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第5話
「お、おい、白帆 」
白帆は背中を揺らし、しゃくりあげていて、舟而 は白帆の隣に膝をつき、銀杏鶴紋の手拭いを差し出す。
「白帆、何があったんだい」
手拭いを両目にあてて、白帆はさらに声を上げて泣く。
舟而はただ肩を撫でたり、背中を擦ったり。しかし白帆は泣くばかりで、いっこうに埒が明かない。ついに策尽き果てて、白帆を自分の胸に抱き寄せた。
「何があったんだい。泣いてばかりじゃわからないよ」
おかっぱの黒髪に頬を押し付けながら訊くと、白帆は震えながら深呼吸を繰り返し、ようやく口を開いた。
「何も、何もわからなっちまったんです。声が出ないだけじゃなく、女踊りまで踊れなくなっちまいました」
「どういうことだ? 怪我でもしたのかい」
舟而は白帆の滑りのよい黒髪を優しく撫で、白帆は撫でられている頭を小さく左右に振った。
「女らしく見える身体の動かし方が、全くわからないんです。勘どころを外しちまうんです。何をしても裏目に出て、上手くいきません。今まで一度もわからないなんて思ったことはないのに、できない人の気持ちがわからないって思い上がっていたのに、今はできる人の気持ちがわかりません。自分ができないってことしか、わからないんです」
白帆はしゃくり上げながら話すと、また泣いて、舟而は髪を撫で続けた。
「なるほど。親方には何と言われた?」
「全部休めと言われました。芝居から……っ、芝居から離れろって!」
こみあげて、さらに激しく泣く白帆をしっかり抱いた。
「心配しなくていい。一つのことを真面目に長く続けていると、そういうときが必ずある。僕だってたった十年しか作文していなくても、小説が書けなかったときがあった。親方が言う通り、今は休むのが得策と思うよ、白帆」
「休んで、治るんですか。声もだめで、踊りもだめで、何もかもだめになっていくばっかりで、治るように思えません。舞台に立ちたいです。一人前の女形になりたいです!」
白帆の一言一言がひりついて聞こえ、舟而は堪らない気持ちになった。
「大丈夫、大丈夫だ。僕は小説を書けるようになった。白帆も舞台に立てるようになる。僕が約束する」
「先生……っ」
「心配しなくていいから、まずは甘い物を食べなさい。羊羹は好きかい」
「好きです」
お夏を呼ぶと、白帆の前に分厚く切った羊羹を三切れも運んできた。
「はあっ、美味しい」
羊羹を一口食べるなり、白帆は子供のように笑い、舟而は苦笑した。
「そんなに甘いものが好きか?」
「はい、とても! 産褥熱で母を亡くしたので、父や兄たちに麦芽糖と練乳を与えられて育ちました。だから私は甘いものが好きなんだろうって言われます」
あっぱれと言いたくなる食べっぷりに、舟而の口元には自然と笑みが浮かぶ。
お夏も優しい目で白帆を見守り、自然に微笑んでいた。舟而がお夏のこんな穏やかな表情を見るのは、いつ以来だろうか。その表情に舟而は自信を持って、話を切り出した。
「白帆は落ち着くまでの間、親方の家を出て、書生として僕のところへおいで。読書や何かは僕が助けるけど、家の中のことは僕はわからないから、お夏に習ってくれ」
お夏はしっかり頷いた。
「先生はおみおつけの出汁が薄くても、お味噌が濃ければ気づきませんし、あぶらげの焼いたのや、林巻大根 、ときどきコロッケがあればお喜びです。簡単なお方だからご心配なく」
「簡単って言い方はあんまりじゃないか。なあ、白帆?」
舟而が拗ねた声を出すと、白帆は明るく笑った。
「女にしてくれ、なんて言うから、焦ったよ」
白帆を荷造りのために親方の家へ帰してから、舟而は土間と廊下の段差に座り、昼食の準備をするお夏に事の次第を話した。
「舟ちゃんこそ、女にしてあげたかったんじゃないの? 一瞬でも期待しちまったから、焦るんでしょ」
お夏は味噌汁を温めながら、横目で舟而を見る。
「そんなんじゃない。ただ、あの年頃でそんな思い詰め方をするのかって……」
「白帆ちゃんは、舟ちゃんに女にしてもらおうって、本気で思い詰めて来たんじゃないの」
「まさか」
「八百屋お七は『十六になります』って枕を交わしたんでしょ。白帆ちゃんだって十五だって言ってたじゃないの。そういうことを考えても自然よ」
お夏はいたずらっぽく笑った。
「でも惚れてるでしょ?」
「は? 誰が? 誰に?」
舟而はむきになって強い声を出した。お夏はとりあわず軽い口調を続ける。
「舟ちゃんと白帆ちゃん。相思相愛よね」
「何を馬鹿なことを。どっちも、どっちにも、惚れてなんかない。教え子と教師みたいな年齢だぞ」
「だから何なの? 白帆ちゃんは教え子じゃないし、この世には、もっとやっちゃいけない恋なんていくらでもあるでしょ。白帆ちゃん、いい子だと思うけど」
お夏は厳しい声を出した。
「あんた、いつまで過去を引きずってるの? いい加減に前を向きなさいよ。後ろには何も落っこちてないの。幸せは前にしかないのよ」
舟而は勢いよく立ち上がった。
「出掛けてくる。昼はいらない」
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