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 俺は出社するなり、自分のデスクに通勤用のバッグを放り投げるように置き、椅子に腰かけると眉間に深く皺を刻んだまま頬杖をついてその動きを止めた。  同僚からの好奇の視線を感じてはいたが、動く気にも口を開く気にもならなかった。 「――おい、小原っ」  窓際のデスクの方から俺の直属の上司であり営業部長である村田の声が聞こえたが、返事をする気にもならなかった。 「小原さん、部長が呼んでますよ」  何の反応を示さない俺を不安に思ったのか、通りかかった小林がポンと肩を叩いた。  ふわっとフローラル系の香水が揺れて俺の鼻腔をくすぐったが、別段何を感じるわけでもない。 「うわぁ……機嫌悪っ!小原さん、何かあったのか?」 「さぁ…。さっきから難しい顔したまま動かないんだよね」  周囲が俺の異変に気付き始める。  機嫌が悪い時はあからさまに顔に出るタイプであることは皆周知の上だ。  しかし、今日の俺はいつにも増して機嫌が悪いと察したのだろう、八つ当たりに巻き込まれることを恐れた同僚は徐々に距離を広げていく。 「小原ぁ!おいっ!」  村田の声がフロアに響く。返事をしない俺に少々ご立腹のようだ。  このまま放っておけば周囲にも迷惑をかけることになる。  俺は重々しいため息をつきながら、渋々腰を上げると彼のデスクへと向かった。 「――どうしたんだ?出社するなり、お前、変だぞ」  村田は五十代で、もちろん妻子もいる。だが、その容姿は長身で端正でありながら甘めのマスク、毛量も十分すぎるほどある。そんなイケオジを女性社員が放っておくわけがない。  何かにつけて食事や呑みに誘われているようだ。普通、妻子がいる身であれば断るという選択肢しか存在しないと思うのだが、村田の場合はちょっと特殊で、来るもの拒まずでひょいひょいとその誘いに乗ってしまう。  そのせいで奥さんとの喧嘩が絶えず、先日などは実家に帰ってしまったと聞いていた。  つまり……“断れない男”なのだ。  それはプライベートだけではなく、仕事の場でも顕著に表れていた。  そもそも、現在継続的に契約している他社がいるというのにSシステムとの取引契約を横から搔っ攫おうなんて上層部が言い出さなければ、俺だってこんな負担を背負うことはなかった。  冷静になって考えればハナから無理な話だ。  それを役員会議で無茶ブリされ“断れない男”は文句一つ言うことなく営業部に持ち帰ってきたのだ。  イケメンで仕事は出来る。しかし、その優柔不断さがいつか足元を掬うであろう事を本人はまだ気づいていない。 「――そう、ですかね?いつもと変わんないですけど」 「どう見ても変だろ?ボーッとして座ったまま動かないし、俺が呼んでも返事もしない。何かあったのか?」 「いや……。別に」 「Sシステムのプレゼン資料の事か?」 「いや……」  ボソッと答えた俺を見上げた彼は身を乗り出すようにして小声で囁いた。 「――また、女と揉めたか?」  女――ねぇ。  それだったらいくつも修羅場を潜ってきた俺だから、対処するのは慣れたものだ。  だが、俺が今抱えているのは、そんな簡単に片付けられるような問題ではない。  腰が重い、体中が軋む、そして何より……尻の孔が痛い。  そう――俺はまた海斗に犯された。  しかも駅のトイレで……。  あの愛らしい天使のような顔に似合わない凶暴で長大な肉棒を俺の尻孔に容赦なく突っ込んだ。  今回は媚薬と睡眠薬入りのチョコレートを口にすることはなかった。   そのせいでリアルに彼を感じ、すべてを覚えている。  長年の相棒である自分の右手でも勃つことのなかった愚息は、後孔に突っ込んだ海斗の指使いでいとも簡単に勃起した。  あり得ないほどの蜜を垂れ流し、大小含めて数回イカされた。  そして、海斗の灼熱の奔流を最奥で受け止めた時、俺はあまりの快感に気を失った。  