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 さらりとしたシーツが気怠い体を優しく包み、心地よい香りが鼻腔をくすぐる。  それなのに、頭の奥では大音量で音楽を鳴らしながら鐘を打ち鳴らす奴がいる。  俺のスッキリとした目覚めを邪魔する奴らに苛立ちを隠せずに、思いきって目を開けた。  一瞬大きく揺らぐ白い天井に、吐き気が込み上げてくる。 「うぅ……っ」  咄嗟に口元を手で押さえ何とかやり過ごしていると、そこが自分の家ではない事に気付いた。  前に一度だけ来たことのある場所。  静かな寝室の中央に置かれた広いベッドの上で、断続的に痛む頭をフル回転させた。  その時、部屋のドアが開いて、姿を現したのは細身のジーンズにTシャツといった実にラフな格好の天使だった。  カーテンから注がれた眩い光の中でも、神々しいまでに輝く白い肌とダークブラウンの髪、そしてなぜかホッとしたように微笑み。 「――目が覚めた?」 「海斗……?――っつう、頭痛てぇ…」 「自棄になって無謀な飲み方するからだよ。とりあえず水、持ってきたから」  差し出されたペットボトルを受け取り、水滴がついた容器をまじまじと見つめる。 (夕べ、これを思い切り投げつけられたんだよな……)  中の水は頭から浴びせられ空っぽであったはずの容器だったが、やけに痛かったことを覚えている。  特に急所に当たったというわけではなかったが、おそらく海斗の怒りと不安が俺にぶつけられた証拠なのだと思っていた。  身じろぐだけでも、その振動で頭が痛む。それでも何とか体を起こしてキャップを捻ると、冷えたミネラルウォーターを乾いた喉に流し込んだ。 「――っぷは」  五臓六腑に染み渡るとはこういう事を言うのだろう。  冷たい水が食道を通り胃にたどり着くまでがハッキリと分かった。 「少しは目が覚めた?」  ベッドの端に腰掛けて俺を覗き込んだ海斗は、そのまま綺麗な顔を近づけて来た。  ピンク色の薄い唇がわずかに開かれ、俺は目覚めのキスをなぜか心待ちにして目を閉じた。――が、そう易々とご褒美は貰えるものではない。  海斗はあからさまに嫌悪感丸出しの顔で眉間に深い皺を刻んだまま俺を睨みつけて叫んだ。 「酒臭いっ!」  泥酔し、どことも分からない場所で寝込んだ俺をどうやってこのマンションまで運んだのかは分からないが、着ていたスーツは脱がされ、体も綺麗に拭かれていた。  甲斐甲斐しく世話してくれたことは感謝せざるを得ないが、キスを期待する俺をいきなりどん底に突き落とすような海斗の言葉には、さすがの俺でもショックを隠せなかった。 「し、仕方ないだろ……」 「誰がヤケ酒しろって言った?」 「あのなぁ……。あんな状態でシラフでやってられるかよ!――っつう!」  こめかみを押さえながら、恨めしい顔で海斗を睨む。 「この俺がこうやって――その……、お前のところに戻ってきただけ……感謝しろっ」 「戻ってきたって……。泥酔して、しかも爆睡してた恭輔さんをここまで連れて来たのは俺だよ?それ、戻ってきたことにはならないから」 「あれ……戻ってこいって言わなかったか?あぁ……やっぱり夢だったのか。俺、お前の事思い切り拒絶したし、こんな事される筋合いないよなぁ!」  この期に及んで、俺はつくづく大バカ野郎だと思う。  どうして素直に「ありがとう」と口をついて出てこないのか……。  必死に睡魔と戦いながら自分の心の内を明かしたことも、すべて水の泡になってしまうのではないか。  これから先、あんな言葉が出てくることはまずない……というくらいの意気込みだったのに。  声を荒らげて顔を背けた俺は、ちらっと視線だけを海斗に向けた。  彼は唇をきつく噛みしめたまま何か考えを巡らしているようだ。  きっと、今の彼は後悔しているに違いない。  ”好き“だの”愛している“だのと告げた相手は、自分の予想をはるかに超えるロクでもない男だったと……。  初めて会った夜――時間にして十二時間弱という短いスパンで俺という人物を完全に把握することは不可能だ。  それに加えて会社に入ってからも、部署も勤務形態も違う俺に会う機会を見つける方が難しかったはずだ。 「お前が惚れた男は傲慢なだけのろくでなしだ」とハッキリ宣告してしまった方が気が楽になれるかもしれない。  俺はペットボトルの水を一口煽って、自身の心に灯った淡い恋の炎を自ら消そうと試みた。 「あのなぁ……おまっ」 「俺の事、本気って……あれ、嘘だったの?」 「え?」  言いかけた言葉をかき消すかのように鋭く声を放った海斗を見つめる。  彼は勝気な栗色の瞳をわずかに潤ませて、俺を真っ直ぐに見つめている。 