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 二週間後――。 俺は額から流れ落ちる冷たい汗と、目の前に映し出されているプレゼン資料に意識を失いかけた。  Sシステムのプレゼンテーションは先方の本社ビルで行われた。  今まで継続的に取引契約をしてきたWワークスの営業担当者は余裕の表情で鎮座するなか、当社を含めた数社の担当者の緊張はピークに達していた。  広い会議室に円形に並べられた机。そこに座った各社はプロジェクターを使って細かな説明を行っていく。  営業は提案だけではない。それをすることでどう向上し、利益を上げていくかということを理解してもらった上で、今度は先方にそれを納得させなければならない。だが、プレゼンの最終目的はクライアントがそれを踏まえた上でどの企業を選ぶかという結果が重要なのだ。  契約先の企業が躍進しなければそれに追従する取引企業も衰退する。  縁の下の何とか……とはよく言ったもので、取引先によって左右される事業もある。  その事に重点を置いた今回のプレゼン提案書は完璧とも言えた。  海斗の事で自棄になった時もあったが、俺が作成した資料は上層部にも受けが良く、厳しい社長の承認も受けている。  他社に比べたら当社の提案は圧倒的に有利だと誰もが自負していた。  しかし――。  次は自社の番だと資料を見返しながら、Rホールディングの発表を聞くともなく聞いていた。  しばらくして感じ始めた違和感……。  それは俺だけではなかったようで、隣に座る村田も次第に落ち着きを失くしていった。 「――おい、小原。あれ……。あの資料って」 「え?」  プロジェクターに映し出された新規開拓の流通経路図には見覚えがあった。  視線を泳がせながら手元にある資料のページを手早くめくっていく。  そこにはカラーで印刷されたチャートがパターン別に記載されている。 「――嘘、だろ」  パソコンのマウスの操作によって次々と変わっていくスクリーンの画面。そこには手元の資料そのままの内容が映し出されていた。  これでは、俺がRホールディングの資料を完全コピーしたかのように思われてしまう。  プレゼン発表の順番は事前に通知される。何より内容が被っていたとしても、先に言ったもの勝ちなのだ。  原則的に内容が被るということ自体、独創性という点であってはならない事なのだが、テーマ範囲が少なければ他社と似たような表現はどうしても出てしまう。  しかし、この資料は”似たような“というレベルではない。 「小原……」  村田の声が幾分震えている。その声が酷く遠くに聞こえて、俺は自分の中で何かが壊れていくのが分かった。  この数ヶ月、身を削って取り組んできたプロジェクトが一瞬にして消える。  大手であるSシステムとの取引が出来ないとなると、当社としても大きな損害だ。  それを見越して組んだ予算もすべて水の泡となる。 「どうするんだ?今更、この資料は使えないぞ……」 「分かってます。分かってるけど……くそっ、どうすりゃいいんだ!」  ノートパソコンのデータを開き、せわしなくマウスを動かす。  とりあえずRホールディングが使った資料を削除して、持ちうる限りの提案書でこの場を乗り切るしかない。  しかし、円卓の上手に座るSシステムの採用担当者と専務、そして社長の目は厳しいものだった。  事前に先方に提出した提案資料に基づいて補足しながら説明をしていく。いくら口頭での解説がメインになるとは言え、その資料が手元にある彼らはもう気付いていた。 「部長……。このデータ削除しても、資料はもう先方に渡ってる。どうにもならないですよ」 「うむ……マズイな。これじゃあ、当社がRホールディングの資料をコピーしたと思われても仕方がないな」 「俺、そんなこと絶対にしてないですからね」 「分かってるよ。