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 デスクの上にうず高く積まれたファイルに囲まれるようにして、俺はパソコンの画面を食い入るように見つめていた。マウスを握る右手は薄っすらと汗ばんでいる。 「――最近の小原さん、何かに憑りつかれたように仕事してるけど大丈夫?」 「プライベートで何かあったんだろ。例えば……ろくでもない女にひっかかって貢がされたとか」 「あ~。それは凹むわぁ……。無駄にプライド高いからショックもデカいよなぁ」  人の陰口というのは原則として本人の知り得ない場所でするものだろう。  だが――。  信頼すべき同じ営業部の同僚たちときたら俺の真後ろで、これ見よがしに大声で話している。  陰でコソコソと言われるのは好きじゃない。でも……これはいくら何でも頭にくる。 「――おい。お前ら、聞こえてるぞ」 「え?聞こえちゃってました?」 「マジかよっ!お前の声が大きいからバレたじゃねーか」 「えぇ!私のせいっ?それって酷くない?」  つまらないお笑いコントのようなボケの応酬。それを切羽詰まっている俺の背後でやらかしているこいつらって一体……。 「――俺の後ろに立つな」 「うわっ!小原さん、ついに暗殺まで請け負っちゃうようになったんですか?」  某有名コミックスの主人公の名セリフに気付いた田口が本気とも取れる様なリアクションをする。  前々からお調子者だと思っていたが、やはり俺の見立ては間違ってはいなかった。 「マジ、殺すぞ!」 「こわ~い!小原さん、本気っぽいですよ、それ……」  栗色の長い髪を指先でグルグルと巻きながら、笑いを堪えつつ怯える小林は今日も無駄に化粧が濃い。  そんな彼女の横で細いフレームの眼鏡のブリッジを押し上げて俺のパソコン画面を覗き込んでいるのは今井だ。 「――ところで、何をそんなに真剣に調べているんです?その……Sシステムって契約狙ってるところですよね?担当、小原さんでしたっけ?」  今井が落ち着いた声で問いかける。バカな事を言って盛り上がっていた割にはこういうところは見逃さない。 「あぁ…。面倒な案件引き受けちまったなぁ~と後悔。現契約してる別会社が厄介なんだよな」 「契約が切れるタイミングでうちが乗り込むってヤツですか?でも、今までの実績ってのもあるし、何より継続契約の方が企業としては楽ですからね。新規に別会社と契約するってあまり聞かないですもん」 「そこをあえて……だとさ。ここのところ営業部の業績も伸び悩んでるし、部長は上からグチグチ言われているらしい」 「それで、小原さんに?どんな契約でも取り付ける百戦錬磨の男ですからね」  田口が茶化したように言うが、あえて否定はしない。  この営業部で唯一、毎期ノルマを達成しているのは俺だけなのだ。  使えない社員は切り捨てる企業。その営業部の面々のクビを繋いでいるのは俺と言っても過言ではない。  仕事なんて適当にやっていればいい……。そう思っていた俺がこれほど真剣に仕事に取り組んでいるには理由があった。  それは――あの夜の事を忘れるため。  海斗に犯された俺は自分の持ちうるすべての自信を失った。それだけじゃない。  仕事だけでなく遊びも百戦錬磨だったはずの俺のペニスが勃たなくなってしまったのだ。  それに気づいたのは海斗と別れて数日後の事だった。  忘れると決意しても、どうしても残っていた海斗の面影を消すことが出来なかった俺は行きつけのバーで一人で飲んでいた女性をナンパした。  海斗のこともあってしばらくは男と接触したくないと思い、あえて女性に声をかけた。  他愛のない話で盛り上がり、いざホテルへ。  ここまでは自信喪失していた俺にしてみれば上出来だと褒めてやりたいほどスムーズで、思ったより海斗のことなど気にしていなかったのかもしれないと内心喜んだ。  しかし、いざベッドに入った途端、俺は自分のメンタルの弱さを呪った。  一人で飲んでいる事が不思議なくらい、彼女は綺麗でスタイルも良く、性格も全く問題なかった。  