「――そんなの、酔ってたし……覚えてな……っ」  売り言葉に買い言葉で、さらに嘘を重ねようと口を開きかけた時、その唇を海斗に塞がれた。  酒臭いと嫌悪したクセにそのキスは噛みつくように貪欲で、躊躇なく滑り込んだ舌は俺の舌を難なく絡めとった。  この上なく気持ちのいいキス……。  俺は無意識に海斗の背中に手を回していた。 「ん…っふ……っ」  互いの唇が離れてもなお、舌は絡まったまま水音を立てている。  これからセックスに雪崩れ込んでもおかしくないほど濃厚なキスに、俺は頭痛に加え眩暈まで起こしそうだった。  クチュリ……。海斗の舌が名残惜しそうに離れていく。  俺の舌がそれを追いかけようとして、何かを我慢するように動きを止めた。 「――恭輔さんのバカ」 「いきなりバカって何だよ」 「あの時言った事、嘘じゃないって証拠見せて」 「は?証拠って……?」 「俺が言ったこと……。あれは嘘でも何でもないから」  すごく真剣な顔で海斗が言った言葉は、酔っぱらって朦朧とした脳ミソでもハッキリ覚えている。 『恭輔さんのこと一生大事にするからっ。一生愛するって誓うからっ。――だから戻ってきて。責任……とるから』  彼の本気は十分すぎるほど分かった。でも、俺にはその本気に対応出来る能力を持ち合わせていない。  俺の言葉を寝言程度に解釈してくれたのなら何とか切り抜けることが出来るのだろうが、ここまで追い詰められては逃げ場はない。 「――俺に言う事あるでしょ?」 「言うことって……。あぁ、ここに連れてきてくれてありがとう」 「違うって!」 「え?他に何かあったか?」  海斗が恨めしい目で俺の頬を思い切りつねった。 「痛っ!何するんだよ、このガキがっ」 「あのねぇ……。もうさぁ、つまらないプライド捨てたら?」 「そんなもの……Sシステムの会議室に置いてきた。俺は無職決定だから」 「じゃあ、言えるよね?」  すっと細められた海斗の目に欲情の色が浮かんで、俺はドキッとした。  初めて会った夜――それだけじゃない。あの駅のトイレで俺を犯した時に見せた妖艶な瞳だ。  ゴクリと唾を呑み込んで、俺は目を泳がせた。  こっそり布団の中に入れた手で反応し始めた下肢をぐっと押さえ込む。 「――恭輔さん?」 「え…あ、っと……」  試すように俺を覗き込む海斗から逃げようと視線を逸らす。  だが、その勝気な瞳から逃げることは不可能だった。  なぜって――さっきから心臓の鼓動が治まるどころか早くなっていく一方だったからだ。 「――えっと。その……ってる」 「は?」 「だからっ!その……。お前の顔見てたら……勃った」  びっくりしたように目を見開いた海斗は次の瞬間、豪快に吹き出した。  肩を大きく揺らして笑い出した彼に困惑していると、俺の首に両腕を回して抱きついてきた。  こうしてみると可愛い仔犬そのものだ。  海斗は笑いすぎて涙目になりながら俺の唇を何度も啄んだ。 「それって間違いないよねっ!決定的な証拠っ!」 「そりゃ…まぁ。お前と再会するまで勃たなかったんだから、な……」 「ホントに勃たなかったの?俺以外の人、抱いたりしなかった?」 「しようとしたさっ!でも、バーでナンパした女の前で思い切り恥かいた……」  そう口にした途端、ムッと顔を顰める海斗に小さな声で「ごめん」と口にしていた。  悪いことはしていないと自覚していながら、つい謝ってしまうあたり、やはり彼の事が頭から離れなかったせいだろう。 「ふ~ん、ナンパしたんだ」 「したけど、してないからなっ」  そして今、気付いた――。  なんなんだ、この恋人同士のような会話はっ!  ベッドの上で抱き合ってキスを繰り返しながら甘イチャな雰囲気……。  その相手が海斗である事に、妙な幸福感と安らぎを覚えている。 「――信じてくれよ。あの時の俺はきっと……もう、お前のこと……す、好きだったんじゃないかって……」  全身の血液が逆流して顔に集まっていく。頬が熱い……。  バリタチで通してきた俺にクセになるほどの快楽を植え付けて、そのプライドをも捨てさせた男。  海斗と離れたら勃たなくなるって……重傷だろ。  今更、何を言っても勝ち目はない。ここは素直になるほかないのか……。 「海斗……好き。あ、あ……ゴホンッ。愛して、る……」  すぐ近くにある愛らしい頬に唇を寄せると、クスッと肩を揺らして笑った。 「――良く出来ました!恭輔さん、俺たちの約束。二人の時は何も隠さないで。ちゃんと素直になること……いい?」  これではどっちが年上か分からない。  完全に主導権を奪われているのだが、悪い気はしない。  その素性さえも分からない海斗だが、それでもいいと思ってしまうほど俺の中では彼の存在が大きなものになっていた。 互いに顔を寄せたまま微笑み合う。