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第6話
「お夏ちゃんのわからず屋。僕だって前は向いてる」
舟而 は、土手で煙草を一本吸って気持ちを落ち着けると、浅草暁天町の躍進座へ行き、親方に事の次第を話した。
「ということで、白帆 の気が済むまで、僕のところでお預かりしたいんです」
親方は煙管から吸い込んだ煙を吐き出しながら、何度も頷いた。
「先生はお忙しいし、ご迷惑だからやめろと何度も言ったんですがねえ。白帆は良くも悪くも一本気で、相済みません」
「いいえ。一本気だからこそ、一人前の女形になるという高い目標に目が向いて、目の前のことを見失ってしまうんですね。なるべく肩の力を抜いて、足元のできることをやらせるようにします。では、これで」
「お願い致します。白帆を女にしてやってください」
舟而はその言葉に引っ掛かって、浮かせかけた腰を落ち着けた。
「親方、『女にしてくれ』って白帆も言ってたんですけど、何か役者さんたち特有の言い回しですか」
「いいや。そのままの意味ですよ。白帆は『女にしてもらうなら、舟而先生がいい』と言い張ってます。面倒をみてやってください」
舟而はどちらとも返事をせず、本所区竹之郷町の借家へ帰った。
「先生、おかえりなさいまし!」
嬉しそうな笑顔で、白帆が玄関に出てきて膝をつく。
「ああ、ただいま。親方には話をしてきた。白帆の気が済むまで、僕のところにいなさい」
「はい! 至りませんが、どうぞお願い致します!」
「お前は、もう荷物を持ってきたのかい」
「はい。俥 を呼んで、自分と荷物を一度に運んでもらって済ませました」
「なるほど。……ああそうだ。張り切るのもいいけど、ほどほどにしなさい。そうじゃないと、わざわざ親方のところを出て、僕のところへ来た意味がないからね」
白帆の頭をぽんぽんと撫でて通り過ぎた。
お夏は姿を見せず、舟而もわざわざ探して声を掛けることはせず、手水を使って書斎へ入った。
自分の個人的な感情や迷いとは別に、約束の仕事は果たさなくてはならない。
舟而は毎週月曜日から土曜日まで、日日新報の文化欄に『芍薬幻談 』を連載している。夜な夜な百花園で逢瀬を重ねる男と女。その楽しさ、切なさは、果たして夢か現 か。
連載終了まであと三か月。読者からの声を考慮しつつ、その声を気持ちよく裏切れる着地点を探しつつ、万年筆を走らせる。
「先生、失礼します。焼きおにぎりを作ったんです。おやつに召し上がってください」
白帆が運んできた醤油味の焼きおにぎりは、中までしっかり味が染みて、表面は少し焦げ目がついて、ぱりっとした歯触りの香ばしさがある。
「うん、美味い。白帆が作ったのか?」
「はい」
そう言えば、昼飯を食べていなかった。お夏に見抜かれ、白帆が差し金として仕向けられたかと思うが、いちいち確認するのも癪に障る。
何も訊かず、ただ目の前の白帆手作りの焼きおにぎりを堪能した。
「とても美味しいよ。また今度作ってくれ」
「わかりました。嬉しい!」
あっという間に全部を食べ終え、温かいほうじ茶を飲んで口の中をさっぱりさせると、舟而の気持ちも落ち着いた。
「白帆、一つ訊いてもいいかい。今朝、『女にしてください』と言っていたけれども、それは一人前の女形として必要なことなのかい」
白帆は朱を掃いたように顔を赤らめ、お盆を胸に抱えたが、逃げ出すことはしなかった。
「はい。……男と女の夜のことを知らないままでは、演じ分けが難しいんです。
例えば結ばれる前と結ばれた後では、恋仲の二人の身体の寄せ合い方は違うと言われますけど、その意味も理由も見当がつきません。
だから、せめて『芸の肥やし』としてでも、お願いしたいです」
「なるほど。僕は結婚するつもりはなくて、特定の相手を定めるつもりもない。だから本当に『芸の肥やし』の部分にしか協力できないけど、それでもいい?」
白帆は頷きながら話を聞き、一呼吸置いてからきっぱりと頷いた。
「はい」
「僕でいいんだね?」
「先生がいいです」
「わかった。夜のことは頭に入れておく。まずはこの家に慣れるところから始めて、追々考えよう。焼きおにぎり、本当に美味しかったよ。ごちそうさま」
舟而が笑いかけると、白帆もぎこちなく笑った。
「白帆、いずれの夜の約束として、証文に判子を捺そうか」
舟而は白帆の手首を掴んで引き寄せると、自分の腕の中へ抱いて、熱くなっている頬へ唇を押し付けた。
「ひゃっ!」
「白帆も僕の頬に判子を捺して」
頬を差し出すと、腕の中で伸び上がった白帆の唇で、そっと約束の印が捺された。
白帆の唇が頬に触れると、舟而の身体には喜びが湧き上がって、舟而は白帆を抱き締め、黒髪に自分の頬を擦り付けた。
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