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翌日――。
スッキリとした顔で出勤する海斗を見送って、俺はリビングのソファで何をするでもなく新聞を読んでいた。
営業という職業柄、世の経営事情を把握するために経済欄には必ず目を通す習慣が身についていた。
「なんだか、パッとしないなぁ……」
昨日、社長や専務と直に話し合ったとはいえ、そうそういつもの雰囲気での出社は憚られる。
自宅待機がいつまでという期日も特に言われていないだけに、出社のタイミングを確実に逃している。
ここ数ヶ月はSシステムのプレゼンに関して集中的に取り組んではいたが、それ以外にも抱えている案件はもちろんある。
幸い、自宅待機になってからその取引先からの呼び出しや問い合わせの電話は直接かかってきてはいないが、このまま誰かに任せるというのも自分の中では納得がいかない。
見えないところで汗水流して獲得した顧客を、そう簡単に手放したくはない。
一度は捨てたはずのプライドが、再び復活の兆しを見せる。
リビングのテーブルに置かれたままのスマートフォンが突然鳴り出したのは、新聞を折り畳んだ時だった。
画面に表示された見慣れない番号に不信感を抱きながらも、着信ボタンをタップする。
警戒しながら耳に押し当てると、スピーカーからは低くはあるが柔らかな声が響いた。
『――小原君か?』
聞き覚えのある声に、俺は誰を前にしているわけでもないが無意識に背筋を伸ばしていた。
「社長……っ。お、おはようございます」
『昨日はすべてが中途半端で済まなかったね。今、少しいいかな?』
「はい……」
直属の上司である村田からではなく藤盛本人からの電話となれば、もうあのこと以外ないだろう。
海斗と藤盛が実の親子であると知ったのは昨日の事。
それだけでなく、俺の知らないところで話が膨らんでいる事に驚いた。
恋愛は自由だ。だが、実の息子が男と付き合うということだけでも卒倒しそうな話なのに、それを通り越して結婚だの会社の後継者だのという話にまで発展している。
海斗の素性はもちろん、彼に関して何一つ情報がなかった俺にしてみれば、すべてが寝耳に水……だ。
『――海斗から話はあった?』
「いえ……。彼の方も何か思うことがあったみたいで。俺も触れずにいましたけど」
『そうか…。強気に振る舞ってはいるが、やはり自責の念があるんだろうなぁ』
「あの…。何かあったんですか?俺、昨日……「ごめん」って謝られて。思い当ることがないから……。あの、話してもらえませんか?海斗の口から聞きたいって思ってたんですけど、強がってて言ってくれそうにないから」
社長である藤盛と仕事以外の話をすることなどないと思っていた。
社内パーティーなどで何度か顔を合わせたことはあったが、まさか息子がいるなんて聞いたこともなかったし、そんなプライベートな話をする機会もなかった。
それがどうだろう……。息子と、その恋人である俺を心配して、わざわざ電話をかけてくるなんて。
社内での藤盛のシビアな顔しか見たことがなかった分、そのギャップに驚き、ある意味慄いていた。
『Rホールディングのデータハッキングの件なんだが……。あれはどう考えても私への嫌がらせとしか思えない。社の業績云々というより個人的な逆恨みと言った方が的確だろうな』
「個人的な逆恨み……?」
『その原因になったのは海斗なんだよ。その事で君が巻き込まれる形になってしまった……。長い間ずっと想い続けて来た相手に対して自分の犯した過ちが許せない。あの子はその事で責任を感じている』
「どういうことですか?」
『もともとRホールディングは当社と経営提携を結ぶ予定でいたんだ。そのきっかけになったのは海斗の就職活動だ。あの子は私の会社に入ることを嫌っていた。親の目の届くところで守られながら仕事をすることは自分の信念に反すると言ってね。小さい頃から独立心の強かったこともあって、彼はあえてRホールディングを選んだ。他に数社内定は貰っていたんだが、私としてはRホールディングに海斗がいてくれるのならば提携の足掛かりになると下心を持って了承していたんだ。しかし、状況が変わった。それは君との再会だ――』
「再会?俺と……海斗のですか?ちょっと待ってください!俺が海斗に会ったのはあの夜――いや、偶然街で声を掛けられたのが初めてだと認識しているんですが」
『数年前に一度だけ、海斗がここに来たことがあってね……。まだ高校生で会社なんて興味のなかった頃、社内で君を見かけた。その時の海斗はそれまでにないほど興奮してね、目を輝かせて私に言ったんだよ。「俺はあの人と結婚する」ってね……。海斗の性癖はもう分かっていたから、男性を好きになることに関しては別段驚きもしなかった。それから人が変わったかのように勉強に打ち込んで、一流と言われる大学に進み、会社経営に関しても興味を持ち始めてくれた。負けず嫌いの上に、君という起爆剤が加わった結果なのだと思う』
「――すみません。まったく記憶になくて」
『気にすることはない。海斗の片想いだったんだから……。だが、私の知らないところで君の事をいろいろと調べていたみたいでね、時にストーカーまがいの事もしていた時期もあったようだ。我慢に我慢を重ねて来た結果、君に会いに行くという選択肢しかなかったのだろうね。そしてあの夜――再会した。偶然を装って……』
特別興奮する様子もなく淡々と語る藤盛の話に耳を傾けていたが、ふと動きを止めた。
あの夜の海斗の行動を知っているということは――もしかして???
