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絶望 6
ありがとう、と。
オレがそう告げた後、雪夜さんの表情が微かに変わった。長めの前髪に隠れた瞳、煙草を持つ手が口元を隠している横顔だけれど。
平常心を貫こうと、オレを優先しようと努力する雪夜さんが徐々に崩れていくみたいだった。
ぐっと奥歯を噛み締めているのか、雪夜さんの首に薄らと筋が浮く。
傍にいるのに、目の前にいるのに。
オレの雪夜さんがとても遠くにいるように感じるのは、今の雪夜さんがオレの知らない顔をしているからなんだろう。
雪夜さんが今、抱いている感情に名前を付けてあげることができないくらい、雪夜さんはきっと自分自身を恨んでいる。
「……やっぱ、俺はあん時死んでおくべきだったのかもな。こんな野郎に感謝なんてすんじゃねぇー、お前が汚れちまうだろ」
「雪夜、さ……」
あの時って、何のことだろう。
それを雪夜さんに問い掛けようと声を出したオレは、結局雪夜さんに質問することが出来ないまま俯くだけだった。
常に心が安定している人間なんていない。
完璧で完全な人間、いつでも正常な判断ができる人間なんてこの世には存在しない。人は、死ぬまでずっと不完全で未完成だ。
大人になったら、歳を取ったら。
正しい思考を持ち合わせて生きていくことができるんじゃないのかなって、オレは思っていたけれど。
不安定な人間が創り出した常識や法律は、全てが正しいものではないのかもしれない。間違いや過ちだって世の中には沢山あるし、大人だから正しい判断ができるとは限らない。
でも、己こそが正しい人間なのだと……人は心の奥底で、不安定ながらも絶対的な意志を持つ生き物なんだ。だからきっと、信念のようなものがオレたちの心の中で渦巻いていて。
それが壊れてしまった時、オレたちはどうしようもない不安と恐怖に襲われることになるから。
今の雪夜さんは、壊れてしまう一歩手前なんじゃないかって……そう思ったオレは、雪夜さんに告げる言葉を探していく。
「どんなことをしていたとしても、オレや雪夜さんの過去は変えられません。でも、だからこそ肝心なのは、雪夜さんが今後どうしたいかだと思います」
「星……」
「オレは、この先も雪夜さんと一緒にいたいです。だけど、オレの意思だけでそれを現実のものにすることはできません。雪夜さんがオレとの未来を望まない限り、オレは雪夜さんの傍にいることができないんです」
「俺だってお前と一緒にいてぇーよ、その気持ちは変わらない……けど」
確信が持てない情報に踊らされて、オレの雪夜さんがこんなふうに悩んでしまっている事実は正直かなり憎い。何をどう憎めばいいのか、誰を恨んで、妬んで、この感情をぶつければいいのか分からない。
……けれど。
どんな過程であれ、産まれてきた子供に罪はないから。
心は枯れていく一方で、オレがどれだけ強がろうと足掻いても生きた心地はしないけれど。
「オレは、オレにはっ……欲しくても、どれだけ願っても祈ってもっ、得られない幸せ……ッ、だ……から。もし、もしも本当にその生徒さんがっ、雪夜さんの子供だったら、オレは、オレっ……」
取り乱しくはないのに、思いを声に乗せる度にオレが死んでゆくみたいに言葉が出なくなる。
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