俺はお前を信用してる……。そんな事するヤツじゃない」  嫌な汗が額から流れ落ちる。背中にもびっしょりと冷たい汗をかいていた。 「――とりあえず、私から先方にキャンセルの旨を伝える。お前は会社に連絡しろ」 「連絡って……誰に」 「この話を持ち込んだのは柏崎(かしざき)専務だ。専務に連絡して指示を仰げ」  険しい表情の村田は身を屈めながら立ち上り、照明が消された暗い会議室をわずかな光を頼りに、Sシステムの担当者が座る席へと向かった。  普段は優柔不断で何事も決めかねる村田の決断は早かった。  それなのに、俺は――動くことが出来なかった。  あらゆる手段を講じSシステムに関する資料を調べ尽くした。起業当時の状況から上場に至るまでの経緯、それと同時に推移する業績と売り上げデータ。  インターネットや過去にSシステムを取り上げたビジネス誌や新聞、データバンクへの公開資料など……。  それを基にこれから培っていくであろう最良の方法を纏め上げた。  先方だけでなく当社の利益も考えた提案……。  村田の説明を聞いた担当者たちが皆、一斉に俺の方を見る。  その視線に耐え切れずに手元にあった資料をグシャリと掴んだ。  Rホールディングはそんな俺たちの慌てぶりに気付いたのか、天下を取ったような顔で解説を続けている。  頭が痛い……。目の奥がジンジンする。  息が出来ない。体中の感覚が鈍っていく。  肩で荒い息を繰り返しながら目をギュッと瞑った。  こめかみでドクドクと音が聞こえ、俺の精神状態はもう限界に近づいていた。 (もう……ダメだ!)  机の上に置いてあったスマートフォンを掴むと、俺は勢いよく立ち上った。  その場にいた参加企業の担当者の視線が俺に注がれる。  足早に円卓を回り込み、一瞬だけ村田の方を見た。  そして――。  重い出入り口のドアを押し開けると、俺は廊下を走り出していた。  俺は逃げた。  社運を賭けたプロジェクトと言っても過言ではなかったSシステムのプレゼンテーションの会場から逃げ出したのだ。  資料もパソコンも、もちろんデータもそのままで……。  上司である村田に何も告げることなく走っていた。  どこをどう歩いたのか全く覚えていない。  いつの間にネクタイを引き抜いたのかも記憶にないほど俺は混乱していた。  スラックスの後ろポケットに財布が入っていた事が唯一の救いだった。  今は遠くに行きたい。  このビジネス街の空気を感じることのない遠い場所……。  退職願いを出す前に、俺のデスクはなくなっている事だろう。  この状況ではクビは間違いない。言い訳も文句も言わない――いや、言う資格はないだろう。  任されていたすべてを投げ出して、何の責任も取らずに逃走した俺は許されるはずがない。  足がもつれ、何度も転びそうになる。そのたびに通り過ぎる人々の視線が向けられる。 「――見るな。俺を……見るなっ」  吐き捨てるように呟いて、壁に手を突きながら体を立て直す。  俺の存在自体が完璧だと思っていた。その驕りがこうさせたのか。  いや――もしも、これが海斗に冷たく当たった罰だとしたら?  天使の罰はついに下った。  仕事もロクに出来ずに逃げ出すような男だ。あの海斗でも愛想を尽かすだろう。  二週間前の交差点で……俺は何と言ったら救われていたのだろう。  いっそ嘘でも「お前が好きだ」とでも言えば良かったのか。  嘘?――いや嘘じゃない。ただそれを認めたくなかっただけなのだ。  俺は誰もが羨む出来る男……。跪いて「抱いて欲しい」と言われれば一夜だけの恋人になってやっても構わない。でも、夜が明けて朝日が部屋に射し込んだらその魔法は解ける。  何の感情も持たないただの他人に戻るだけだ。  しかし――海斗は違った。  今に思えば初対面の彼に対してあんな感情を抱いたのは初めてだった。  “欲しい……”  抱きたいと思ったことは否定しない。ただ、そこで予想外の事が起きた。 「なんで……俺が、お前に……抱かれるんだよ」  酷い胸やけがする。  何も考えている事が嫌になってふらっと入った居酒屋で浴びるほど酒を飲んだ。  財布から数枚の一万円札を店内にばら撒いて……。その後も何軒かの店に入った。  店員の制止を振り切って酒を飲んだ。そこまでは覚えている。  冷たいアスファルトの上に足を開いたまま座り込み、タイルの外壁に背中を預ける。  上着とワイシャツを通して伝わる冷気が心地良かったが、身じろぐたびに込み上げる吐き気と嗚咽を繰り返していた。  吐きたくても吐くものがない。もはや胃液しか出てこない状態で何度もえずく。  今が何時かも分からない。ここがどこかも分からない。  ただ遠くから聞こえる電車の音で駅が近いことだけは分かった。 街灯は道に沿って灯ってはいるが人通りが絶えたところを見ると、最終電車も行ってしまった後なのだろう。 昼間の温かい日差しが嘘のように夜の風は冷たい。 だが酔っぱらって火照った体には丁度いい。  ブランド物のスーツは所々擦り切れ汚れていたが、もう気にすることはなかった。  会社に行ったところで俺の居場所はない。  大切なプレゼンを放棄して逃げ出した男というレッテルをはられ続けるくらいなら、いっそクビにしてもらった方が清々する。  俺ほどの男なら他の企業でもやっていける……。 「――ははっ、ムリだよなぁ。俺、逃げちゃったもん!」  会社から、責任から、信頼から、そして海斗からも逃げた。  俺の事を誰も知らない街にでも行ってバイトでもして暮らすか……。  マンションのローンは踏み倒せばいい。それからも俺は逃げてやる。  ぐったりと凭れながら力なく笑う。  カッコいいと自負していた男は、今はその面影さえもない。 「最低だ……。俺って最低っ!あはははっ」  静まり返った通りに俺の声だけが虚しく響いた。  その声が自分の声であるにも関わらず、誰かに笑われているようで怒りと悔しさが込み上げる。 「笑ってんじゃ……ねぇよ!笑うなって言ってんだろーがっ」  唸るように吐き捨てた時、座ったままの俺に誰かの影が重なって、まともに開かない瞼を少しだけ上げた。  深夜には到底似合わない爽やかな香水の香りにトクン……と心臓が跳ねた。 「――笑ってないよ。誰も笑ってない」  その声は静かではあったが、何事にも揺るがない強さが含まれていた。  俺は朦朧とする意識の中で罰を下した天使の姿を見た。 「あぁ?俺……夢、見てる?」  目の前に立つ天使は手に持ったペットボトルのキャップを捻って開けると、その水を俺の頭上から容赦なく浴びせた。 「つ、冷たい!何すんだよっ!」 「酔っぱらってんじゃねーよ!酒飲んで……全部忘れられるとか、逃げられるとかって思ってんの?」  空になったペットボトルを力任せに俺に叩きつけた天使――海斗は、綺麗に整えられた眉をきつく寄せて声を荒らげた。   深夜だというのにスーツのまま。しかし、彼を優等生に見せていた上品なネクタイはなく、シャツのボタンも鎖骨が見える位置まで外されていた。  スラックスの裾が汚れ、革靴の先端も擦れたように白くなっていた。総務部のフロアで、どうしたらここまで汚すことが出来るのだろう。  柔らかなダークブラウンの髪は乱れ、冷たい風に晒されている。 「――お前に何が分かるって言うんだよ!俺は会社を裏切った……。重圧に耐えきれなくて……信頼を失った」 「今はそんな言い訳なんか聞きたくない。俺はホントの事を聞きたいだけなんだよ。恭輔さんはRホールディングのプレゼン資料を盗んだわけじゃないんだよね?」 「はぁ?今更何を言っても信じてもらえないだろ?俺はあの場から逃げた……。もうさぁ、盗んだって思われてもおかしくないだろ」 「そんなことはどうでもいい!