく砂遊びをしていたこと……。
そのどれにも、清正は興味を示し、楽しそうに耳を傾けていた。
家族の次に近い場所に、お互いがいるのを感じた。その関係を壊したくないと思った。
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