俺が彼を抱くつもりでマンションに連れて行ったことも、逆に海斗に抱かれたということも……?
「あの、社長……。どのあたりまでご存じなんでしょうか?」
『え?あぁ…。海斗から聞いたことだけだよ』
「聞いたことって……?」
『ずっと片想いだった君の処女を奪ったから責任を取るということぐらいかな』
さらっと“今日の天気は晴れみたいだよ”というライトな感覚で言った藤盛に、全身の血液が一気に足元に下りていくのを感じた。
スマートフォンを持っていた指先が冷たくなっていく。
「――え…と、それは……語弊があってですね」
『語弊?じゃあ、君が海斗を犯したというのか?』
「いえいえ!とんでもないっ!それはないです、はいっ!確かに俺は海斗に抱かれ……ま、した」
今度は全身の血液が物凄い勢いで逆流し、顔に集まってくる。
このまま消えてしまいたいと思うほどの羞恥を覚え、語尾もだんだんと小さくなっていく。
藤盛だって俺の姿を見れば、そうなった時にどちら側の人間なのかは安易に判断出来るはずだ。
それなのに、息子の証言とはいえ、それを素直に受け入れている事が恐ろしい。
『――海斗はまだ子供だ。一度体を重ねただけで、君が自分のモノになったと思ったのだろう。それを機にRホールディングの内定を蹴って当社に入る事を決めたんだ。アイツの君に対する想いの深さには呆れもしたが、こればかりは本人じゃないと分からない問題だからね。親バカな私は渋々Rホールディングとの経営提携を諦め、白紙に戻したんだ。下心ありきの野望なんてこの程度のものなのだと痛感させられたよ』
「いや…。その……それで?」
『当社との提携話がなくなったことで、ここ数年、業績不振で伸び悩んでいたRホールディングは焦った。そのタイミングで当社がSシステムの保守契約取得のためのプレゼンテーションに参加することを耳にしたんだろう。Sシステムとの契約を取ることが出来れば、この会社にも大きな損害を与えることが出来る――そう考えたわけだ』
「逆恨み……ですね。間違いなく」
『そうなんだよ。君はたまたまこの逆恨みに巻き込まれて、被害を被っただけなんだ。だから、退職願いなんてハナから受け取る気はなかったし、まして自宅謹慎にする必要もなかったんだが……』
「――ですよね?あ、でも……。海斗はそれが自分のせいだと思ってるんですよね?」
『あぁ…。君が会場からいなくなった日は随分と探していたようだった。責任を感じていたからだろう……』
あの日、酔いつぶれた俺を見下ろした海斗のスラックスの裾が汚れ、革靴も所々擦れていた。
どれほど探してくれていたのだろう。自分でもどこをどう歩いたのかも分からない場所を探し出すために……。
マンションに帰ってからも疲れなど微塵も見せることなく俺を介抱し、面倒を見てくれた。
その時の彼の想いが今、俺の胸をきつく締め付けた。
あれほど酷い言葉を投げかけたにも関わらず、俺を想う一心で「戻ってこい」と言ってくれた海斗。
「――社長」
俺はすぅっと息を吸い込んでから胸に押し当てた手をゆっくりと撫でた。
スマートフォンを持つ手に力がこもる。
『どうしたんだい?小原君……』
「社長は――いいんですか?」
『何がだね?』
「俺で――いいんですか?海斗の恋人として、俺を……認めてくださるんですか?」
不意に黙り込んだ藤盛に心臓が早鐘を打つ。
こんなに頼りない遊び人の俺をそうそう認めてくれるとは思ってはいない。だが――今は海斗がつけた首輪を印籠代わりに振りかざすことで押し切れるような気がしていた。
俺が抱く何十倍、いや何百倍もの愛情を持って接してくれる海斗の存在を頼みの綱に、未来の父親になるであろう藤盛に挑む。
長い沈黙が俺を苦しめた。昨日の様子ではそう判断に悩む様子ではなかったが、海斗が同席していた手前……ということも考えられる。
カラカラに乾いた喉に何度も唾を流し込んで、俺はソファの上に正座した。
『――正直なところ、答えは出せないでいる』
「え……」
