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【14】-3

「誰かいるのか?」  警戒しながらサンダルを履き、テラスドアから外を見た。  花の香りとは別の、濃い香水の匂いが漂ってきた。そこに立つ思いがけない人物を見て、光は目を見開いた。 「淳子、チーフ……?」  なぜここに松井がいるのだだろう。軽く睨むと、顔に笑みを貼り付けて松井が言った。 「最近、七原さんに会えなくて、近くに来たついでに寄ってみたんだけど」  帰りの電車で時々会うことがあると、確か清正が言っていた。  それなら家が近いのかもしれないが、だからと言って訪ねてくるのはやはりおかしい。  付き合っているという噂は誤解だった。清正は光のことで探りを入れていただけで、それも今は棚ざらし状態だ。  正直、松井の存在自体すっかり忘れていた。 「何の用で……」  光が問いを発するより先に、突然、汀が「ぎゃあ」と泣き出した。 「汀、どうした!」 「お、お、おしゅな……けーき、みぎわの、……っ、う、うわぁあん」   汀が指差す先を見て、光は息を止めた。  砂場の縁で三段ケーキが無残に崩れていた。  ひい……ひいい……っと、ひきつけでも起こしそうに呼吸を荒くして、汀は全身で泣きじゃくっている。 「汀……」 「おしゅな……、おしゅなが……」  抱きしめて背中を撫でたが、慰める言葉など見つからなかった。「大丈夫だ」とも、「泣くな」とも、とても言う気になれない。  汀の苦しさと辛さは痛いほどよくわかるからだ。  松井の靴を見て、光の頭は怒りでいっぱいになった。 「なんてこと、するんだよ!」 「何よ。私は、何も……」 「汀の砂だよ! 壊しただろう!」 「す、砂……? 何を言ってるの?」 「ここにあった砂のケーキだよ。おまえが壊したんだろう」 「え……?」  本気で混乱した松井があたりを見回す。崩れた砂の山に気付いて、ようやく何を言われたのか理解したらしかった。  自分の靴を見下ろし、顔をしかめた。 「嫌だ。靴に砂が……」  怒りが限界を超えた。  汀を下ろして、松尾の前に立った。  自分の目より少し高い位置にある、濃いつけ睫毛に囲まれた目を、氷かナイフのようだと評される色素の薄い目で睨みつける。 「ふざけるな……」 「な、何?」 「あんた、自分が何したかわかってんのか?」  本当の意味で自分のしたことを理解しているのかと、聞きたかった。  ここにあったのは、汀が納得して完成させた砂のケーキだった。汀が魂を込めて作った「作品」だった。  汀は、妥協していなかった。  頑張って作ったから少し端が崩れていてもいいとか、二段までできたからそれでいいとか、そんなことは一度も考えていなかった。  完璧で、どこにも欠けたところのない三段の型抜きを、ただ成功させたい一心で手を動かしていた。  そんなふうして完成した三段タワーの砂のケーキを、光は見たかった。ただ見たかったのだ。  きっと美しいに違いないと、信じていたから。 「人の作ったものを壊しても平気でいられる。そんなあんたに、モノが作れるわけないんだよ」 「な……何なの、急に」  松井を睨みつけたまま、短く吐き捨てた。 「死ねよ。このクソババア」 「ひ、ひかゆちゃん……」  言葉の汚さに、汀が怯えたように光のセーターを掴んだ。「ごめんな」と、松井にではなく汀に謝って、その手を握った。    驚いて泣き止んだ汀を見下ろし、またひどい言葉を聞かせてしまったなと思って、心が痛んだ。 「相変わらずわけのわかんないことばかり言って……。七原さんがいないなら、私、帰るわ」  踵を返してアプローチに向かう松井に、「待てよ」と怒鳴った。

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