お互いに一夜限りと割り切っての大人の付き合いをよく理解してくれてもいた。――が、何度扱こうが、彼女がフェラチオをしようが俺の愚息は勃ち上がることはなかった。 (勃て~っ!勃つんだぁぁぁ!)  心の中で何度叫んでも全くと言っていいほど反応しない。不安げに見つめる彼女の視線にさらに焦りが増し、俺の精神状態は崩壊寸前だった。 「小原さん、疲れてるのかもしれないわね……」  同情と嘲りが入り混じった彼女の声が静まり返った部屋に響いた。  その数十分後、俺に気を遣ってか小さなため息を零しながら部屋を出て行く彼女の後ろ姿を見送った。  まだ糊のきいたシーツ上でバスローブを(はだ)けたまま、ピクリとも動かない自分のペニスをじっと見下ろしていた。  恐る恐る右手を添えて少し強めに上下に扱いてみる。  しかし、皺が寄ったままの表皮は張り詰めることはなかった。  がっくりと肩を落として項垂れる。 「――マジかよ」  しばらく動きを止めて目を閉じていると、あの天使のような海斗の笑顔が浮かんで慌てて頭を振った。  ヒクン……。  彼の顔が脳裏に浮かんだ瞬間だけ、それらしい動きを見せる愚息に腹が立ってくる。 「お前さぁ……何が言いたいんだよっ!俺は忘れたいの!黒歴史なんだよっ」  下生えの上でくったりと力を失くした愚息に怒鳴ってみるが、彼からの返答はない。  自分のペニスに向かって訴えている姿は、他人には絶対に見せられない。  いや、こんな状況になった事が一度もなかっただけに困惑しかない。 「――病院、行こうかな」  自分がED(勃起不全)だとは認めたくない。彼女が言う通り、仕事の疲れやストレスから来ているかもしれない。とにかく一度、病院に行ってみようと決意した。  自分のマンションからかなり離れた場所にある病院をチョイスし、顔見知りに見つからないようにと気を遣ってまで行った病院でも原因は分からないと言われた。  おそらく精神的な事だとは言われたが、俺はその原因に心当たりがあるということを伏せていた。  いくら相手が医師だと言っても、男に――しかも就活中の大学生に、薬を盛られて犯されただなんて言えるはずがない。  カウンセリングを含めしばらくの通院を余儀なくされたが、あれから数ヶ月経った今でも改善の様子はない。  何より困っているのは自慰でさえも勃たないということだ。定期的に出さなければいられない男の性を完全に無視するように、俺の中には悶々とした性欲だけが蓄積されていった。  それを別の物にぶつけることでしか解消出来なくなってしまった俺――。  マウスを握る手に力が入る。 「――あ、そう言えば今年も新入社員が十名ほど入るみたいよ?去年みたいに半年経たないうちに半分以下になるってことないよね?なんだかんだ言ってどの部署も人手不足なんだけど」 「少数精鋭って会社のやり方だから、それは仕方ないんじゃない?」 「そうだけど……。来週あたりから入社前の研修が始まるって言ってたから、営業部からも誰か選出しろって言われるわよ」 「俺、パス!今、抱えてる案件でいっぱいだから」 「わたしもぉ~」 「あ、俺も……。小原さんは?」  パソコンの画面から視線を外し、ゆっくりと肩越しに振り返る。  そして未だに背後でワイワイと騒いでいる三人を思い切り睨みつけた。 「見りゃ分かるだろ!ってか、さっき忙しいって言った」  唸るように言った俺を冷めた目で見下ろしたのは今井だった。クールな眼鏡の奥の一重が更に細められる。 「――っていうか、さっきから全然進んでないですよね?そのデータ入力……」  ビクッと肩を震わせて、ストレートすぎる指摘に身を強張らせた。  今井の鋭い突っ込みに笑って切り返す余裕は、今の俺には残っていなかった。 「お前ら、世間話するんなら他所に行け……」  大声を張り上げる気力もない。八つ当たりだってことも重々承知だ。ただ、俺が抱えている悩みは彼らが思っているより大きく根深い。  今は、ちょっとだけでいい。そっとしておいてほしい……。 「ホント、おかしいわよ……」 「あの噂ってホントなのかな……」 「噂って?」  