それからのことはあまり覚えていない。しかし、目を覚ましたのは海斗のマンションの寝室だった。  大学を卒業したばかりだというのに俺の住むマンションとそう変わらないレベルの部屋に息を呑んだ。  ベッドに横たわり混乱する俺を見下ろして「ごめんね、恭輔さん」と心から反省したような声で謝罪し、まるで恋人にでもするような優しいキスをした。  乾いた唇をゆっくりと湿らすように何度も啄んではチュッと音を立てる。  そのキスが心地よいと思ってしまった俺は自分を激しく責めた。  レイプされた上に意識を失い、部屋に連れ込まれた挙句甲斐甲斐しく世話をされたなんて……。  海斗という男は理解できない。  何が目的なんだ?俺を貶めるつもりなのか、それとも……。 「――小原?」 「あぁ……。すみません。今日中に資料を部長に回しますから」 「あんまり無理するなよ。最近、早朝出勤してるみたいだし」  俺はすっと目を逸らすと、頬を人差し指でポリポリとかきながら適当に応えた。 「人が少ないから集中出来るし……。それだけのことですから」 「それならいいんだが……。じゃあ、資料のデータは社内サーバーに入れておいてくれ。これから打ち合わせに出かけるから」 「はいはい……」  いそいそと外出の準備をし始めた村田に背を向け、自分のデスクに戻ろうとしてふと足を止める。  モヤモヤとした気分のままではいい仕事は出来ない。  今日は資料の見直しと補足部分の裏付け作業だ。外回りの予定もない。  デスクに張り付く前にコーヒーでも飲んでおくか……。  スラックスの後ろポケットに財布があることを確認して、俺はすぐ近くにいた田口を呼び止めた。 「田口っ」  ビクリとして肩を揺らした彼は、恐る恐る振り返った。  俺の機嫌を伺うように、オドオドとした目をゆっくりと向けた。 「は、はい?」 「あのさ、階下(した)のカフェで気分入れ替えてくるから、何かあったら電話くれるか?」 「は?」 「――何度も言わせんなよ。コーヒー飲んでくる」 「はぁ……。小原さん、最近マジで変ですよ。部長だけじゃなくてフロアのみんなが言ってるし。何かあったんですか?Sシステムの事だったら俺たちも何か手伝いますよ」  お調子者ではあるが、時には真面目で熱血な顔を持つ田口の言葉は嘘でも嬉しかった。  後輩ではあるが、彼の仕事ぶりには一目置いている。  いつもつるんでいる小林や今井も同様だ。普段はバカばっかりやっている連中ではあるが、こと仕事に関しては誰も妥協を許さない。自分が納得いくまでとことん向き合うところが俺に似ている。 「大丈夫…。もしかして心配とかしてる?この俺を……」 「当たり前じゃないですか!営業部のホープですよ?サポートするのは後輩の務めですから」 「――とりあえず“ありがと”って言っとく。お前の言葉がどこまで本心か微妙なところがあるからな」 「えぇー!何ですか、それ!俺はいつでもマジッすよ」  憤慨する田口に「分かった分かった」と適当に返しながら背を向ける。  傲岸で誰に対しても上から目線。プライドの高さはギネス級と自負している俺を慕う仲間がいる事に、半分歓喜し、もう半分は疑念を抱いていた。  何でも一人でやってきた。仕事も生活も……。  幼い頃から独立心が他人より強かった俺は高校に入ると同時に実家を出た。  兄がいることで実家の面倒を見ることはないし、自分のやりたいことをやってきた。  自分勝手で自己中心的と言われた時期もあったが、大人になるにつれてそれも武器になる事を知った。  下手にばかり出ていては相手に丸め込まれる。弱さを少しでも見せたら契約は取れない。  強気な姿勢で攻め込んでこその営業だと、自分のスタンスを崩すことなくやってきた。  そんな俺だから敵が多いことは知っている。  同僚だって言葉では俺を慕うが本心はどう思っているかなんて分からない。  きっと、面倒くさい男だと思っているに違いない。  自分でも――そう思っている。  