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第36話

 白帆(しらほ)舟而(しゅうじ)に言い聞かせられたとおり、 「お夏さんは芸者になるとおっしゃったので、私と先生はお(はなむけ)にこの綸子の反物を差し上げて、上野駅でお見送りしました。教えて頂いた住所へハガキを書いても戻ってきちまって、不審に思って日日新報(にちにちしんぽう)の方にこの住所を調べてもらったら、実在しない住所だって。そんで、『人違いなことを祈ります』って、あの記事も一緒に呉れたんで、驚いてここまで来ました」 と話した。さらに聞かれるまま、 「ええ、十歳の時にお家のご商売が傾いて、新橋で芸者をされて、そのあと結婚して、でも旦那さんが川に流されて、お腹の赤ちゃんも流れて、それで先生のところの女中になったって聞いてます」 と話したら、もう白帆(しらほ)の口から出るものは何もなかった。  羽二重餅(はぶたえもち)は詰まらなそうに頬杖を突き、親指と中指の爪を突き合わせて、爪の垢をほじるとふっと吹き飛ばし、白帆は身をかわしてよけた。 「ところで、なんで先生は、お夏さんのことをわざわざ女中なんて言い方するんだろうね。実のお姉さんを、さ」 「は?」  白帆が薄く口を開くと、羽二重餅も白帆を真似て、は? と口を開いて見せてからかう。 「あれぇ? 聞いてないの? 沢井夏は渡辺舟而の実姉だよ。生まれてすぐ夏は養女に出されてるけどね。子供のうちならともかく、いい年をして一度も戸籍謄本を見たことがないとは思えないし、本人たちが知らないはずはないんだけどなぁ!」 白帆は深呼吸をした。気取られずに深呼吸する術は舞台の上で身につけている。 「ああ……。だから『舟ちゃんのおしめを換えたこともあるのよ』って、お夏さんは笑ってたんですね。てっきりご近所だからとか、そんな風に思い込んでましたけど」 心掛けてゆったり笑った。  こういうとき、羽二重餅みたいに声を張っては、わざとらしさが出る。白帆は声を押さえ、心がけてゆっくりしゃべった。 「私、お夏さんの歩んでらした人生があまりにもお辛いことだったんで、昔についてこちらから伺ったことは一度もないんです。『先生と姉弟なんですか』って一言訊けば、簡単に教えていただけたかも知れませんね」  そっと切れ長の目を細めて見せた。 「ふん。まあ、生まれてすぐ養女に出てりゃ、本人たちも姉弟っていう気持ちは薄いかね」 「そういう境遇になったことがないので、わかりませんけど」 白帆はさらりとおかっぱの黒髪を揺らした。 「で、あんた、書生ってことは、部屋を与えられて住み込んでるってことかな」 「はい。書生部屋はないので、夜は先生と同じ部屋で寝てますが」 「夜、同じ部屋で寝ているなら、先生が夜中に部屋を出て行くようなことはなかったかな」 「(かわや)へ行くとか?」 「夏の部屋に入っていく姿は見なかった?」 「は? ないです、ないです! 先生はずっと私と一緒に……、その、一緒の部屋に寝ていらっしゃいます」  白帆がおかっぱ頭をぶん回すのを見て、羽二重餅はまたふんと言った。 「わざわざ姉弟であることを隠しているなんて不自然だから、夫婦として暮らしているのかと思ったんだけど」 「そんな関係だったら、私はすぐに分かりますよ」 「お夏さんが誰かと駆け落ちということはない?」 「なかったと思います。先生の身の回りの世話を教えるために、私につきっきりでしたから、逢い引きなんてする時間はなかったはずです」 「先生と夏さんと三角関係の縺れだったんじゃないのか」 「とんでもない!」  今度こそ話すことがなくなって、白帆は調書に名前を書き、拇印を押して、さらに羽二重餅が持ってきた、白帆の役者写真にサインを入れた。 「二代目銀杏白帆丈とこんなに長い時間お話しできるとは、こういう仕事も悪くない」 「そんなふうに言ってくださるなら、よござんした」  しかしそこから長い時間、待たされた。 「先生はまだまだたくさんお話をされているんでしょうか」 「あなたと違って成人男子だ。こちらも細かく話を聞かなきゃならない」 「そうですか。昨日も寝ないで原稿を書いていらして、ただでさえお疲れなのに大丈夫かしらん」 「あなたが先生を心配するなんて、あべこべだね」 「ふふ。先生は、人を心配させる才能もおありなのかも知れません。お夏さんにも、風呂屋のおばあさんにも、八百屋の奥さんにも、煙草屋のおばさんにも心配されてます」 白帆が冷たくなった茶碗に唇を触れさせながら、小さく肩を竦めると、羽二重餅は腹の底から明るくはっはっと笑った。 「それは色男っていうんだよ。色気のある男っていうのは、女を惚れさせるんじゃない、はらはらと心配させるんだ。女は心配させる生き物に弱い。心配して世話するうちに気付けば深みに嵌って、一緒にそこいらの崖から飛び込んだりしちまうんだ。まったく参るよ」 「成る程。警察さんのお仕事も大変でいらっしゃいますね」

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