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【3】14

声をかけられた瞬間の緊張が伝わってしまったのか、お母さんは話しはじめることを躊躇したらしく、うやむやにしておもむろに台所へ立った。とりあえず後について、野菜を洗うお母さんの背中を見つめる。 「夕食の準備ですか?」 「そう、じゃがいもを貰ったから煮ようかなって。本当はチーズがあればグラタンにでもしたいんだけど」 「あー、いいなー美味しそうですね。食べてみたいです」 「……ふふ」 「え?」 「なんだか新鮮だわ。食べてみたい、なんて久しぶりに言ってもらっちゃった。亜澄はいつも『わたしがやるから座ってて』って言うの」 「あ! て、手伝います! って言っても俺、ロクなことできないですけど……!」 「いえいえ大丈夫よ。そういう意味で言ったんじゃないの」 「でも、身体……!」 「……拓海から聞いた?」 「え、あ」 「ごめんなさいね。格好悪い話を聞いたでしょう。……わたしね、後悔してるの。なんて情けないことをしたんだろう、って、思い出すだけで顔から火が出そう。子供たちを置いて死んでしまおうなんて、母親なら普通は考えつかないことよ。あのときは本当に、どうかしてたの」 「いえ……でも、そうなるのも無理ないと思います。高……拓海さんも、亜澄ちゃんも、お母さんも、それぞれにつらい思いしてるだろうし……なんていうか……」 心に響くように伝えようとすると、すぐ言葉に詰まる。言いたいことは確かにあって、でもそれは泥のように、入ったり来たりしては結局内臓の奥底に沈む。 「わたしはつらくないはずなの、あの子たちに比べれば……でもだめね、身体がいうことをきかないの。本当に情けないわ。拓海だって、私が気づかないでいるあいだもずっと一人で抱え込んで、つらい思いをしていたのにね」 微熱を帯びて揺れるお母さんの声を聞いたらただ黙っていることは出来なくなってしまう。目に見えない「つらさ」の比較なんて不要だとか、母親だろうと子どもだろうと大人だろうとすべて手放したくなることがあったって構わないだとか、言いたいことはいくつもあったが、どれも差し置いてどこかのタイミングで聞きたかった核心部分に、触れてしまうしかなかった。 「た、拓海さんが……、自分は『そう』だって言ったとき、やっぱりショックでしたか」 ゲイ、とか男が好き、とか、分かりやすく表現しようとすれば随分乱暴な言葉遣いになってしまいそうで、結局あいまいな表現に落ち着いた。お母さんは肩越しに少しだけ振り返り、言葉を受け取ったあとゆっくり時間をかけてもう一度手元に目線を落とす。悩んでいるような表情だが、意図が伝わらなかったわけではないようだ。 「……どうかしら。よく思い出せないけど、やっぱり驚いたのかなあ。これまで、『そう』かもなんて思いもしなかったから。でもわたしより、主人の方が激怒しちゃってね。頑固な主人に影響されるようなかたちで、一緒になってあの子の生き方を非難してしまったこともあったし」 大人が、学生時代の失敗を恥じながらも贖罪のため話題にあげるような密やかな言い回しだった。俺はと言えば今まさに学生で、子供で、気の利いた返事なんてそもそも手札にないのだ。 そのときお母さんがふいに、小さく笑い出した。 「拓海がね」 「え?」 「すごく優しい顔をするようになったの。春ごろから、突然」 「あ……それ、亜澄ちゃんも言ってました」 「そうなの? わたしね、ちょっとしつこく聞いちゃったの、どうしたのって。なにかいいことがあったんだろうって、どうしても気になったからね。そうしたら、恋人が出来たって教えてくれて、同時に謝られたの」 「え?」 「恋人が男だから、って」 喉が引きつった。高岡さんが、唇を噛みながら重要な過ちを詫びる姿が、容易に想像できてしまった。 「あの子『そういう話』でお父さんと散々もめてたから、ずっと後ろめたい気持ちを持って誰のことも好きになれなかったんだろうな、って、謝る姿を見て気がついたの。だからわたしは『謝ることなんてなにもない』って言ったのよ。『あなたが、本当に好きな人と幸せになってくれればそれでいい』って。だって、自分は情けないことをしておいて、息子の幸せを否定する資格なんてないじゃない」 あまりに思慮深い親子関係に、この家庭の中で高岡さんの人柄が構築されてきたのだと実感してしまう。そして、何かを思い出したらしいお母さんはもう一度ふふ、と小さく笑った。緊張した空気を破るような、無邪気な笑い方だった。 「今日、伊勢さんと会ったときね」 「は、はい」 「あの子ね、困ると鼻を触るの。鼻を触りながら、恋人だって言ったでしょ。だから本当に、伊勢さんのことを大切にしてるんだなぁって」 「……へ?」 「あの子不器用だから、自分が今幸せなことを後ろめたく思ってるのよきっと。それで困っちゃったんでしょうね。……あれ、そういえばあの子は今なにしてるの?」 「あ、あぁ、多分自分の部屋にいると思いますけど……」 「やだ、喧嘩でもしたの?」 「いや、喧嘩っていうか、うーん……」 「あの子だって伊勢さんと楽しくデートしたかったでしょうに、急に買い物頼んだからすねちゃったのかしら」 「いやいやいや、そんなんじゃないです!」 「あの子主人に似て頑固だし、私に似て情けないからね。これから先、あなたをずっと振り回すかもしれないけど勘弁してね」 コンロの火がついて、温まった鍋を油が滑る心地の良い音が広がる。細い声の余韻がまだ残っている。これから先。 「さっき、私の作るものを『食べてみたい』って言ってくれたでしょ」 「す、すいませんほんと図々しくて……」 「ううん違う、うれしかったの。本当に、涙が出そうなくらいうれしかった。わたし、ちっとも母親らしいこと出来ていないけれど、あなたたちのお母さんでいていいんだなって」 これから先、そして、あなたたち。言葉はごく自然に、俺を迎え入れていた。 「あなたが来てくれたら言いたかったことがあるの」 「なんですか……?」 「あの子を幸せにするっていうのは、私たちには出来なかったことなの。面倒くさい子だけど、見捨てないでやってね」 空気が優しく冷え、窓の外で夜の虫が鳴きはじめる。きっと、はじめて聞く音であったが、妙な懐かしさを呼び錯覚する。高岡さんも、そして俺も、かつてはこの場所で過ごしていたのではないか、今日の日まで忘れていただけなのではないかと錯覚してしまうほど、肌によく馴染む夜だ。

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