いや、今は余計にそう思わざるを得なかった。  仕事に振り回されるのであればそれなりに腹は括れる。だが、一夜を共にしただけの年下男に翻弄され、体も精神も追い詰められているなんて……。  それを仕事の場にまで持ち込むなんて、本当に俺らしくない。 (俺らしいって……何だ?)  エレベーターの扉が開き、本社ビル二階にあるカフェに足を向ける。  広いワンフロアーすべてがカフェとなっており、入口の右側には半個室のように仕切られた商談スペースが設けられ、ガラスの壁で仕切られた左側は社員以外の一般客が自由に出入り出来るようになっている。  社員は主に右側のスペースに入る。そこには個室だけでなく開放的なカウンターとテーブル席もあり、仕事に煮詰まった時のガス抜きには最適な環境になっていた。  今ではすっかり顔馴染みになった女性スタッフが笑顔で迎えてくれる。俺が喫煙者だということを知っていて、奥の喫煙席へと案内してくれた。 「ホット……。アメリカンで」  彼女の顔を見るでもなく気怠げにオーダーだけ済ますと、俺は早々に煙草を唇に挟んだ。  始業開始からそう時間が経っていないせいもあり、商談スペースもフロアも閑散としている。  耳に心地いいボリュームを押さえたBGMを聞くともなしに聞きながら、煙を燻らせる。  関節が痛い…。腰が重怠い…。  ぼんやりとしていると、カチャリという音に気付き視線をあげる。 コーヒーがテーブルに置かれ、俺は小さく「ありがと」と短く言った。 俺に気でもあるのだろうか。頬をうっすらと染めて伏目がちに微笑んだ彼女は足早にサービスカウンターへと戻って行った。 少し前の俺だったら「今夜、どう?」なんて声をかけていたかもしれない。 男女関係なく手あたり次第に声をかけても、ほぼ一〇〇%の確率でOKを貰っていた俺。 それなのに今は、声をかけることも躊躇うようになっていた。 テーブルに片肘をついて額に指を押し当てる。 今朝の事を思い出すと、こめかみがわずかに痛んだ。 チャラいだけのガキだと思っていた海斗が、いつかの俺のように朝食を作り、しかもそれが俺以上に美味かったこと。 汚れたスーツをクリーニングして用意してあった事。もちろんネクタイは彼がチョイスした新品だった。 目隠しに使い、皺だらけになった――昨日と同じネクタイをしていれば社内の誰かは気付くであろうという気遣いは感謝に値する。 俺が朝帰りをしたという疑いを持たれないための心遣い。 目覚めのキス以降、別段イチャつくこともなく淡々と身支度を整えた海斗が先に家を出た。部屋の合鍵は今、俺のポケットに入っている。 セフレでもない、まして恋人でもない。そんな海斗のマンションからの出勤は複雑な心境だった。 俺は被害者だ。それなのに彼を責めようという気力がない。 それは昨日、手酷く犯されて体中の関節が悲鳴を上げていたということもあったが、それ以外の何かが俺を苦しめていた。 プライドを傷つけられたという怒りはある。それに精神的なダメージも。 だが、面と向かってそれを彼にぶちまけられるかと言えば、おそらく出来ないだろう。 フロアの皆が口をそろえて言う。 「お前、変だぞ?」  俺自身もそれは分かっていた。何かが変だ……。  それが何かが分からないから、こうしてイラついている。  コーヒーを啜りながら何度もため息を漏らしている事に気付く。  今は仕事に集中したい時期であるにも関わらず、それを押しのけるように海斗の顔がちらつく。  ダークブラウンの髪を揺らして優雅に微笑む天使の顔……。 「参ったな……。ペース、完全に崩されてる」  誰に言うでもなく呟いて、俺は煙草を灰皿に押し付けた。  数日後――。  体の痛みも心のモヤモヤも少しだけ癒えた頃、またもやエントランスで待ち伏せをされた。  スッキリとしたグレーのスーツと濃紺のネクタイ……実に好感度を与える。 「お疲れ様です!恭輔さん」 「――名前で呼ぶなって言ってんだろ」  立ち止まったら負けだと言わんばかりに歩くペースを上げていく。  