『だが、君に会ったことで海斗は変わった。すべてを投げ出してぶつかっていける存在というのを見出したのだろう……。まあ、君に感謝しなければならないのは私の方かもしれないな。海斗が君と一緒ならばこの会社を継いでも良いと言ってくれた。孫の顔は期待出来ないが、少しだけ肩の荷が下りたことは間違いない』
「じゃあ……っ」
『あの子自身の目で見極めて選んだ男だ。それを否定するつもりはないよ……。小原君――いや、恭輔君と呼んだ方がいいか?』
「社長……」
『君は営業部に必要不可欠な存在だ。いつまでも海斗のマンションでぬくぬくとしていないで来週から出社したまえ。いいね?』
「は、はい!」
上ずった声で返事をし、俺は深々と頭を下げていた。
そんな俺に更に追い打ちをかける様な藤盛の声に、再び緊張の糸がピンと張られる。
『――だが、すぐに結婚を許すわけにはいかない。海斗の伴侶として、そしてこの会社の後継者として相応しいかどうか見極めるまでお預けだ』
「もちろん!俺、頑張りますからっ!仕事も、夜の性活も――あっ」
思わず口を突いて出た言葉に息を呑んだ。
これではまるで海斗を悦ばせるために何かをしているようではないか。
藤盛は電話の向こう側で盛大なため息を吐くと、呆れたように――でも少しだけ笑みを含んだ声で言った。
『海斗に付き合って“疲れたから仕事が出来ません”という言い訳は通用しないからな。村田部長にもその辺は厳しく監視してもらうように話しておく。あと――私と海斗の関係、それと君との関係は一切他言無用で頼む。いいね、恭輔君?』
日本人離れした甘いマスクでニヤッと笑いながら目を細める藤盛の顔が目の前に浮かんで、俺はもう一度深々と頭を下げた。
「日々、精進いたします!」
俺の決意の言葉にわずかに笑い声を漏らした彼は「頼んだよ」と言い残して電話を切った。
ソファの上で正座したままスマートフォンを握りしめる俺。
これが夢でないことを証明するために自分の頬を思い切りつねってみる。
「痛――っ!」
顔を顰めてから、バックライトが消えた黒い液晶画面に映った自分の姿をまじまじと見つめる。
起きてから洗顔は済ませたが髭は剃っていない。
すっかり堕落しきった自分に失望しながら、これではいけないと奮い立たせる。
ソファから勢いよく飛び降りると、俺は洗面所に飛び込んだ。
呑気になんてしてはいられない。さっさと着替えを済ませて、海斗のために作る夕食の買い出しに出かけよう。
髭を剃りながら自然と出てしまう鼻歌が洗面所に響く。
異常なまでに上がるテンションを何とか落ち着けて、今夜は海斗と向き合おうと心に決める。
強がってばかりの海斗だが、俺の前では涙を見せる。
それならば、お互い何も隠すことなく素直に話し合える気がしていた。
藤盛との電話の件は俺の中の金庫に仕舞い鍵を掛ける。
真っ新な気持ちで、海斗の口から真実を聞きたい。そして俺に初めて会った時のことも――。
海斗の気持ちに気付くことなくフラフラしていた俺をもう一度戒めて欲しい。
彼が付けた見えない首輪に外れることのないリードを結んで、束縛して欲しい。
そのためならば、つまらないプライドなどいくらでも捨てられる。
海斗の笑みを浮かべた天使のような顔を自分が映る鏡に重ねて、ふっと口元を緩めた。
下肢に熱が集まり、わずかにスウェットパンツの生地を持ち上げる。
“あなたの事考えるだけで触れなくてもイケた”
昨夜の海斗の言葉を思い出して、俺は自らの場所にそっと手を伸ばしかけて動きをとめた。
「俺も……イケそうな気がする」
目を閉じて彼の指の動きや舌先を思い出す。
極上のキスと、煽るような言葉遣い、胸を喘がせて漏らす吐息に俺の中を突き上げる凶悪な熱塊……。
「はぁ…はぁ……。海斗……俺、イッてもいい?イカせて……お前の精子、ちょ…だいっ」
洗面カウンターについた両手がブルブルと震え、膝がカクンと何度も折れる。
Tシャツの生地越しにぷっくりと膨らんだ乳首は海斗に弄られている時と同じ状態で、すっかり勃起したペニスはスウェット生地を濡らすほど蜜を溢れさせている。
