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第25話

 しばし白い霧の中で浮遊感を味わって、ゆっくり目を開けると、舟而(しゅうじ)の腕の中にいた。 「大丈夫かい、白帆(しらほ)」 湿った髪をゆっくりと手櫛で梳きながら、舟而は白帆のこめかみに接吻する。 「はい。………あらしの海に浮かぶ舟の上にいたよな心地でした」 「怖かったかい」 「いいえ。先生と一緒でしたから」 舟而は表情を緩めると、白帆を抱き締めて、額や目蓋や頬や鼻の頭や唇や顎に、雨を降らせるように次々と接吻した。  海の底へ引き込まれるように眠って、心地よく目覚めたら朝になっていた。  隣では舟而が薄く唇を開き、深い寝息を立てている。  身体には、まだ舟而の感触が熾火(おきび)のように残っていた。 「本当に結ばれちゃった……」 白帆は頬を両手で挟み、俯いた。 「いけない。悟られないように、きちんとしなくちゃ」  白帆は目覚ましを見ると、名残惜しみつつ、布団から抜け出て、手水を使い、固く衿を合わせて身支度を整え始めた。  鏡を見ながら、柘植の櫛でおかっぱの黒髪を梳いていたとき、腰に逞しい腕が絡んで、背中が温かく重たくなった。 「おはよう、白帆」 「お、おはようございます……」  鏡越しに映る舟而は眠たげな目で、白帆の肩に顎を乗せ、口を突き出していた。 「初めての朝なのに、後朝の文も書かずに出て行くのかい?」 「ええっ、現代でもお手紙が必要なんですか。私、歌なんて詠めませんけど」 白帆が目を丸くして振り返ると、舟而は目を弓形に細めた。 「冗談だよ。現代の後朝の文はこれでいい」 舟而は白帆の唇に自分の唇を触れさせた。  そのまま舟而の腕に抱かれて、胸に頬を押しつけ、舟而が白帆の髪に頬ずりをしていたとき、土間から朝餉の仕度をする物音が聞こえて、白帆は顔を上げた。 「朝ごはんの仕度しなくちゃ!」  頭上で鈍い音がして、舟而が顎を押さえていた。 「あ、先生!」 「睦まじくしているときに、急に動くなよ」 「すみません。手拭い濡らしてきます」 「大したことはないから、手拭いはいらないよ。お夏を手伝っておいで」  白帆は改めて、柘植の櫛で髪全体を手早く梳くと、舟而の頬にふわりと接吻して、土間へ出て行った。 「お夏さん、おはようございます!」 白帆の声はまだ掠れているが、迷いのない明るい調子だった。  空は雲一つなく晴れていて、白帆は洗濯に勤しんだ。  二人が肌を重ねた敷布、脱ぎ捨てた寝間着、解いた下帯。  舟而は汗で湿った布団を縁側に広げて陽に晒し、そのまま縁側に腰掛けて、白帆の洗濯を見ていた。 「先生、お散歩はよろしいんですか」 「白帆の洗濯が終わったら、一緒に行こう」 「かしこまりました」 洗濯物を干し竿に掛けて高く掲げると、昨夜のことが白昼堂々、万国旗のようにはためいた。  白帆は頬を赤らめて俯き、舟而はそのおかっぱ頭をぽんぽんと撫でる。 「眺めていても照れくさいだけだから、さっさと逃げ出そう。お前さんの下駄を買いに行くよ」  多くの人が行き交う吾妻橋を渡って浅草へ行き、舟而は白帆に言った。 「お前さんの贔屓の店へ連れて行っておくれ」 白帆は浅草寺の裏手にある間口の小さな店へ行った。 「ごめんくださいまし。こないだはありがとござんした」  店の名前が入った半纏を着た初老の男性が笑顔を見せる。 「白帆丈、今日はどんな御用向きで」 「新しい駒下駄を一足、誂えたいんです。せっかく歯継ぎしていただいたのに、大川に流しちまって」 「おやおや、流れたのが片っぽなら良縁に恵まれますよ。両方ならよい厄祓いだ」  慰めを口にしつつ、白帆の好みと足の大きさといつもの予算をしっかり覚えていて、候補の台を並べてくれる。  白帆はいつも細身の台の表に等間隔の柾目(まさめ)の板を貼り付けた貼柾(はりまさ)を使っているので、今日も細身の貼柾の台が並び、お愛想に一つ二つ目の間隔が広い本柾(ほんまさ)も見せてくれた。 「旦那、もっと目の詰まった繁柾(しげまさ)はありますか」 舟而が口を出した。 「ございますよ」 「ひとつ、履かせてやりたいように思うんです。見立ててやってください」 舟而の言葉に、店の旦那は棚を調べ、一組の台を持ち出した。 「こちらはいかがでしょう。左右くっつけたときに木目が合う、合目(あいもく)ってやつです」  白帆は手に受けて、縦にすんなり流れている木目が左右連続している様子を見た。 「同じところから左右まとめて材をとったってことですか?」 「そうです。これだけ目の詰まった等間隔の繁柾を左右一緒に切り出すのはなかなか難しいですよ」 「頃合いだね。これに鼻緒をすげてもらいなさい」  舟而の一言で台が決まった。 「鼻緒はいかがいたしましょうか。ずっと本天でしたけども……」 「肌あたりがいいから、やっぱり本天がいいな」 いくつもの箱を棚から持ち出し、台の上に乗せ、白帆の足の甲にも重ねてみて、旦那は強く瞬きをした。 「おや。何かいいことでもあったんですか。ぽやぽやした天鵞絨(ビロード)なんかじゃ野暮ったいように見えてダメですね」  店の主人は白い鹿革に紺色の漆で蜻蛉模様を置いた印伝の鼻緒を取り出した。 「印伝? そんなの!」 「いいじゃないか、白帆。勧めてくださってるんだから、合わせてご覧」 「ほら、丈のすんなりした足にぴったりだ。大人になりましたね」  鼻緒をすげてもらって履くと、足元から百合の花の香りが立ち上るような色気があった。

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