振り切ろうとする俺を知ってか、海斗も怯むことなく並んで歩いている。 「一緒に帰りましょうよ」 「断る!」 「いいじゃないですか。あ、体の方は大丈夫ですか?」 「大丈夫じゃない!あんな酷いことしておいて、どのツラさげてだよ」  会社を出てすぐ近くの交差点で運悪く赤信号に足止めされ、俺は大きく舌打ちした。  隣りには尻尾をブンブンと音がするほど振りまくって何かを期待した目で俺を見る海斗がいる。  大型犬というには小柄で華奢だが、間違いなく犬っぽい。  発情したオス犬に盛られた……とは思いたくはない。そうなると自分がメス犬だと認めなければならなくなるからだ。 「――ねぇ、恭輔さん?」 「……」 「この前、渡した鍵……。あれ、俺の気持ちだから」  少し照れたように俯いて言った海斗を思い切り睨みつけると、俺は持っていた通勤カバンの中を探ってその鍵を見つけると、叩きつけるように海斗に渡した。 「返す。俺はお前の事なんか何とも思ってない。だからこれを貰う資格はない」 「え?」 「こう言うのは酷だって分かってるけど、お前は勘違いしてる。たった一晩ベッドを共にしただけで恋人ヅラされたんじゃ迷惑なんだよ。俺は遊びだった。それは出会った時に分かっていた事だろう?お前には興味はない。だから付き纏うな」  突き返した鍵をギュッと握りしめたまま、茫然と立ち尽くしている海斗の勝気な瞳が揺れる。  その目を見ないようにまるで逆側に視線を向けて、さらに追い打ちをかける。 「お前は本気かもしれないが、自分の片想いを押し付けるな。まったく関心のない俺にしてみたら迷惑なだけなんだよ……。この前の……トイレでの事は事故だと思って片付けてやる。――ハッキリ言う。これ以上俺に近づくなっ!」  ズキン……。  なぜだろう…胸が苦しい。奥の方がピリピリと痛む。  きっと、久しぶりに面倒な相手と対峙したストレスだろう。  こんなこと、今までに何度もあった事ではないか。俺の金に惹かれてしつこく交際を申し込んできたヤツを一刀両断する事なんて何とも思わなかったはずだ。  それなのに――どうして胸が痛む?  海斗は薄い唇をきつく引き結んだまま何も言わない。  間もなく信号が青に変わる。  その瞬間、俺と海斗の関係は完全に断たれるはずだ。  快楽だけを求めて一夜の相手として選んだ相手が俺であり、海斗だった。ただそれだけのこと……。  感情なんて何もない。あの時は“飼ってもいいかな”なんて思ったけど、まさかこんな面倒な奴だとは思ってもみなかった。  俺が息を呑むほどに、やけに落ち着いて余裕を見せていた海斗。  だから――割り切っていると思っていた。 「――じゃあな」  信号が変わると同時に人の波が動き始める。  様々な靴音に包まれるようにその場に立ちつくしたままの海斗を肩越しにちらっと見て、俺は足早に歩き出した。  長い横断歩道を渡り切り、振り返ることなく駅へと向かう。  日中の晴れ渡った空の余韻ともいえる爽やかな風が俺の頬を撫でていく。  この風に、あのダークブラウンの柔らかな髪を揺らしている海斗は何を思っているのだろう。  スラックスに片方の手を突っ込んでわずかに空を仰いだ時、つっと頬に冷たいものが伝った。 「――え?」  慌てて手を引き抜いて指先で頬を拭う。  しっとりと濡れた指先に俺は目を見開いた。  その瞬間、次々と溢れ伝う透明の滴に気付く。 「な…、何だよ……これ」  指先では拭いきれず、掌で乱暴に拭ってみるが、それは止まることがなかった。  歩道の真ん中で足を止めて交差点の方を振り返る。  そこに海斗の姿はなかった。 (また……罰が当たったのか)  勝気ではあるが素直な光を湛えた瞳を持つ天使を傷付けた罪は重い……。  EDの次に与えられた罰――それは俺にとって人生を揺るがすものだった。

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