変態染みた行為だということは重々承知している。
でも、誰かを――最愛の人を想っての自慰を止める権利が誰にあるというのだろう。
触れたい……。
物理的な刺激を与えれば即座に射精するだろう。しかし、今の俺にはその決定打が与えられない。
「海斗……」
苦し紛れにそう名を呟いた時、カウンターの上のスマートフォンが震えた。
そこに表示された名前に俺の中で何かが弾け飛んだ。
通話ボタンを押して、受話をスピーカーに切り替える。
「もしもし……」
『恭輔さん?あれ…何だか苦しそうだけど、大丈夫?』
昇りかけている途中での息使いが海斗の耳にも届いてしまったようだ。
しかし、こればかりはどうにもならない。
「あ、あぁ……。ちょっと…今……んぁっ」
『ちょっと!まさか……オナってる?』
「ちがっ……はぁ、はぁ……。ちょっと……んっ」
『夕べあんなにしたのに……。淫乱な雌犬は躾が大変だよ』
トクン――。
海斗の冷ややかな言葉に心臓が大きく跳ねた。
もっと……。もっと言って欲しい。
「うるさ…ぃ、ガキが……っく」
『――自分じゃ勃たないんじゃなかったっけ?もしかして誰かにしてもらってるの?』
「バカッ!お前に……しか、反…応……ないって、言った……だろーがっ」
『ふ~ん。嘘ついたら承知しないからねっ。――で、どうしてほしい?』
一体どんな用件があって俺に電話をかけて来たのか分からなかったが、このタイミングでというのが海斗らしい。
俺は腰を前後に揺らしながら、誰にも見せられない欲情に蕩けきった顔を鏡に映しながら言った。
「――だ、して」
『え?聞こえない』
「お前の……出して。俺の……中に、いっぱい……出してっ」
まだ午前中であるということを忘れ淫蕩に拭ける俺……。
こんなことは今までに一度だってない。
でも今は……海斗の声でイキたい!
少しの沈黙の後で海斗が小さく息を吐いた。そして、あの甘く低い声で俺に言った。
『恭輔さん……俺もしたくなっちゃった。ね……その前にイカせてあげる。いっぱい中に出してあげるから、いい子で待っててね』
「あ…海斗っ。あぁ…おれ、イ、イク……出ちゃうよぉ~」
『出していいよ。でも、触っちゃダメだからね。そのままイッて……恭輔』
「やば…あ、あぁ……イク…イクッ――んあっ…あぁぁぁっ」
ビクンと大きく体が跳ね、スウェット生地にじんわりと染みが広がっていく。
ねっとりとした液が下着との間に糸を引き、青い匂いがぶわっと広がった。
前屈みのまま洗面カウンターに縋りつくようにして乱れきった呼吸を整える。
鏡の中には顔を上気させ、何ともだらしなく舌を見せている俺がいた。
『――イッたの?恭輔さん?』
「――ん。気持ちよかった……。俺、触らなくてもイケた。お前の事……考えてた」
電話の向こう側で息を呑んだ音が聞こえ、しばらくして少し照れたような声が俺の鼓膜を優しく震わせた。
『ありがと……。俺、嬉し…くて、泣き……そ』
それは本当に泣きそうな声に変わって、俺は額にびっしょりとかいた汗を拭い息を切らせたまま言った。
「お前の事……これだけ想ってる。愛してるから……全部、見せてくれ」
その言葉に海斗は昨日の事をすぐに連想できたようで、嗚咽をこらえながら何度も「わかった」と返してくれた。
『早く…帰るから。それだけ……言いたくて』
「気をつけて帰って来いよ……」
通話を終了させた俺はその場に崩れるように座り込んで、ぼんやりと天井を見上げた。
海斗のへの想いは間違いじゃない。
手を使わずに達することが出来たことが何よりの証拠だ。
愛しいと思える相手がいること、その彼を守りたいと思うこと……。
すべてが原動力に繋がるということを海斗に教えてもらったようで、後ろめたいことをしていながらも清々しい気持ちでいっぱいだった。
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