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【9】-3

 駅を出て上沢の家に戻ると、洗濯と掃除を済ませてパソコンに向かった。  いくつかの仕事を納品できる状態まで仕上げ、細部の微調整を重ねているうちに、気付くと昼を回っていた。  メモに「忘れずに、必ず食べること」と書かれた弁当を一人で広げる。同じものを清正と汀も食べているのだと思うと、なんだか不思議だった。  甘い卵焼きを口に運びながら、弁当を持っていったのだから清正は社内で食事をするのだと考える。  今日の昼は松井に会わないということだ。  だからどうだというわけではないが、なんとなく、「よし」と力を込めてミニトマトに箸を突き刺した。  そろそろコンペの準備をしなくては間に合わなくなる。  けれど、ふだんならすぐに浮かんでくるアイディアが、どこかに隠れてしまったように全く出てこなかった。  成功への足掛かりになるとか、ロイヤリティが大きいとか、そういうことがプレッシャーになることもあるだろうが、それらに興味のない光の場合は関係ない。  アイディアが浮かばない理由は別にあると考えたほうがいいだろう。  作りたいものが見えないのは、どこかで自分をごまかしているからだ。 「ごちそうさま」  手を合わせて弁当を片付け、庭の青いベンチに向かった。腰を下ろして、指をそっと唇に当てた。  なぜだか泣きたい気持ちになった。  開けてはいけない心の扉に、小さな隙間ができる。  恋……。  恋をテーマにした作品を作らなければならい。  膝の上のスケッチブックを開き、ゆっくりと目を閉じた。  五月の庭に零れるように咲いていたアンジェラ。その花の下の青いベンチが瞼の裏に鮮やかに浮かぶ。  胸に甘い痛みが走る。  その痛みに、名前を付けてはいけない。  ――名前を、付けてはいけない。  あの日と同じ言葉が、開きかけた心の扉に再び鍵をかけた。  名前を与えてしまったら、清正のそばで生きることが苦しくなる。清正を失えば、光は生きられないのに……。  生きられない。    瞼を開くと冬の弱い日差しを受けて、色彩の乏しい庭が横たわっていた。光は無言でスケッチブックを閉じた。

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