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【10】-1
翌日も作業時間は夜に回すことにして、昼寝の時間の前に汀を迎えに行った。
前の日と同じ公園に行き、顔に笑みを張り付けて母親たちに会釈し、汀が遊ぶのを見守った。
型抜きという特技が自信を与えているのか、最初のように不安そうな様子を見せることもなく、汀は元気に動き回っている。
夕方になると、仲良くなった子どもたちに手を振って家路についた。
たっぷり遊んだ満足感と疲労とで、夕食を終えて風呂から出ると汀は早々に舟をこぎ始めた。
「汀、もう寝るか?」
「ん……。ひかゆちゃんも、ねんね……」
しがみついてくる身体を抱き上げて、清正と汀の寝室に運ぶ。
「なあ汀、新しいリュック、作ってやろうか」
「……りゅく?」
「うん。保育所に行くときの、かばん。いる?」
「おかばん……」
セミダブルのベッドの壁際に汀を下ろすと、「おかばん、いゆ」と、半分寝言のような答えが返った。
その返事に満足し、汀が寝息を立てるまでゆっくり背中を叩いていた。
横になっているうちに光の瞼も重くなる。二日も続けて慣れない気配りをしたせいか、なんだかひどく疲れていた。
息を吸うと清正の匂いがした。
幸福な気持ちと切なさとが混じったような、甘い痛みが胸の奥で疼いた。
瞼の裏にきらきらと眩しい初夏の日差しが瞬く。
明るい光の中で淡いピンク色の花びらが舞っていた。
アンジェラ。五月の庭は楽園のようで……。
――十五の春。
もしも、あれが夢でなかったのなら……。閉じていた心の扉がゆっくりと開いてゆく。
眠ったままだったのか、眠ったふりをしていたのか自分でもわからない。
だから、夢なのか現実なのかもわからなかった。温かい手に頬を包まれて、それが清正の手だとわかって嬉しくなった。
それから……。
キスをした。
ふいに触れた唇の意味を理解できず、動くことができなかった。
心臓は壊れそうなほど大きく鳴っていたのに、身体はまるで痺れたようで、目を開けることさえできず……。
ゆっくりと清正の気配が離れていった。
明るい日差しの下で目を開け時、光は一人だった。
静かな午後が横たわるだけ。むせ返るほどの薔薇の香りと五月の日差しが、青いベンチの上に零れ落ちていた。
音もなく花びらが散っていた。
夢を見たのだと思った。
甘い胸の痛みから目を逸らし、心の奥の深い場所に隠して鍵をかけた。
かすかな息遣いとともに汀が寝返りを打った。体温の高い小さな身体から汗と石鹸の香りが立ち、目を閉じたまま汀の柔らかい頬に鼻先を触れさせた。
清正に……。
彼女ができたと聞いたのは、あの夢を見た直後だ。
だから、あれはやはり夢だったのだと光は思った。
清正は女の子と付き合う。当たり前のことだ。心の中で何度もそう繰り返した。
しょっちゅう誰かに告白されていても、清正が誰かと付き合う日がくるとは、なぜか考えていなかった。
清正は女の子に興味がないのだと、勝手にずっと思っていたのだ。高校生にもなればみんな変わるのだと、そんなごく普通のことに気付かずにいた。
光は変わらなかったから。
いつまで経っても、黙々と何かを作り続けるだけだったから。
最初の彼女とはあっという間に別れ、清正はいつの間にか別の誰かと付き合い始めていた。その後も、すぐにまた違う名前の誰かが隣を歩いていた。
清正は女の子にモテるし、次々といろんな子と付き合う。でも、すぐに別れる。
少しずつ、光はそれに慣れていった。
一度清正の彼女になった人たちは、別れた後は清正から遠いところに行ってしまった。友だちでもクラスメイトでもなく、見知らぬ他人になってしまったのだ。
あの人たちはそれでよかったのだろうかと、光は時々考えた。
一時的な歓びと引き換えに永遠に清正を失うことになっても、彼女たちは耐えられるのだろうかと。
光には無理だ。
男の光が清正を手に入れることはないだろうけれど、たとえあったとしても、いつかもっと遠くへ離れていくのなら、手に入れたくないと思った。
清正を失ったら生きられない。
清正に何人彼女ができても、友だちのままそばにいると決めた。
胸の痛みに名前は付けず、心の扉に鍵をかけて。
朱里との結婚を知った時、光の心は麻痺していた。
胸の痛みを感じた記憶もない。
それなのに、昨日、松井と一緒にいる清正の姿を目にした時、忘れていた痛みが錐のように胸を貫いた。
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