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【3】11
知らない天井は知らない感覚を呼び起こす。翌朝目を覚ました瞬間、身体が半分浮いているような独特な居心地に襲われた。しかし横には普段通りの健やかな表情で眠る高岡さんがいた。朝だ。いつも通りの。
「おはよー伊勢さん、眠れた?」
「うん。なんかいつの間にかぐっすり寝てた」
「お兄とえろいことしてる声ずっと聞こえてたよ!」
「……え? えっ!? えっ、いや、違っ……ずっとなんかしてないし!」
「はははっ、んな訳ないじゃん。嘘だよ。わたし夜でかけてて、さっき帰ってきたんだよ? 伊勢さんほんっと嘘つけないよね~」
廊下ですれ違った亜澄ちゃんに惨敗したのち、ひとまず昨日と同じようにリビングのソファに座っていると、高岡さんが下りてきてお母さんの部屋へ入っていった。そのあとリビングに戻ってきた高岡さんは、洗剤、など小さな字が書き込まれたメモを持っていた。
「今頼まれて、生活用品とか買いに出かけるけど伊勢ちゃんはどうする?」
「あ、俺も行きます」
「けっこう遠いよ? この辺田舎で買える場所ないからさ、そこそこ長旅になるよ」
「じゃあ、長旅の話し相手になってあげます」
「……かわいいね」
高岡さんはあまりに自然に肩を抱き、耳もとに唇を寄せた。ぞくっとしてしまったことを隠すべく、強く抵抗する。
「こ、ここではそういうことしないでください!」
「はいはい。亜澄ー」
高岡さんはにやにや笑いながら立ち上がり、廊下へ向かって声をかける。かたかたと物音のあと、亜澄ちゃんがリビングへ顔を出した。
「んあー? なに?」
「俺伊勢ちゃんと買いだし行ってくるから」
「あ、じゃああたしのリップとくつした用ののりと瓶に棒刺すいい匂いのやつ買ってきて! バラのやつ!」
「なにそれ。わかんねぇから紙に書いといて」
「ちょっと待って! えっとー……」
「……字が汚い。読めない」
「うるせーなバカ兄」
亜澄ちゃんはガリガリとメモをとったあと容赦なく冷たい言葉を投げ、高岡さんは淡々と受け流す。こうしてると本当に兄妹なのだなあ、とほほえましくなる。
「……何笑ってんの?」
「いや。行きますか」
「うん。じゃ、行ってくるから」
「あいあーい、いってらー」
車に乗り込み向かった賑やかな街までは、確かに距離があったが「ここ同級生の家」「ここ昔駄菓子屋だったんだけどさ」と他愛ない会話をしているうちにすぐ到着した。駅、バスのロータリー、チェーンの居酒屋がぎしぎしと肩を寄せ合う街の中で、思い出話も幼少期のものから、より身近なものへ変わっていく。
「この通りの一本向こうに、俺の通ってた高校があって」
「あ、そうなんですか。このへん遊ぶところとかも多そうでいいすね」
「うん……まあ、色々あったなー……」
街並みを滑る視線は、遠くを見ているのか近くを見ているのか、時間という不確かな流れを目撃しようとしているのか、掴みどころがない。身体ごと遠くへ運んでしまいそうで不安になる。
その時、足元にどしんとぶつかったなにかが、高岡さんの意識を引きもどした。
「う、わ」
足元に目を向けると、幼稚園にも入る前だろう、幼い少女が尻もちをつき高岡さんを見上げていた。どうやら互いに注意が散漫だったために、ぶつかってしまったらしい。
「あ、ごめん。怪我しなかった?」
「あっ、血出てるじゃないですか!」
女の子は転んだ瞬間とっさに手をついたらしく、手のひらには微かな傷が入り、うっすらと血さえ浮かんでいる。少女は血の鮮明な赤色がショックだったのか、じわりじわりと目に涙を浮かべていった。高岡さんもさすがに焦りを浮かべ、しゃがみこむ。
「え、あ、ご、ごめんな、ほんとごめん」
「あーあーあー高岡さん泣ーかした!」
「え、ちょ、立てるか?」
大の大人ふたり、女の子の涙に翻弄され、高岡さんはとにかく謝罪の言葉ばかりを繰り返し俺は小学生男子みたいに囃す。一向に解決に向かわない俺たちのもとへ、少女の名前を呼びながら、男性が駆け寄ってきた。
「すみません、うちの子がよそ見していて」
「いや、なんか手を擦りむいちゃったみたいで……」
「ああ、大丈夫ですすみません」
男性は素早く手を伸ばし、泣いている少女を抱きかかえる。所作は軽く、さすが世のお父さんは慣れているのだなあと新鮮な気持ちで二人を見た。高岡さんも、しゃがんだまま抱えられていく少女を見上げていた。そう、ただ見上げているように見えたのだ。しかし表情は、ゆっくりと変わっていく。
「高岡さん?」
「……」
「たか……」
しゃがみこんだまま、親子を見上げて固まってしまった高岡さんに声をかける。しかし返答はなく、変わりにお父さんのほうが、その名字に反応した。
「あぁ……拓海か」
若いお父さんだった。俺たちとさして年齢も変わらないだろう。そしてここは高岡さんの馴染みの土地で、名前を呼ばれた高岡さんはいまだ硬直したまま。
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