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腰壁に濃い色の木目を配した、洗練されたインテリアの社長室に足を踏み入れたのは初めての事だった。
ぐるっと部屋を見回して、ほうっと感嘆のため息を吐く。
黒いレザーのソファには、あのプレゼンを推していた張本人である専務の柏崎が座り、正面の執務机の向こう側には一目でオーダーだと分かるピンストライプのスーツに身を包んだ社長――藤盛 圭太郎 の姿があった。
身長は俺とそう変わらないが、細身でありながら筋肉質でスタイルはいい。それに加えて日本人離れした端正な容貌はビジネス誌に掲載されるたびに売れ行きが伸びると評判だ。
村田と同じ五十代には見えない若々しさと活力に溢れた男だ。
彼は俺の顔を見るなり、この場には到底ふさわしいとは思えない笑顔で椅子から立ち上がり、颯爽と俺たちの前に歩み寄った。
「君が小原君か?今回は災難だったね」
「は?あ……はい」
会社の社風は自由ではあるが、こと仕事に関しては厳しいことで有名な彼が、まるでゴルフのあとの食事会で交わされるようなフランクな雰囲気で接してきたことに驚いた。
社運をかけたプロジェクトがフイになったのだから、頭ごなしに怒鳴られても不思議はない。
「村田部長に詳細は聞いたよ。――まあ、座りたまえ」
「はぁ……。失礼します」
彼の勢いに圧され、俺たちは恐縮ぎみにソファに腰を下ろした。
テーブルを挟んだ向かい側には眉間に皺を寄せて座る柏崎の顔……。
(これって、油断させてから崖から突き落とされるパターンか?)
いくら藤盛がこんな調子でも、緊張は解けない。
「――本題に入るけど、いいかな?」
「はい…。この度はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
先手必勝。深々と頭を下げて謝罪すると、藤盛は大きなため息を吐いた。
バカな俺に愛想を尽かしたのか、それとも今までの陽気なリアクションはフェイクだったと打ち明けるのか……。
恐る恐る顔をあげて正面に座る藤盛を盗み見る。
彼は長い足を組んで、何かを考えてるかのように顎に手を当てていたが、しばらくして苦しそうな息と一緒に言葉を発した。
「――今回の事は君一人の責任ではないよ。我々にも落ち度があった」
「え?」
「Sシステムに君が事前に送っていた資料があっただろ?それに目を通していた先方の担当者が、君の提案内容を覚えていた事が鍵になった」
「どういうことですか?」
「つまりRホールディングの資料が届く前に、担当者が当社の資料を見ていたって事だよ。その後でRホールディングからの資料が届き、内容が酷似している事に気付いた。先方の担当者はキレ者でね、それを見て違和感を感じたそうだよ。途中まで作成された内容と添付された資料の辻褄が合っていなかったそうだ」
「辻褄が合ってない?」
「ああ…。まあ、事前送付の資料はあくまでも資料であり、プレゼンの補助的な役割でしかない。この異なった部分はプレゼンでの口頭説明で解消されるだろうと思っていた。当社に関しては問題なかったが、酷似した資料の事が気になっていたそうだ」
「ちょ、ちょっと待ってください!Rホールディングが俺の資料を盗用したとしたら、一体どうやって……?データは社内から一切持ち出してないしっ」
藤盛は片方の眉をあげて思わせぶりな笑みを浮かべた。
柏崎と顔を見合わせてから、形のいい唇をキュッと一度だけきつく結んだ。
「企業の保守点検をウリにしている当社としては恥じるべき事案ではあるが……。社内サーバーがハッキングされたようだ」
「ハッキング?」
「ここ数週間、外部からの異常なアクセスを感知していて用心はしていたようなんだが……。社内でデータが漏れるなんてこと外部や取引先に知れたら信用問題に関わる。今後、こういった事がないようにSEには厳重にデータを管理させると共にセキュリティの強化に努めていくつもりだ。その実績が取引先へ導入出来るようであれば、ソフト化や保守管理業務契約へと繋げていきたい」
責任は俺にない――。
でも……あの場から逃げ出したのだから罪は軽くなるとしてもお咎めは免れない。
プロジェクトを引き受けた責任がある以上、全く無関係とは言えない。
俺は上着の上から忍ばせた退職願いを押さえ込んだ。
「――しかし、社長!俺は……」
「そもそもの発端は柏崎専務の無茶ブリから始まった事だ。今回の事は村田部長にも小原君にも過失はない」
「でもっ!俺はあの場から逃げたんですよ?それって責任放棄と同じなんじゃ……っ」