俺の半ば縋るような願いを聞き入れてくれたのか、三人は俺のデスクから少し離れたところで立ち止まって小声で話している。  すぐ後ろにいるよりはマシか……と諦めかけた時、何気なく耳に入った田口の声に俺は完全にフリーズした。 「――EDだって噂」 「は?マジで?あの夜の狩人が?」 「だから噂だって言ってるだろ。しーっ!聞こえるからっ」  ――聞こえてる。全部、聞こえてるよ。  あぁ……そうだよ。俺はEDだ。  夜遊びをし過ぎてバチが当たったんだ。  だから仕事をするしかないんだよ……。  三人の視線に気付いてゆっくりとそちらに顔を向けると、顔の筋肉を無理やり動かして笑って見せた。 (上手く笑えてるかな……)  俺の笑顔を見た三人はまるで幽霊でも見てしまったかのように青ざめて、無言のまま背を向けた。  こういう噂が広がっている場合、怒って弁解したほうがいいのか、それとも「冗談だろ」と笑い飛ばした方がいいのか。  そのどちらも出来ずに微妙な笑顔で彼らを見送ってしまった事を後悔した。  先程から一字も入力されていないデータ画面が、もう付き合いきれないとスリープモードに切り替わる。  パソコンにまで見捨てられた俺はこれからどうやって生きていけばいいんだろう。 「はぁぁぁ~~~」  声と共に吐き出した大きなため息の重さに頭が自然と俯いていく。  こんなはずじゃない。俺は――こんな男じゃなかったはずだ。  身体的な問題と言うよりも心の問題の方が大きい。このままではSシステムとの契約に真剣に取り組むことが出来ない。 「何なんだよ……これは。俺……どうなっちゃたんだよぉ」  フロアに誰もいないことを確認してから一人愚痴る。  今朝、ワックスで完璧にセットしたはずの髪はぐしゃぐしゃと乱れている。  仕事もプライベートも、実にスマートに難なくこなしてきたはずなのに……。  ぎゅっと拳を握りしめてボソリと呟く。 「カッコいい俺――どこに行ったんだよぉ」  今朝はいつもより少しだけ早く出勤した。  人が少ない時間に効率をあげて、規定就業時間をクリアしたらさっさと帰ろうと思ったからだ。  廊下に面して設置されたガラス張りの喫煙ルームで一人、ゆっくりと煙草を燻らせていると、総務部の人事担当者がいそいそと通過していった。  スラックスのポケットからスマートフォンを取り出して画面を見る。  スケジュール管理のためのカレンダーを眺めて「あぁ…」と声をあげた。  新規採用者の入社前研修が今日から始まると言っていた事を思い出す。  営業部のあるフロアのすぐ下の階には会議室や研修室がある。  ビジネス街の一等地に建てられた十五階建ての自社ビル内には、各部署にワンフロアが与えられておりレイアウトは部署内で使い勝手良く変えられる。  もちろん福利厚生施設も充実しており、一階にはコンビニエンスストア、二階にはカフェを併設した商談スペースが設けられている。  週末の夜になれば最上階にある社員専用の食堂は夜景を楽しめるダイニングバーへと変わる。  まさに飴と鞭だ。  仕事は厳しい。でもその反面社員を労う事を忘れない企業だからこそ急成長を遂げたのだろう。  こういう会社だから大卒の若者は憧れを持って入社を希望する。だが、その門は非常に狭いうえに、入社してからさらに厳しい現実を突きつけられ長く持たないのが現状だ。 「今年は十人か……。何人残るかな」  何気なく呟いて視線を伏せた時、廊下にいくつもの足音が響いた。  急にざわめき出したフロアに驚いたのは俺だけではなかったようだ。ガラス越しに何人かが廊下の方に顔を向けている。 「おはようございますぅ~!」  人事担当者の媚びるような挨拶が遠くで聞こえ、その後からバラバラと聞こえたいくつもの挨拶。  俺は煙草を咥えたままガラスに近づき、声がした方へ視線を向けた。  そこには大名行列さながらに若い男女を引き連れた担当者がいた。  喫煙ルームにいた俺に気付くと、バチッと音がするくらい派手なウィンクをして見せたのは、以前数回体を重ねたことのある澤田という女性だった。  