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【20】ー1

 大学を卒業してから五年も暮らしてきたマンションに、光は久しぶりに戻った。  少し広めの1DK。毎日のように上沢の家から通い、行き来をして、ものを運んだりここで作業をしたりしていた。  だから、少しも久しぶりではない。  なのに、五年も住んでいたはずの自分の家は、どこかよそよそしく落ち着かなかった。  必要なものは全部揃っている。  それでいて、足りないものがたくさんある気がした。  庭を訪れる鳥の気配や、風に揺れる葉の音、自分以外の人間が立てる細かな生活音。光を呼ぶ汀の声。  清正の声。  優しい目と長い腕と広くて温かい胸と……。  光に触れる指先と唇……。  全部足りない。  一人が寂しいなんて思ったことはなかったのに、一人でいると何をしていいのかわからなくなっていた。  何をしても楽しくなかった。  生きていることが、ふいに無意味に思えてくる。そうかといって死にたいわけでもない。  ただ漫然と決まった暮らしの手順を繰り返し、カレンダーに書かれた仕事の予定だけを追いかけるようにして過ごした。  中身のない薄っぺらな時間は、風に飛ばされるスーパーの買い物袋のように呆気なくどこかへ流れ去ってゆく。  仕事の依頼は次々来るので、それに没頭している間は無心で手を動かしていればよかった。  期日が来れば依頼されたデザインを納品する。  次の仕事も、その次の仕事も、同じ熱量で淡々とこなし、手を抜いたつもりはなかったけれど、そうして作ったものがいいものだったのかダメだったのか、光にはわからなかった。  コンペの作品を提出したはずだったが、いつ出したのか、あるいは出さなかったのか、記憶が曖昧で、これもよくわからなくなっていた。  光の中にあった一番綺麗なもの、一番美しいものを形にしたはずだった。  なのに、あれは誰のために、何のためにあったのか考えると、それもまたわからなくなるのだった。  光の真ん中でいつもキラキラしていた五月の庭、零れるように咲いていた薔薇の花。  それがみんな散ってしまったかのような、空っぽの数週間が過ぎていった。  もう清正や汀には会えないのかもしれない。  ぼんやりとそんなことを考えて、そうするとほかのことが何も考えられなくなった。  いつの間にか三月になり、その三月も半分が過ぎようとしていた。  春の気配が周囲を包んでも、光の心は何も感じることができなかった。  そんなある日、光のスマホに清正の名前が表示された。  ラインやショートメールではなく、音声電話の着信だ。  心臓がドキリと跳ねて、少しの間出ることができなかった。何を話せばいいのか、何か話せるのか、考えると怖かった。  それでも、清正の声が聞きたいという気持ちが勝った。 「……もしもし」 『光か!』  切羽詰まった声が耳に飛び込んできて、何かあったのだと思った。 「どうかしたのか?」 『汀がそっちに行っていないか』 「汀?」  来てない、と答える間に心臓が早鐘のように打ち始める。 「だって、一人で来られるわけないだろ。どうした? 何があった?」 『汀が、いなくなった』

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