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第33話

 払暁(ふつぎょう)舟而(しゅうじ)白帆(しらほ)は旅支度をして、(くるま)で新聞社へ行き、夜が明けきらぬうちから文化部の日比のデスクを訊ねた。 「『芍薬幻談』最終回までの原稿、確かに頂戴致しました。長期間にわたる連載、お疲れ様でございました」 「こちらこそ世話になった。ありがとう」 言い合う二人の顔はどちらも晴れやかでなかった。  日比は昨夜と同じ三つ揃いを着ていて、どうやら新聞社に泊まり込んだらしい。 「支局に問い合わせました。お伝えしたいことは二つあります」 声は硬く、充血した目を何度も瞬きしてから言葉を続けた。 「まず一に、この旅館と住所は存在しません」 「ええっ?!」 「そうだろうね」 驚いたのは白帆だけで、舟而は顔色一つ変えることなく小さく顎を引いて頷いた。 「それから……」  日比は新聞の最下段にある小さな記事を青鉛筆で囲んだものを、舟而に向けて差し出した。 「これは地方版の記事です。全国版には掲載されていません」 ----- 【五面(いづら)】五日午前七時〇五分頃、五面海岸の松林に於て、真つ白な着物を着た女の変死体があるのを散歩中の旅行客が発見した。警察が調べたところ、多量の睡眠薬を服用していた。足は死してなほ乱れぬやふに心がけたものであらうか腰紐で束ねられてゐて、抵抗した様子は見当たらなかつた。袂に薬の空き瓶が入つていたが、その他所持品はなく、女は身元不詳のまま五面警察署に収容された。 ----- 「発見が五日の朝、つまりは四日。お夏が出立(しゅったつ)した日じゃないか」  舟而は嘆息した。地蔵菩薩の前で白帆の下駄の鼻緒が切れたことを思い出す。 「記事には書いていませんが、身長は三尺八寸、体重は十三貫、綸子の雲紋様の白い着物を着ていたそうです」  白帆はもう両手で顔を覆って泣き出していた。舟而はゆっくり深呼吸して背筋を伸ばすと、白帆の背中に手をあてた。 「白帆はやっぱり留守番していなさい」 「嫌です。先生と共に参ります! こういうときほど離れず一緒にいるものでしょう!」 「でも、僕は気が進まないよ」 「じゃあ、先生一人でその傷を負われるおつもりですか! そんなのもっと辛いじゃありませんか。先生と私は一蓮托生です。私も一緒に参ります!」 泣きながら舟而を睨む白帆の姿に、舟而は腕組みし、天井を見上げ、次に足元を見下ろし、しばらくじっとしていたが、ゆっくり顔を上げた。 「わかった、一緒に行こう。一蓮托生だ」  日比が名刺を二枚くれた。日日新報本社 編集局文化部 記者、日比燿一と印刷された余白にそれぞれ、小説家 渡辺舟而先生 御紹介申し上げ候、躍進座役者 銀杏白帆丈 御紹介申し上げ候、と書かれていた。 「何かのお役に立つかも知れません。支局でも、警察でも、どこでもお使いください」 「ありがとう。大変助かる」 舟而は深くお辞儀をし、白帆も一緒に頭を下げた。  日比は黙って頭を左右に振った。 「わたくしにできることをしたまでです。道中お気をつけて。人違いであることを祈っています」 「先生、お弁当食べましょ……」  白帆は途中の停車駅で、黄色地に青で波千鳥の絵を描いた掛け紙の駅弁を買ってきた。経木(きょうぎ)の箱に入っていて、掛け紙には『上等御辨當(弁当) 定()金参拾伍銭 空箱は腰掛の下へ御置き下さい』と書いてある。 「お茶もございますよ」  持ち手が針金で、蓋をひっくり返して茶碗として使える汽車土瓶(きしゃどびん)も二つ持っていた。  赤い梅干と黒ごまが乗ったご飯と、焼き魚や煮物が詰め込まれたお菜の二段になった上等な弁当だったが、何を食べても味の良し悪しははっきりせず、二人はただ身体を養うために食べた。  『芍薬幻談』を書き上げるために徹夜した舟而の頭を、白帆は自分の肩に誘う。 「少しお眠りになった方がよござんす。五面に着くときには私が起こしますから」 舟而は素直に白帆の肩に頭を載せて目を閉じたが、一向に眠気は訪れず、あべこべに目尻に行くほど長い睫毛を下ろし、赤く艶やかな唇を緩めて俯く白帆の頭を自分の肩に()りかからせて、五面駅に到着するまでの時間を過ごした。  五面温泉は海に面し、白い砂浜と松林が広がって、白砂青松(はくさせいしょう)の言葉そのままの美しいところだった。 「着物の裾にでも描きたいよな景色ですね。この潮風にあたったら、どんな病も治っちまいそうなのに……」 白帆はおかっぱの黒髪を潮風に吹かせながら、切れ長の目尻に溜まった涙を指先で拭った。

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