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第7話
結婚しない、相手も定めない。それが自分で自分に課した戒めだ。
しかし、一度腕の中へ抱いてしまった白帆 を手放すことはできなかった。
十一歳の年齢差、十五歳の白帆、自分への戒め、この家のどこかにいるお夏、窓の外の健康的な午後の光、路地で遊ぶ子供たちの無邪気な声。
自分にいろいろな現実を言い聞かせるが、効き目は薄い。
「先生……」
熱い吐息混じりの小さな声は、艶ととろみを帯びていて、舟而は一層強く抱いてしまう。
「白帆」
視線が合って、磁石が引き合うように唇同士が近づいたとき、ガラリと玄関の開く音がした。
「ごめんください、日日新報 の日比 です」
舟而は肩を震わせて現実に戻り、一緒に驚いた白帆と二人で顔を見合わせてから、はじけるように笑った。
空気が緩んだ安堵から、なかなか笑いが収まらない。
「こんなに笑ったのは久しぶりだ! わはははは」
「あはは。私もです! 先生っ、笑いすぎですよっ」
「だって、とても緊張していたから」
「緊張されてたんですか? あはは」
「そりゃ、緊張もするよ。わはははは」
舟而は身体を二つに折って笑い、白帆はその背中をぱたぱたと叩きながら腹を押さえて笑う。
「先生、日日新報の日比様がおいでです」
お夏の声に、舟而はようやく立ち上がり、白帆の手を引いて立ち上がらせて、書斎を出た。
「『芍薬幻談』が好評なので、連載を延ばして頂きたいんです」
「もう話は終盤に差し掛かっているのに、強引だなあ」
「承知しています。ただ上司から是が非でも頼み込んでこいと命令されてきまして。できれば半年」
「半年っ?」
「延長分は原稿料を五割増しにさせていただきます」
「原稿料も大事だけど、それよりどうやって半年も話を膨らませるか」
舟而は腕を組んで嘆息し、白帆が塩味のあられを並べてくれるところへ、声を掛けた。
「白帆。お前の一番好きなお菓子は何だい?」
「甘い物なら、何でも好きです。選べません」
「食べたいものがあったら、日比君にお願いしていいよ。持ってきてくれるそうだから」
舟而は弓形に目を細めていたずらっぽく笑い、日比は細い銀縁眼鏡の向こうで苦笑した。
「お持ち致しましょう。……ところでこちらの方は」
「躍進座の女形で、今日から家で預かることになった書生だよ。白帆、ご挨拶しなさい」
白帆は畳に膝をつき、左右の袂をさっと外側に振って、膝の前に細い指を揃えて手をついた。
「躍進座の銀杏白帆にございます。お見知り置きを」
こなれて無駄がない、すっきりとした所作に、日比は目を丸くして一呼吸ついてから、ようやく言葉を紡いだ。
「やあ、これは。芍薬や牡丹とは言わないが、百合や水仙のような華がありますな。将来が楽しみだ」
「恐れ入ります」
白帆はもう一度会釈をすると立ち上がり、滑らかに襖を閉め、敢えて最後に小さく襖が閉まる音を立てて、客間から出て行った。
「役者というのは、間近で見ると凄いですね」
「ああ。だが可哀想に声が落ち着かなくてね、舞台を休む間、僕のところで気晴らしさせることにしたんだ。甘い物に目がないようだから、ときどき構ってやってください」
みつ豆や羊羹を食べたときの笑顔を思い出し、釣られて笑んでしまった顔を、茶碗を口に運んで隠し、気持ちを切り替えた。
「さて、新聞にはどこまで掲載されているんだっけ?」
「今日は主人公の修平が百花園の井戸の中へ梯子を掛けるところまでです」
「そこなら区切りはいいな。この先の展開を書き換えよう。あと何時間ある?」
「明日の文化欄までには、あと五時間ですが」
「わかった。それまでには原稿を渡せるようにする」
舟而は書斎に戻った。書き損じの原稿用紙の裏に登場人物の相関図を書き直し、物語の流れを箇条書きして、半年分のエピソードを書き加える。
おおよその目処をつけたところで、原稿用紙に万年筆でいきなり文字を書き入れる。
一日分の原稿を書き終えて読み返し、さらに音読して修正して、顔を上げたときには空が茜色に染まっていた。
手元に原稿がある間に翌日分の原稿まで書いておきたいと思い、さっそく取り掛かろうとしたが、日比がやって来た。
「これでどうかな」
日比は静かに原稿に目を通した。
「はい。頂いてまいります」
「当面は毎日原稿を取りに来てください。とても一週間分を書き溜める余裕はないからね」
「明日、午後四時にお伺いいたします」
それだけ言うと、日比は走り去って行った。
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