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第35話
案内されたのは、お座敷には程遠い、じめじめとしたコンクリートの小間だった。
壁も床も天井も全部が冷たいコンクリートで、高い場所にある小さな窓には鉄の棒が等間隔に嵌っていて、とても居心地がいいとは言えない。
しかもどこかの部屋からは、喧嘩している猫のようなぎゃあぎゃあいう女の叫び声が聞こえてくるし、舟而 は白帆 と引き離されて奥の方へ連れて行かれてしまった。
白帆は丹田 にぐっと力を込めて、一人コンクリートのお座敷に用意された粗末な椅子に座った。
目つきの悪い背広は舟而を連れて行ったので、白帆の前には羽二重餅 のような若い男が座った。
「安物の茶ッ葉だけど、よければ」
大量生産の廉 い茶碗に淹れた色の薄い茶を出してくれた。
「さて、躍進座の二代目銀杏 白帆さん。決まりなんでね、戸籍を調べさせてもらったよ。本名も銀杏白帆さんっていうんだね」
「はい。私が生まれたときに、初代の次兄が、当たり役に恵まれる運のいい名前だってんで、私にこの名前を譲ってくれたのだそうです」
「ほう、ほう。初代の弟さんなのか。てっきり息子さんかと思ってたよ」
「年が離れていますので、よくそうおっしゃる方があるんですけども兄弟なんです」
「初代も本当にいい女形だねぇ。水も滴るってのは、お兄さんのことだよ。二代目のあなたはすっきりした水仙の花みたいに美しい」
羽二重餅は目も口も糸のように細くして笑った。
「芝居にお詳しいんですか」
「好きだねぇ。本当は東京に住んで『今日は銀杏座、明日は躍進座』なんて言いながら、毎日通いたいくらいだけれども、難しいやね。たまの休みに汽車に乗って芝居小屋を見て歩くのが楽しみなんだ。『夢灯籠 』は中日 に観たよ。やあ、あれは脚本もよかったし、演じてるあなたも新しい感じがしてよかったし、名作だったねえ」
「嬉しいです。ありがとうございます。先生にもお伝えします」
白帆は丁寧に頭を下げた。羽二重餅はにこにこ笑いながら、カルタのように数枚の写真を机に並べる。
「これ、ウチの管内で扱ってる身元不明の女の写真なんだけどね。この中にお夏さんはいる?」
見せられた写真は五枚あった。
どこか宙を見ている若い女性と、全身に泥のようなものがついたまま目を閉じている中年女性、頸に包帯が巻かれている少女、ぶよぶよ肥った顔をした年齢がよくわからない女性、そして静かに眠っているお夏。
「これです、この寝ているのがお夏さんです」
「ふむ。着物も見覚えある?」
今度はお夏の全身写真を見せられた。帯は黒留袖を着て写真を撮ったときと同じ、真珠色の地に銀糸で宝相華 文様を刺繍した袋帯と思う。膝は腰ひもで結ばれ、足袋を履いたつま先は揃ってまっすぐに伸びている。
「おそらく、この綸子 でできた着物を着ていると思います」
白帆はお守り袋を差し出した。
「お夏さんが上野駅で別れるときに呉れたものです」
「ちょっと借りてもいい?」
羽二重餅が部屋を出て行き、記録係の男性はこちらに背中を向けたままで、白帆は机の上の写真を改めて見る。
「どうしてお夏さんが寝てる写真なんて……」
首をかしげて、すぐに合点がいった。そう思ってほかの四枚の写真も見ると、やっぱりそうで、白帆は思わずきつく目を閉じて手を合わせた。
「お待たせ。神様にお祈りする時間か?」
「いいえ、特に信仰はありませんけど。この方たち、皆さんそうですよね?」
「ああ、そうだよ。怖かったかい、悪かったね。そんなに怖がらなくても、死ぬ前は生きてた人なんだけどね。どうしてこんなことになっちまうのか、やりきれないやね」
羽二重餅は慣れた手つきで写真を集めてまとめ、また廊下へ出て行く。
廊下で誰かと話す気配があって、部屋に戻って来た。
「では、お夏さんについて話を聞かせてもらおうか。素直に話して呉れりゃ、怖いことは何にもないからな」
羽二重餅は糸のように目と口を細めた。
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