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 ピアニストは、何とアポロンだったのだ。見間違いではないか、と百合人は何度も目をこすった。だがそれは、やはりアポロンに違いなかった。忘れようにも忘れられない印象的な瞳と、整った顔立ち。彼と会うのは、南原に失恋した時以来である。あの時との唯一の違いは、服装だ。今日の彼は薄布ではなく、きちんとしたスーツをまとっていた。いや、もう一つある。周囲の人々は、彼が見えているらしかった。 「あなた、何?」 「(あかつき)さんの知り合いなの? 今、アポロンとか言わなかった?」  女性客らが、不審そうに百合人を見る。どうやらアポロンは、ここでは暁という名前で働いているらしい。 「い、いえ! えーと、その、ギリシャ神話のアポロン神みたいに素敵だな、と言おうとして」  女性らは、一瞬怪訝そうな顔をしたものの、納得したようにうなずいた。 「あー、あの月桂樹の冠かぶってる神様ね。確かに似てるかも」  月桂樹というワードに、アポロンのこめかみが引きつる。おまけに別の女性が、余計な一言を継ぎ足した。 「そりゃ暁さんはカッコいいけど、神様には負けるでしょ~」  ――同一人物なんだって!  いや『人物』とは言えないか、などと混乱した頭で考えていると、アポロンは咳払いをした。 「そろそろ演奏を始めたいのだが」 「あっ、ごめんなさい! 聴かせて」  女性陣のお願いにやや機嫌を直したのか、アポロンはピアノ演奏を始めた。驚いたことに、現代の流行歌のメドレーだった。人気アイドルグループのヒット曲など、音楽にうとい百合人でも知っている、有名なものばかりだ。いつの間にマスターしたのか。 「素敵~」  女性らは、うっとりしている。確かにその腕前は、見事なものだった。そりゃそうだよな、と百合人は思った。アポロンといえば、音楽・芸術の神でもあるのだから……。

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