その年齢ではもう限界だろう……と思われるほどのミニスカートでムチムチした足を晒しながら歩いていく。  顔は中の上ではあるが、如何せん男っぽい性格で俺の恋愛対象枠から見事に外れた。  体の相性はそれなりに良かったことだけは覚えている。  ガラスをコンコンと叩いて、真っ赤な唇で「おはよう♡」と言う彼女自身はきっと、この会社で一番セクシーだと思っているに違いない。  俺は苦笑いしながら片手をあげて簡単に受け流す。  そんな彼女の後から続いてきたのはリクルートスーツを着た――というよりも着られていると言った方がしっくりくる、何ともぎこちない動きの新入社員たちだった。  通りすがりに俺の方を見て頭を下げていく中で、たった一人だけその場に足を止めた者がいた。  落ち着いた茶色の髪に勝気な瞳。その視線に気づいた俺は煙草を咥えたまま何げなく視線をあげた。 「――は?」  吸いかけの煙草がポロリと床に落ちる。幸い落ちた衝撃で火は消えたらしく、カーペットタイルを焦がすことはなかった。  俺は自分の目を疑った。確かに早朝出勤で寝不足だったことは否定しない。 だが――ガラス一枚を隔てた向こう側にいるのは紛れもなく海斗だった。  服装はもとより髪の色や雰囲気は変わっているが、あの夜の彼を忘れるはずがなかった。 「海斗……」  その名を呟く唇が震える。  怒りなのか――それとも。  バリタチであった俺のプライドをことごとく打ち崩しEDにまでさせた張本人。  彼は少し驚いたような顔でこちらを見ていたが、天使のような唇に柔らかな笑みを浮かべた。  その笑みはどこかホッと安堵するようにも見えたし、獰猛な獣が探し求めていた獲物をやっと見つけ出したかのようにも見える。  今の俺には後者のように感じられ、なぜか背筋に冷たいものが流れた。 「守屋(もりや)くん、どうしたの?」  澤田がヒールの音も高らかに彼に近づくと、海斗の視線を追いかけるようにして俺の方を見た。 「――もしかして知り合い?」 「いえ……」 「営業部の小原恭輔。超雑食で男も女も容赦なく食べちゃう野獣だから、守屋くんも気をつけてね」  ――どの口が言うか!  澤田は自分の事を棚にあげてフンッと鼻をならした。  彼女も社内では有名な雑食家で俺と対等に張り合えるレベルの遊び人だ。  そういうところが俺を惹き付けたのかどうかは今になっては分からないが、セフレという関係を続けられていたことには違いない。  だが、今はそんな昔のことをノスタルジックに思い出している場合ではない。  スーツを着て新入社員担当の澤田と共にいるということは、どう考えても部外者ではないだろう。 「研修始まっちゃうからそろそろ行きましょうか?」 「はい……」  彼は長い睫毛を揺らして、俺に心ばかりの敬意を示すと澤田と共に去っていった。  俺の勘違いではなく、もしも彼があの時の海斗であるならば聞きたいことは山ほどある。  いや、無理矢理にでも問いただしてあの夜の真実を知りたい。  俺はお前に犯されたのか――と。  少し幼さを残す愛らしい顔つきはどう見てもネコであり、タチという雰囲気ではない。  しかしあの時、確かに俺は彼に突っ込んだ。彼の中は熱くて最高に良かったことを覚えている。  たとえリバだったとしても、俺がバリタチであると知っていたんだからネコとして譲歩すべきだったのではないか。 「嘘だろ……同じ会社とかっ」  新入社員がどの部署に配属されるのかはまだ決まっていない。  万が一、彼が営業部に来ることになったら……。俺のEDは完治することはないだろう。  この会社にいる以上、俺の性的快楽は完全に奪われることになる。  胃のあたりがきゅうっと締め付けられるように痛くなる。 「ヤバイ……」  EDの次は神経性胃炎か?  俺の体は確実にあの男に左右されているのだと気づく。  たった一夜の過ち……。 「責任、とれよ……っ」  どこかで聞いた言葉ではあったが、今の俺にはそれが何だったのかさえ思い出せる余裕はなかった。

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