この厳しい会社で社長自身に温情をかけてもらうなんて、そこまで甘えていいのだろうか。
それは――俺の中で納得がいかない。
男も女も弄んでは来たが、仕事だけはきっちりこなすのが俺の信条だ。
妥協は許さない。ここで自分を甘やかしたら、きっと後悔することになる。
すべてを失ってもいい。仕事も、地位も金も――そして海斗も。
俺は胸の内ポケットから白い封筒を取り出すと藤盛の前に差し出した。
隣に座っていた村田がそれを見て息を呑むのが分かった。
「おいっ、小原……」
「俺、いつでもこれを出すつもりで仕事してるんですよ。社長の信念――使えない奴はさっさと切った方がいい」
藤盛は真剣な眼差しで俺を真っ直ぐ見つめた。
しばらくして、大きく息を吐き出すと柏崎と村田を交互に見てから静かに言った。
「――小原君と二人で話がしたい。悪いが……二人とも席を外してくれないか」
村田は不安そうな顔で落ち着きなく立ち上がった。柏崎もまた、自分の無茶を通そうと躍起になった結果が招いた事態だということを理解したようで無言のまま席を立った。
二人が社長室を出て行く。
それを見送った後で、藤盛は上着のポケットからスマートフォンを取り出すと慣れた手つきで画面をタップした。
退職願いを出した手前、さっさと帰りたい……というのが本音だった。
無駄に長い時間、ここに拘束されているのもある意味ツラいものがある。
下手に引き留められて、自分の意志が揺らぐのが怖かったからだ。
潔く決意はした。だけど――心の片隅に引っ掛かっていることはある。
「――あの、社長?」
俺の声にスマートフォンの画面から視線をあげた彼は、先程とは打って変わって柔らかい表情を見せた。
「小原君……。遊び人で男女の関係にはだらしないという噂は聞いていた……。でも、それは本当に噂だったようだね」
「は?」
「責任感が強くて、何より仕事に情熱を傾けている。私が求めている人材そのものだよ」
「はぁ……」
だからって、引き留めるんじゃないぞ!
俺はもう決めたんだから……。
コンコン……。
俺の決意を揺るがすようなドアのノック音に視線だけをそちらに向ける。
村田も柏崎も退室した今、ほかにここに来る者などいるのだろうか。
社長に会いに来た者であれば、俺は早々に出て行った方が良さそうだ。
そう思いながら腰を浮かしかけた時、開いたドアから入ってきた人物に俺は目を見開いた。
「――やっぱりね」
開口一番、勝気な栗色の瞳を細めて俺を睨んだのは守屋海斗だった。
総務部である彼がこの社長室に出入りすることは決して不思議ではないが、部屋に入ってくるなり藤盛に挨拶もなく、いきなり「やっぱりね」はないだろう。
「お前……何、やってんの」
藤盛に視線をチラチラと向け、気を遣いながら声を出さずに問う。
それなのに海斗はスラックスのポケットに片手を入れたまま、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。
「おいっ!お前……それっ、マズイって」
社長の前でこれほどデカい態度をとる新入社員――。
そんな海斗を目にしながらも藤盛は何も言わない。
(え…?ちょっと待てよっ)
膝の上で握ったまま手にじっとりと汗が滲む。
海斗は俺のすぐ横まで歩み寄ると、小悪魔のような妖艶な表情で俺を見下ろした。
「――俺から逃げるの?」
「な、なに言ってんだよ……」
「スマホの電源切って、どこに行くとも言わないで……。挙句の果てには退職願い出すとか……」
「お、お前には関係ないだろ!これは俺のケジメなんだからっ」
「ふ~ん。じゃあ、俺にもその”ケジメ“ってのをつけさせてよ」
「は?」
海斗はいきなり俺の首に両腕を絡ませると、俺に凭れかかるようにソファに雪崩れた。
「お、おい!お前……ちょ、社長の前だぞっ」
「だから?」
「それ、おかしいだろ!こんな場所で何やって――っ」
言いかけた俺の言葉をそれ以上発せなくさせたのは、目の前に座る藤盛の嬉しそうな表情だった。
その目は経営者というには穏やか過ぎて――そう、まるで子供の成長を見守る父親のようで。
「――え?」
海斗が俺の耳朶を甘噛みしながら低い声で囁く。
「恭輔さんが辞めちゃったら、誰が俺と……この会社継ぐの?」
耳殻に沿ってねっとりと這う舌と共に、幻聴が聞こえたような気がした。
確かに、俺は海斗と恋人同士にはなった。
しかし――だ。
誰がいつ、この会社を継ぐなんて言った?しかも海斗と一緒に……。
社長である藤盛圭太郎は現役だ。街角で男をナンパしたり、トイレに連れ込んでレイプまがいに犯したりする男がなぜこの会社の経営に関わっている?