俺はあなたの口から聞きたい。本当に……盗んだの?」  海斗の怒声を孕んだ声に、俺は項垂れたまま素直に答えた。 「――んなわけ、ねーだろっ!俺は俺なりに調べて作ったんだから……。まぁ、信じないだろうけど」  自分の容姿にも自信を持っていた。もちろん仕事でも。  妥協は絶対に許さない。自分を甘やかすことはしない。  それが俺の信条だった……。  受けた仕事はとことんやる!そうやってここまで来たんだから。 「――信じる。俺は信じるから」 「はぁ?」  髪から落ちる滴を手で払いながらゆっくりと顔をあげた。  そこには真剣な表情の海斗の顔があって思わず息を呑んだ。  彼はそっと手を伸ばして、ふとその動きを止めた。何かを躊躇うように、そして恐れる様に……。  俺はふぅっと長く息を吐き出して目を閉じた。  その瞬間、海斗の冷たい骨ばった指先が頬に触れて、なぜかホッと安堵した自分がいた。 「――俺、知ってるから。恭輔さんが早朝出勤して資料室に籠ってたの……知ってるから」 「ストーカーか、お前は」 「もう、何を言われてもいいよ。あなたからしてみれば俺は確かにガキだし、人生経験も少ないし、こんな時に言える気の利いた言葉も浮かばない。でもっ!ただの傲慢なオレ様じゃないって知ってるから……。仕事に対する自信の裏付け、ちゃんと努力してるって知ってるから……」  路上に投げ出した俺の足の間に膝をついてこみ上げる嗚咽を必死にこらえる海斗の姿に、俺は首を左右に振る事しか出来なかった。  髪の先から滴が数滴、スラックスの上に飛び散る。 「――お前が知ってたって、俺にはもう戻る場所なんてないんだよ」  唸るように呟くと、海斗はその手で俺の頬を包み込むようにして顔を近づけた。  自身のアルコールと煙草、そして彼の香水と汗の匂いが混じり合い、何とも不思議な感覚に陥る。  ただでさえ勃たないモノが、こんな泥酔状態で勃つわけがない。  でも――間違いなく下半身は反応していた。 「――あるよ」 「は?」 「恭輔さんの戻る場所、あるよ」  そう言って頬から遠ざかった手に異常なまでの寂しさを感じて俺は唇を噛んだ。  海斗はスラックスのポケットを探り、いつか見た彼の部屋の合鍵を目の前で揺らした。  銀色のプレートがついたキーホルダーの先で揺れる特殊な形状の鍵。 「――俺のところに戻ってきて」 「海斗?」 「俺、恭輔さんのこと一生大事にするからっ。一生愛するって誓うからっ。――だから戻ってきて。責任……とるから」  体を重ねた翌日、別れ際に海斗が言い残した意味不明な言葉の意味がたった今分かったような気がして、俺は無理やりではあったが何とか笑みを浮かべることが出来た。  嫌味と謙遜、そして……素直になれない恥ずかしさを含んだ笑みだった。  濡れた指先を伸ばして海斗の持つ鍵を掴み寄せると、そのまま俯いた。  瞬時に訪れた強烈な睡魔。  でも――これだけは。今なら言えるかもしれない。 「――眠い」 「え?」  気を抜くとカクンと首が落ちてしまうのを必死にこらえ、俺は目を瞑ったまま小さな声で言った。 「――これ、きっと夢の中だと思うんだよ。それなら……言っても構わないよな」 「恭輔さん……?」 「海斗……。お前の事……本気になっちまったかも、しれない」  言い終えるか終えないかのうちに、力強い腕に抱きしめられて頬に柔らかなものが触れた。  それが海斗の唇だったことは認識出来たが、やはり睡魔には勝てなかった。  酒の勢いで……とは思われたくない。でも、こうでもしなきゃ言えなかった。  今だけは海斗の腕に抱かれてやる――いや、この先ずっと抱いて欲しい。  見た目はデカいがすぐにでも壊れてしまう弱い俺の心を……。  お前に――くれてやる!

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