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【3】04
俺だ。俺が何か言わなければならない。分かっているのに脳は無意味な回転を続けるばかりで、「今言うべきこと」を導き出せずにいる。全員が黙った状態のまま、意に介さないマイペースな高岡さんの足音が遠ざかっていく。重たい時間が過ぎ、最初に沈黙を破ったのはお母さんだった。
「……それなら、晩ご飯用意しなくちゃねぇ」
お母さんの声はやわらかく、不要な力も緊張もない。瞬間、俺はその言葉によって、客として受け入れられたのだ。「恋人」への言及より先にあっけなく受け入れられたことに安堵する一方、あまりにも冷静すぎる対応にかえって戸惑ったのもまた事実だ。
「伊勢さんはなにか食べたいものある?」
「いやおかまいなく!」
「じゃあお買物に行って決めるわね」
「え、お母さん寝てなよ。わたしが行くよ」
「大丈夫よこれくらい」
気が付いていた。高岡さんも亜澄ちゃんも、壊れやすい重要なものをしっかりと持ち運ぶように、お母さんへずいぶん丁寧な対応をしている。俺はまだこの家族の距離感がうまく掴めず、また立ち入る勇気も持てず、やっぱり言葉も出てこないので情けなく立ちつくすばかりだった。
「どうした?」
わたしが行くわよ、いやわたしが、と押し問答を続ける二人に、階段を降りてきた高岡さんが声をかけた。
「あ、お兄ちゃん。お母さんが買い物行くって」
「ああ、じゃあ車出すよ」
もめていた二人は高岡さんの言葉で収束し、着替えを終えたお母さんと高岡さんは車に乗り込んで出掛けていった。俺は「ごめん伊勢ちゃん、リビングでテレビでも見てて」という言葉を律義に守り、リビングのソファに腰を下ろしテレビをつけた。かと言って流れてくるローカル番組に集中できるわけでもなく、つい部屋の中を見渡してしまう。
インテリアを選んだのはお母さんか亜澄ちゃんか、カーテンもラグも時計も可愛らしいデザインのものばかりだ。ふと見た壁には年季の入った「交通安全ポスターコンクール」の表彰状がかけられており、そこに高岡さんの名前が刻まれていた。間違いなくこの家の中に、高岡さんの18歳までの生活があったのだ。俺の知らない時代。
「これ飲んでね」
「あ、ありがと」
突然の声に振り返ると、気を抜いていた俺の後ろに亜澄ちゃんが立っていた。麦茶の入ったコップをテーブルに置きカーペットの上にぺたりと座り込んで、遠慮なくじっと俺を見る。
「な、なに?」
「伊勢さんってさ、ほんとにお兄ちゃんと付き合ってるの?」
他人に言及されたことのない問題について、高岡さんの家族、それも年下の女の子から、直球ボールをドまん中に投げられる衝撃たるや。俺は視線から逃れるために麦茶をすするしかない。麦茶は甘く、実家のものとは違う味がしたので、人の家に来たんだなあ、と思った。
「う、うん……まあ……一応……」
「そうなんだぁへぇー! 大学いっしょなんだっけ? あれ、でも歳は違うんでしょ?」
「大学だと年齢のことなんてそんなに関係なくなるし」
「あーそっかー。おにい留年してんだっけ。てか伊勢さんもずっと前から男の人が好きだったの?」
「いやそんなことないよ、俺はふつーに女の子としか付き合ったことない」
「え、それなのにおにいと付き合ったの!? なんで!」
「えー……なんでだろ……なんかいつの間にか……」
「お兄ちゃんからふっかけたってこと? うちの兄だいぶがっついてんね?」
「そーだよだいぶがっついてるよ」
テレビではローカルタレントがよく通る声でお決まりのせりふのようなものを口にしていて、亜澄ちゃんの声も負けず劣らずよく響く。道中から、いや今回の帰省が決定したときからじわじわと続いていた緊張が少し解けたところへ、亜澄ちゃんの人懐っこさは暖かく染みた。
「ていうか、高岡さん……お兄ちゃんって、自分が男と付き合ってるってこと結構ふつうに家族に言うんだね。そこにびっくりしたんだけど」
だからこそつい笑いながら触れてしまう。あのシーンはどうしたって違和感があった。きっと亜澄ちゃんも同じように、けらけらと笑いながら同意してくれるだろうと平和に考えていたのだ。
しかし亜澄ちゃんは冷えたグラスに指を滑らせながら、すこしだけ目を伏せた。
「……まあ、うちの家族はお兄ちゃんが『そう』だってこと、知りたくなくても知っちゃったからね」
正しい言葉を選びながら、しずかに、必要なことについて語り始める。亜澄ちゃんの悲しく笑うような表情を見て、高岡さんに似ている、と思った。
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