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 走って橘の研究室にたどり着くと、ドアには『不在』の札が下がっていた。室内は真っ暗だ。さっきのあれが幻であってくれれば、と百合人は祈った。  ――でも……。  そっと、ドアに耳を押し当てる。すると微かながら、笑い声が聞こえてきた。間違いない、と百合人は思った。中には、人がいる……。  ドンドン、とドアを叩く。とたんに、笑い声が止んだ。だが、誰も出て来る気配はない。百合人は、大声でわめいた。 「橘先生! そこにいらっしゃるんでしょう!」  ようやく、ドアが開いた。細い隙間から顔をのぞかせたのは、橘だった。シャツの前ははだけ、あわてて羽織ったのは一目瞭然だった。 「百合人君? 悪いけど、今は研究に集中していて……」 「浅野君とですか」  言うなり百合人は、橘の不意を突いてドアをこじ開けた。案の定室内には、浅野の姿があった。ほぼ全裸でソファに横たわっていた彼は、ぎょっとした様子で身を起こした。 「……まあ、バレたら仕方ないか。こういうことだよ」  開き直った様子で、橘が言う。未だかつて聞いたこともない、冷たい声だった。 「……ひどいですよ」  百合人は、涙があふれそうになるのを必死でこらえた。足は震え、立っているのがやっとだった。  

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