「恭輔さん……」
「ちょ…ちょっと待て!どういう事か説明……しろ」
顔を引き攣らせたまま、海斗の顔を退けようと手を伸ばした時だった。
それまで黙っていた藤盛が満面の笑みを浮かべながら海斗に言った。
「おい、海斗。物事には順序ってものがあると言っただろう?小原君、困ってるじゃないか」
「だって!恭輔さんがっ」
「ホントに小原君の事になると冷静さを欠くね。そんなんじゃ嫌われるぞ?」
海斗はビクッと体を震わせて、おずおずと顔を離していく。そして俺を覗き込むようにして上目遣いに問うた。
「恭輔さん、俺のこと嫌い?」
「え?あ……?」
藤盛の目の前で、しかも同性の海斗に対して言う言葉が見つからない。
二人きりであれば、そう言った言葉もすんなりと出たかもしれないが、この状況ではどう考えてもマズイ。
額から流れる汗がやけに冷たい。
それを乱暴に拭って、俺は俯いたまま何も言えなくなった。
「――混乱するのも無理はない」
藤盛の声に、やっと顔をあげることが出来た俺。しかし、海斗はまだ俺の首にしがみ付いたままだ。
「うちの息子がいろいろと迷惑をかけてしまったようだね。父親としてきちんとした挨拶もなく申し訳ない」
「え?息子?父親?――海斗の名字……」
「守屋は母方の姓だ。社内には海斗が私の息子だということは伏せてある。それは彼のたっての希望だ。私の息子だからと言って色眼鏡で見られるのが嫌だと言ってね」
「海斗が社長の息子?嘘……だろ」
俺は自分の頬を何度もつねって、引っ叩いてみたい衝動に駆られていた。
どう見ても遊んでいるとしか思えなかった大学生が藤盛の息子だなんて……。
しかも俺は、そいつに処女を奪われた……。
「その様子だと海斗から何も聞いてはいないようだね?」
「はぁ……。まったく、何も……」
藤盛は俺の肩に頬を寄せている海斗を睨んで大きくため息を吐いた。
「甘やかして育てたつもりはないんだが……。こう言っても君には”親バカ“としか思われないだろうがね」
「い、いえ…。そんなことは――ありますけど」
少し落ち着いてみると、藤盛と海斗はよく似たところがあることに気付く。
日本人離れした顔立ちや色の白さ、そして――覇者の貫禄。
年下の海斗に完全に支配されかけている俺……。
親子の証とも言える、相手に有無を言わせないその鋭い光を湛えた瞳は時に妖しさを見せる。
「――海斗。ちゃんと小原君に説明しなさい。それでないと私も話が進められないじゃないか」
「そんな余裕ないよ!恭輔さんはモテるんだからっ」
「だからって……。きちんと筋を通してきなさい。そうでなければお前たちの結婚は認めない」
「え~~~っ!」
「は~~~ぁ?」
俺は自分の耳を疑った。
藤盛の口から”結婚“という言葉が聞こえたような気がしたからだ。
誰が誰と結婚するんだ?まさか……だよな。
この日本では同性婚は特別な理由がない限り認められてはいない。
俺と海斗の間に”特別な理由“があるのかと問われれば、皆無だ。
ムッとした顔で藤盛を睨んだ海斗は、俺を解放すると同時にあの凄い力で俺の手首を掴んで立ち上った。
バランスを崩しそうになりながらなんとか立ち上った俺は、海斗に引き摺られるようにしてドアの前まで来た。
「――分かったよ!恭輔さんと話す。でも、俺は絶対に譲らないからっ」
「それはお前一人が決めることじゃないだろ。小原君の意思だ……」
海斗は掴んでいた手を離すと、勇み足でソファに近づき、テーブルの上に置いたままの“退職願い”と書かれた白い封筒を力任せに破り捨てた。
散り散りになった封筒が無残に絨毯に散らかる。
「――これは無効!俺は認めないっ」
「海斗!」
思わず叫んだ俺の声に応えるように振り返ると、再びドアの元に歩み寄り、俺の手首を掴むなりドアを開けた。
廊下を進み、エレベーターに乗り込んでも、海斗は口を開かなかった。
天使のような愛らしい顔には眉間に深い皺が刻まれている。
何かを口にすることも憚られるような雰囲気に、俺はただ黙って彼のあとを追う事しか出来なかった。
エントランスを出て、すぐさまタクシーを拾って乗り込んだ。
海斗のマンションへ向かうように告げて、彼はシートに背を預けた。
顔は窓の方に向けられ、俺の方を見ようとしない。
「――おい」
掠れた声で問いかけるが返事はなかった。
唇をきつく引き結んだまま流れる景色を見つめる海斗は、俺が今まで見たことがない顔だった。
溢れそうな何かを必死に堪えているようにも見える。
状況は何となく理解出来たが、海斗自身の口から聞きたかった。
「海斗……」
囁くような声でそっと名を呼ぶと、長い睫毛を小刻みに揺らしてそっと目を伏せた。
「ごめん……」
「え?」
「ごめん……恭輔さん」
肺に溜まっていた息を吐き出すように、重々しい声でそう呟いた彼。
握られていた手首から滑り落ちる彼の冷たい手を慌てて握り返す。
少し驚いたように目を見開いて俺を見た海斗の目が悲し気で、俺は思わず目を逸らしてしまった。
白いシートカバーのかかった座面に置かれたままの手に自然と力が入る。
少し骨ばった指を優しく撫でるように何度も握り返すと、海斗の口元にわずかに笑みが浮かんだ。
俺が彼に出来ること……。
小さなことではあったが、今の俺にはそれが精一杯だった。
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