今までにこんな幸せな気持ちになった事があっただろうか。 「――セックスしたい?」 「え?あぁ……」  彼の言う通りに素直に答えると、海斗は苦笑いを浮かべた。 「二日酔いでセックスって無理でしょ?恭輔さんにこれ以上負担かけたくないし」 「酒臭いから、いやか?」 「違うって!俺だって物凄く我慢してるんだよっ。それに――ちゃんとケジメつけてからにしたい」 「ケジメ?」 「ん――。会社の事とか……」  海斗の天使とも悪魔ともつかない妖しい魅力に憑りつかれ、すっかり忘れていた。  部長である村田に柏崎専務からの指示を仰げと言われ、それを無視して逃げてしまった俺……。  クビになるのはほぼ確定ではあるが、その前に会社に顔を出さなければならないだろう。  謝罪と同時に退職願いの提出――。  考えるだけで一瞬でも忘れていた二日酔いがぶり返してきて、吐き気が込み上げてくる。 「――プレゼン会場からの逃走、上司命令無視、無断欠勤。何よりライバル会社に資料データ盗まれるとか。俺の罪状には情状酌量の余地はないな」  海斗は俺の首に回した手を解くと、ダークブラウンの髪をかき上げた。  その仕草にわずかな距離を感じて、思わず彼の手を掴み寄せていた。 「戻ってきたんだ……。俺を……っ」  焦ったように声をあげた俺に気付いたのか、海斗はふわりと優しく笑った。 「――見捨てるわけないじゃん。恭輔さんは俺が絶対に守るから」  年下でありながら、やけに説得力のある力強い言葉にホッと安堵する。 「それに、村田部長には体調不良って連絡してあるし……」 「え?お前が連絡したのか?」 「うん。他に誰かいる?」 「いや――どうして海斗が?って思われるんじゃないかと」 「あぁ、その辺は大丈夫。総務部の権限を使ったから……」  どんな権限だ?とイマイチ納得がいかずに首を傾けていると、ベッドの脇に置かれたナイトテーブルの上でスマートフォンが振動した。  ビクッと肩を震わせて手を伸ばして画面を見ると、噂をすれば……の村田部長だった。  画面をタップするかどうか戸惑っていると、海斗が無言で頷いて俺の背中を押した。 「――もしもし」 『小原か?体は大丈夫なのか?』  緊張で掠れてしまった声が逆に“体調不良”を思わせたようで、田村は不安げな声で問うた。 「あ…大丈夫ですけど。部長……あの、いろいろとすいませんでした」 『あれは事故だ。お前が気にすることはないし、責任を感じることはない。ただ……今は社内がゴタゴタしてるから数日、自宅療養していろ』 「――俺、クビですよね?」 『上司として最善を尽くすつもりだ。社長や専務にも詳細は伝えてある。もしかしたら社長直々に事情聴取される可能性はあるが、承知だけしていてくれ。追って連絡するから』 「はい……。分かりました」  いつになく硬質な声で言った村田の心情は穏やかではないはずだ。社運をかけたプロジェクトだっただけに、村田自身の進退も関係してくるに違いない。  通話を終了し、スマートフォンを力なくシーツに投げた。 「――恭輔さん」 「悪い……。もう少し、ここにいてもいいか?」 「全然かまわないよ。ずっといてくれてもいいし……」 「バカ言うな……。お前に迷惑かけたくないから」  海斗と想いが通じ、本来ならば両手放しで喜んでもおかしくない今、俺の心を曇らせていたのは仕事の事だった。  もし俺がクビになったとしても、海斗はあの会社に勤め続けなければならない。  俺との関係がいつバレるとも限らない。そうなったら海斗が周囲の者に何を言われるか不安で仕方がないのだ。  彼の性格からして軽く受け流すとは思うが、それが長期に渡った場合の精神的苦痛は計り知れない。 「――迷惑とか言わないでよ。俺たち恋人同士になったんだよ?なんで気を遣う必要があるの?」 「恋人……か」 「え……まさかっ」 「――違うって!恋人って言ってもいいのかなって……思って」  海斗は大きなため息をつきながらベッドから下りると、身を屈めて俺の額に自分の額を押し付けて微笑んだ。 「まだ頭痛いんでしょ?もう少し眠った方がいいよ。その間に夕食の買い物してくるから」 「あぁ……」 「オナニーとかしてたら許さないからねっ!」 「誰がするかっ!自分の右手でも勃たないんだぞっ」  ムキになった俺を制するように、天使のような微笑みを浮かべた海斗はもう一度唇を重ねてチュッと音を立てた。  何度触れても柔らかな唇はこの上ない安心感をくれる。 「おやすみ」  手を振りながら部屋を出て行く彼の背中を見送って、彼の体温が残った掛け布団を手繰り寄せると、それに顔を埋めたままぎゅっと目を閉じた。

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